夜食はうどんに限ります。
夜風に、花がひらりと舞う。春の宵、咲き誇る白色の桜は、圧巻だ。先日船から眺めた桜とは、また風情が違う。あれは昼だったし、御簾ごしだった。
――手に落ちてきた桜の花びらは、乙女の頬のような薄紅色だったな。対して目前の夜桜は美しいが、少し不気味でもあるな、と紫苑は思う。
闇に淡く光るような白い花。まるで見ているものを誘うように、枝を伸ばし咲いている。妖しく美しい光景だが、いまいち浸れないのは、さっきから隣で男がガミガミ言っているせいだろう。
「いいですか陛下! 必ず紫の服を着た女人に花を渡してくださいね!」
紫苑はちら、と横を見た。薄墨色の髪を緩く縛った青年。端正な顔立ちなのだが、常に胃が痛いせいなのか、神経質そうに眉が寄っている。
「わかってる。しつこいぞ蓮宿」
紫苑はそう言って、手に持っていた桜の枝を見下ろした。
ここは王宮の荘園だ。
季節の花々が植えられた荘園のなか、一番目を引くのは樹齢千年にもなる「玲紀桜」。
幹は硬く、普通のさくらに比べて黒々としている。堂々たる姿に、かすかに感じる妖気。
間違いなく国内最古の桜であり、不可思議な伝承もあることから、国の宝と謳われている。そんな桜の下で、蓮宿はいらいらと腕を組む。彼は花を愛でる余裕がないようだ。
「だって陛下人の名前覚えないし、人違いしそうですし」
「ちゃんと覚えている。えーと、ひゃくひめだろう」
「白姫です! なぜ忘れる。ものすごく覚えやすいでしょうに!」
蓮宿の声が高くなる。彼は神経が細かく、男にも関わらず裁縫の才が豊かで、色々なことによく気がつく。
女だったらいい嫁になったろうが、こんな女は嫌だとも思う。ではどんな女がいいのか、考えてみるがピンと来ない。
自分に選ぶ権利はない。花を渡す相手は――花嫁は、すでに決まっている。力ある豪族、藤家の娘、白姫。彼女とは一度顔を合わせた。可愛らしい少女だったように思う。だが、それ以上の印象がない。
「いいですか、玲紀桜を渡す相手は、あなたの奥方になるのですからね! 間違っても侍女とかに渡さないでくださいよ!」
「わかってるわかってる。じゃあ行ってくるな」
小うるさい補佐官を置いて、紫苑はさくらを手に歩き出した。
頭上に満月が出ているので、目を凝らさずとも足元が明るい。紫苑は後宮のある蓮華殿に向かって歩いていた。片手には桜の枝。正室が住まうとされている北棟に、自分が求婚すべき相手はいる。
お会いできて光栄ですわ、陛下──そう言った少女の顔が、なぜかまったく思い出せない。昼食を食べた後だったのか、かすかに香ばしい匂いがしたのは思い出せるのだが。
あれは多分、揚げ餅の匂いだった。揚げ餅はうまい。あの甘じょっぱさは癖になるのだ……脱線しかけた思考を、紫苑は慌てて戻す。
いや、そんなことはどうでもいい。ちゃんと名前を覚えておかなければ。
白姫、白姫、白姫。蓮宿に叩き込まれた名前を頭の中で唱えていたら、ふ、といい匂いが香ってきた。
「……?」
あちらは確か、厨房がある桜花殿だ。頭の中にあった姫の名前がすっ、と消え、自然に足がそちらへ向かう。
厨房の入り口からは、暖かい光が漏れていた。匂いもそちらから漂ってきている。夜食の用意でもしているのだろうか。ふ、と覗き込むと、ばあん、と何かを叩く音がした。
「!?」
「うりゃあああああ」
黒髪を団子に結い上げた細身の少女が、まな板に生地を打ち付けていた。そのたびにものすごい音がする。かわいらしい容姿に似合わない掛け声と力強い動きに、眼が引きつけられた。……小麦粉とは、あんなに力いっぱい捏ねる必要があるのか……。
「よし、こんなもんかな」
少女は小麦のついた手で汗を拭った。そのせいで額が白くなる。そのことに気づかぬまま、彼女は麺棒で生地を伸ばし、五徳包丁でざくざくと均等に切り分けていく。
──おでこについているぞ。
そう言おうとして足を動かしたら、手をかけていた戸がかたんと鳴る。鹿のようにまるい黒目がちの瞳が、こちらに向いた。
「わあ、びっくりした」
紫苑を目にし、少女が肩を揺らす。口を開きかけた瞬間、ぐううう。紫苑の腹が鳴った。少女は瞳を瞬き、尋ねた。
「あなた……おなかすいてるの?」
「あ、ああ」
入って、と言われ、紫苑は足を進める。すると、かぐわしい匂いが強くなった。
「今ね、うどんを打っていたの。食べる?」
「いいのか」
「ええ。少しくらいならいいわ。どうせ余るだろうし」
少女は大きな鍋に湯を沸かし、切ったうどんを掬い上げてさっと茹でた。丼に入れてつゆをかけ、ネギを散らして紫苑に差し出す。
「どうぞ」
一口食べてみると、ふわりとかつおだしの匂いがする。普段食べている、豪奢な食事とはまるで違う。飽きのこない、素朴な味わいだ。
夢中で食べ、つゆまで飲み干す。普段は作法がどうのと蓮宿が騒ぐが、彼は今いない。器を置いて、
「うまかった」
「よかった」
少女はにこ、と笑い、片づけを始める。おでこにはまだ小麦粉の跡がついていた。
まだ丸みを残した頬は、先日見た薄紅色の花びらのように色づいている。いくつだろう。16か、17か。紫苑はそんなことを考えながら、じっと彼女を見ていた。食べ終えたのだから、もう立ち去るべきなのに、なぜか立ち上がれない。
はやく、桜を渡しに行かなくてはいけないのに。
「あなた、文官? でもそれ官服じゃないわよね」
少女に問われ、自分の格好を見下ろす。
紫苑が着ていたのは、求婚儀式用の白い着物だった。王にしては質素ななりだが、よくよく見ればいい生地を使っているとわかっただろう。だが娘は気づかないようだ。
まあ、王がこんなところにいるとは、ふつう思うまい。
「名前は?」
「小狼だ」
少女に問われ、とっさに幼名を名乗った。
「あら、偶然ね。うちの弟と同じ名前」
「弟がいるのか」
「ええ、可愛いのよ」
「君の弟なら、可愛いだろうな」
「あははは、口が上手いわね。宮廷詩人か何か?」
「詩を作るのは下手だ」
「私も。催事を行う楓奥殿に行くと時々詩が聞こえてくるけど、しゃれた言い回ししてないで、花がきれいだって言えばいいじゃない、って思っちゃう」
はっきりした娘だ、と紫苑は思う。荒れた手は、貴族ではない証。
「何か、礼をしたい」
「じゃあ、その花をちょうだい」
少女の視線は、玲紀桜に向かっている。
「それ桜でしょう? さくらの花って食べられるの。家に持って帰って塩漬けにするから」
それはさすがにまずい、と紫苑は思った。これは国宝「玲紀桜」の枝。漬けられては困るし、今から百姫だか千姫だかに渡さなければならないのだ──求婚相手の名前は、完全に頭から消えていた。
「だめ? あ、恋人にあげるものだった?」
「いや」
とっさに否定して、桜を差し出した。
「こんなものでよければ」
「ありがとう。わあ、この桜、すごく綺麗。食べるのもったいないわ」
少女の細い手が、桜を撫でる。指先にできたささくれ。なんども洗うせいなのか、袖口は少し擦り切れていた。玲紀桜を撫でる彼女をじっと見つめながら、問う。
「君の名前は」
「桜玉葉」
少女はそう言って、にこりと笑った。桜玉葉。いい名前だな、と思う。
紫苑は手を伸ばし、袖口で彼女の額を拭った。玉葉が目を瞬いてこちらを見た。
「な、なに?」
「小麦粉が、ついていた」
「やだ、早く言ってよ」
玉葉は赤くなって額を覆った。上目遣いで見られ、むず痒い気分になる。なんだろう、この感じは。
額を撫でていた彼女ははっ、とし
「あ、早く白姫さまのとこに行かなきゃ」
慌ててうどんをよそう。
「ごめん、これ持ってかなきゃならないから」
玉葉がうどんを盆にのせてどこかに行ってしまったので、紫苑は一人で厨房を出た。
なんとなく、高揚した気分だ。蓮宿以外と気軽に話すことはほとんどないせいだろうか。
それとも今日は満月だからだろうか。
──満月っちゅうのはねえ、異性に惹かれる気持ちが強くなるんですよ。
やたらなまっている占星術師が、確かそう言っていた。
満月の夜、狼がよく吠えてるのは、牝を求めて興奮してるからだと。
──だから白姫さまに求婚なさるのは、満月の夜がいいんだっぺ。
そう、求婚するのは今日が最高の──。
「あ」
そうだ、さくら、渡してしまったが、どうしよう。立ち止まって考えていたら、向こうから蓮宿が駆けてきた。ぜいはあと息を切らしている。
「へいかっ、どちらへ行かれていたんですか!」
「いや、少々迷ってな」
「なんで迷うんです! あなた何年この宮に住んでるんですかっ」
実に十九年である。普通に考えたら、迷うはずなどないのだ。素知らぬふりをしていると、蓮宿が手ぶらの紫苑を見て訝しげな声を出す。
「陛下、桜は? 白姫に渡したんですか」
「いや」
「はいいいい?」
蓮宿が素っ頓狂な声を出し、腹を抑えた。
「ああ、胃が、胃が痛い」
「休んだほうがよくはないか」
「誰のせいだと思ってるんですかっ!」
苦しげな顔をしている蓮宿に悪いとは思いつつ、紫苑は口を開く。
「もしもなんだが……」
「はい?」
「桜を渡したら、どんな身分だろうが花嫁になるのか?」
「ええ、だからこそあの桜は特別……」
言いかけた蓮宿が固まった。みるみるうちに青くなる。
「まさか……っ、白姫以外の方に渡したんですか!」
紫苑がうなずくと、蓮宿が真っ白になった。白砂のごとく、そのままさらさらと崩れ落ちていきそうだ。
「おーい、蓮宿」
目の前で手を打ち鳴らすと、彼の顔色が戻る。がっ、と肩を掴まれた。
「その娘はどこですか!」
「厨房にいたが」
蓮宿は手を打ち鳴らし、鋭い声で叫ぶ。
「王兵! 今すぐ厨房に行って、桜を持った女を連行してきなさい!」
連行という強い言葉に、紫苑は焦った。
「おい、乱暴な真似はするな」
「あははは、よく知りもしない女相手にお優しいことで。陛下には後でたーっぷりお説教がありますのでお楽しみに」
額に青筋をたてた蓮宿の言葉を聞き流し、紫苑は心配げに厨房の方を見つめた。