一難去って
「……あれ?」
それから、どれくらい経っただろうか。僕は、未だに化粧台の前に座っていた。
カガミさまは……いない。というか、目の前の化粧台の鏡は……
「……割れてる」
見ると、化粧台の鏡は割れていた。先ほど僕が最初に見た時は綺麗なままだったのに、今では真っ二つに割れてしまっているのだ。
「黒須君!」
と、障子が開いて声が聞こえてきた。
「あ……番田さん」
「大丈夫か? カガミさまは?」
そう言って、番田さんは周囲を見回す。僕は割れてしまっている化粧台の鏡を半ば無意識に見た。
「……もう、いないと思います」
「……そうか。君が部屋に入った辺りから全く返事をしなくなったからな。心配になって無理やり突入しようとも思ったんだが……障子が開かなかった」
そう言って、険しい顔で部屋の中を見回す番田さん。
それにしても……あれは一体何だったのだろうか。
化粧台の鏡がこうして割れてしまっている異常、もはや確認することはできないし、もう一度、あの不気味な人影を見たいと言う気持ちにもならないけれど。
「それで、君はカガミ様を見たんだよな?」
と、ようやく番田さんが僕にそう質問してきた。
「え……ええ」
「そうか。どんなモノだった? カガミ様は?」
「……よくわからなかったです。形容しがたいというか……普通じゃない、ってのはわかりましたけど」
「なるほど……まぁ、神、だからな。人から見れば、普通ではないのは当然だ。で、一番大事なのは、君がきちんとカガミ様にお帰り願ったかどうか、なのだが」
「あ……それは大丈夫です。確かに『お帰りください』って言いましたから」
僕は自信を以ってそう言った。番田さんも、僕が一番重要な役目を果たしたことを理解してくれたようで満足したように頷いた。
「そうか。ならば、おそらく紅沢神社の神主の孫の症状も、幾分和らいでいることだろう。さて……そろそろ帰ろうか。一人で立てるか?」
番田さんには心配されたが、僕は案外普通に一人で立つことができた。そして、そのまま番田さんと共に、カガミ様の家の玄関から外に出た。
今一度、外に出てからカガミ様の家を見てみると、やはり異常だった。鏡は割れていたいたが、それでもカガミ様の力はこの家に残っているかのように思われた。
「番田さん……もう、大丈夫なんですかね?」
僕は思わずそう聴いてしまった。
番田さんは苦虫を噛み潰したような表情のままで僕のことを見る。
「確かなことは言えない。ただ、現状わかっている対応策を我々は施した……今の私に言えるのはそれぐらいだ」
「そう……ですか」
「……紅沢神社の巫女のことが心配か?」
番田さんにそう訊ねられ、僕はためらいつつも、小さく頷いた。
「そうか……八十神語りにはまだわからないことが多い。白神さんにしても、だ。私は当分はこの町に残るから、何か気になることが会ったら、私に連絡してくれ」
そう言って、番田さんは僕に、電話番号が描かれて小さなメモ用紙を渡してきた。
「あ……ありがとうございます」
「紅沢神社には、私から連絡しておく。君は今日は家に帰って、ゆっくりと休むことだ」
番田さんにそう言われてしまったので、僕はその通りにすることにした。
夕暮れが僕の目の前の道をオレンジ色に染めている。
ふと、僕はカガミ様と対峙していた時のことを思い出す。
あの時聞こえた、聞き覚えのある声……
「……白神さん。アナタは、一体……」
オレンジ色の空を見上げながら、思わず僕はそんなことを呟いてしまったのだった。




