神ではないモノ
……なんだ。これは。
私は文字から目が離せなかった。最後の酷く乱れた文章……ここだけ、明らかに気配が違う。
それこそ、ついさっき殴り書きされたような……そんな印象を受けるのだ。
それより上の文章は……もっと前に書かれたものだ。
無論、それも不気味だ。なぜ私の名字を知っている。
この文章を書いた人間は、私がここに来ることを知っていたのか? 私は自分でここに来たのではない……この家に招かれて……
「……それ……ヨミました?」
背後から声が聞こえてきた。聞いているだけで背筋に鳥肌が立つような声……それが簡単に人間のものではないということは……私にも理解できた。
私は……ゆっくりとノートから手を離すと、そのままポケットの中に手を突っ込む。
ナイフ。そうだ。私にはナイフがある。武器がある。もし仮に相手が人間でなくても、対抗することは出来るはずだ。
相手を倒すまではいかずとも……この異常な場所から脱出するチャンスはあるはず……
自分でも「そんなことはできない」と理解していながら、私はナイフを強く握った。
「ああ……君が……ハイムラさんか?」
振り向かずにそう言う。背後からは何かが地面を這いずるような音……明らかに人外の何かが背後にいることは理解できた。
「……悪いが、私は君のことは全く知らない。八十神語りも初めて聞く言葉だ……だから……もしよければ、何事もなく、私をこの家から帰してくれかな?」
返事は……ない。何かが地面を這いずる音だけが聞こえてくる。
話し合いは意味がない……ここは一か八か。運命に身を委ねるしかない。
私はナイフをポケットから瞬時に取り出す。
そうだ……相手が化物でもナイフで一撃を喰らえば怯むはず……私は振り向くと同時にナイフを前方に突き出した。
グニュ……嫌な感触がナイフを伝って私の手に伝わった。
私はナイフが突き刺さった先を見る……白い鱗。蛇だ。私のナイフが突き刺さったのは……白い蛇の胴体だった。
無論、ナイフが突き刺さるというのは……相当巨大な胴体である。私はその時漸く理解した。
私の背後にいたのは……巨大な蛇だった。
白い蛇……既に書斎の間取りを埋め尽くす程の胴体がそこかしかに這いずっている。
「フフッ……イタイですよ……アオヤギさん?」
胴体の先を見てみる……そこには蛇の頭部……はなかった。
女だ。先程の女の頭部があるのだ。
蛇の頭ではなく、女の頭部が、蛇の胴体の先にあったのだ。
私は蛇の化物の胴体に突き刺さったままナイフを手放す。
逃げろ……本能がそう叫んでいる。
そう本能が叫んだ瞬間だった。蛇の胴体が素早く私の身体を捉える。
蛇の胴体は私の胴体を締め上げる……それこそ、骨が軋みを上げるほどに。
「ぐ……ぐぁ……お、お前は……一体……」
「ハイムラ様……デス。さぁ……八十神語りを……ハジメましょう?」
「ふ、ふざけるなっ! わ、私はこんな……ぐあぁっ!?」
骨が……折れた。
蛇の締め上げで、肋骨が折れたのだ。
折れた肋骨が肺に突き刺さる……苦しい。
「ひゅーっ……こ、殺すのか……?」
喉からおかしな音を出しながら私は蛇の化物に訊ねる。
私がそう言うと女の顔はニンマリを嬉しそうな笑みを浮かべる。
「フフッ……大丈夫デスヨ? 死ぬまで……八十神ヲ続けてあげますからネ……」
女はそう言って何かを私の耳元で話し始めた。私の意識は遠のいていく。
それと同時に今まで感じたことのないような、この上ない絶望が襲ってきた。
こんな場所で、こんな化物に締め上げられ、化物に何かを囁かれながら、死んでいく……
蛇の締め上げが再び強まってきて……
このままでは肋骨どころか、体全体が潰れて――
「い……嫌だ……わ、私は……こんなところで……ぐがっ――」
「……あれ? アオヤギさん? 話、聞居てイますか? ……あ~。シンでシマイマシタカ。残念デス。フフッ……又、新しい八十神の相手……探さないとイケマセンね……」
白い蛇の化物……ハイムラ様は、冷たくなった青柳光明の死体を、まるで抱きしめるように一層強く抱きしめたままで、今一度家の奥へ這いずりはじめ……そのまま見えなくなったのだった。