お風呂は一人ではいります。
山の上空に、厚い雲がかかっているのが見える。その下──山中は、降りしきる雨で濡れていた。
「うわあ、すっごい降ってきたなあ」
玉葉は木のうろの中から空を見上げ、ため息をついた。珍しい山菜を追い求め、山奥まで入ってきてしまったのだ。
「おまけに足くじくし」
足首をさすりながらため息をつく。大量に生えているたけのこを見つけて興奮し、勢い余ってつんのめったあげく、斜面をころがり落ちたのだ。多分折れてはいないが、ひねったところがじくじくと熱を持っていて、歩くと痛みが走る。
ああ、杖を持ってくるべきだった。山菜採りに来たのは初めてではないのに、我ながら間抜けである。すぐ止むかと思いきや、雨は勢いを増している。
──陛下に気をつけるようにって、忠告されたのになあ。そういえば紫苑はもう王宮に戻っただろうか。雨で立往生していなければいいけど。
足元から這い上がってくる冷気に、ぶるっと身体を震わせた。
「あーさむい」
春とはいえ、山に降る雨はまだ冷たい。手足をすり合わせていたら、声が聞こえてきた。
「ん?」
誰か、いる? 玉葉は慌ててうろから出て、声をあげた。
「おーい! 助けてー!」
ぶんぶん手を振っていたら、誰かがこちらに駆けてきた。こんな日に、一体どういう人物だろうか。いや、誰でもいい。これこそ天の助けだ。
あれ? あの人影、なんか見覚えがあるぞ……。すらりとした姿、漆黒の髪、緑がにじんだ黒い瞳……。
「っ陛下!?」
「玉葉!」
駆けてきた紫苑が、玉葉の肩を掴んだ。長いまつげから水滴が滴り、涙のようにぽつりと落ちる。なんで陛下が?
玉葉はぽかんとしながら、全身ずぶ濡れの彼を見る。紫苑はペタペタと玉葉の腕や頬を触る。
「大丈夫か? 怪我は?」
とっさに怪我した足を隠すように後ろへ回す。
「だ、大丈夫です」
しかし、紫苑は目ざとくそれに気づく。足か、とつぶやき、玉葉の背と足に腕をまわして、ぐいと抱き上げた。
「わああ!」
玉葉は思わず声を上げた。──お、お姫様だっこ! 生まれて初めてされた!
「ちょ、私重いですから! おろして!」
「全然重くないが」
「重いんです! 山を下っていくとだんだん重くなるんです! しまいには陛下を潰しちゃいますよ!」
「どこかの妖怪か、君は」
結局、玉葉の要望でおんぶになった。王におんぶさせてるなんて聞いたら、親が失神しそうだ。しっとり濡れた紫苑の肩に手を置きながら、
「陛下、お一人で山に来るなんて危ないです。こんなに雨が降ると、土砂が崩れたりもするし」
「君に言われたくないな」
「私は仕事だし……」
へくし、とくしゃみをする玉葉に、
「仕事だが、花嫁期間中は休めないのか?」
「ダメです。白姫様のお夜食作らなきゃいけないし、休むと腕がなまるし」
「君は中々たくましいな。うどんを打っている時も力強かったし」
「大抵ドン引かれますけどね」
「私はかっこいいと思った」
そんなことを言われたのは初めてで、なんだか照れくさくなる。
「今度一緒に、何か作りますか?」
「ああ、いいな」
★
山を降り、馬で王宮に戻ると、蓮宿が門の前に立っていた。
「おかえりなさいませ、陛下」
傘の下から、これ以上ないくらい眉間にしわがよった顔がのぞく。
「……そう怒るな」
「いいえ、怒ってなどいませんよ? おやうどん嬢、ご無事ですか。ようございました」
「た、ただいま帰りました……」
冷たい蓮宿の目に、ひやりとする。本当の花嫁でもないのに、なに陛下に迷惑かけてんだコラァ、という意図を感じた。だらだらと冷や汗をながしていると、紫苑がぽそ、と呟いた。
「蓮宿、私の妻には玉葉という可愛い名前がある」
「(一年だけの)妻ですよ、そこ正確に。あとありふれた名前ですよ、玉葉なんて」
「ありふれた名前ですいません」
これ以上一緒にいたら、ますますチクチク言われそうだ。それに、まだ仕事が終わってない。湯殿に向かう紫苑に、玉葉は言う。
「陛下、私厨房に戻りますね」
「風呂に入ってからいけばいい。足の手当てもしなくては」
「大丈夫です、私」
後ずさる玉葉の腕を、紫苑が掴む。耳もとに、低い声で囁いた。
「なんなら、一緒に入るか?」
イッショニハイル? その言葉を咀嚼しおえた玉葉は、ぶわ、と真っ赤になった。
「けけ、結構です」
「では先に入れ。君が入らないと私も入れない」
紫苑はそう言って、その言葉を体現するように柱にもたれた。
「ええっ」
そんなの、入らざるをえないではないか。
「ちょ、ちょっと待っててください、すぐ出ますから!」
玉葉は足を引きずりつつ、慌てて湯殿へ向かった。