忘れないで
深夜の石段は……静かだった。
周囲から虫の声くらい聞こえてきてもいいはずなのに……それさえも全く聞こえない。完全なる無音の世界だった。
「ねぇ」
そこへ、蛍さんの声が聞こえてきた。僕は隣に顔を向ける。
「え……どうかしましたか?」
「……賢吾君、黒田琥珀のこと……怖い?」
蛍さんの質問は意外なものだった。僕はいきなりのそんな質問に戸惑う。
「怖い……それは……」
「……賢吾君は知っているんでしょう? 白神に取り憑かれる前……紅沢神社の巫女だった頃の黒田琥珀を」
僕は小さく頷いた。
「さっき、せんせーが言ってたこと……賢吾くんがどうしたいかって、大事だと思う。アタシは……正直、今から白神から黒田琥珀を取り戻すのは……相当難しいと思う」
そういって、蛍さんは真剣な目つきで僕のことを見る。
「でも……もし、賢吾君がそうしたいって思うなら……不可能ではないと思う」
「蛍さん……」
そう言われて僕は、思い出していた。
かつて、この石段を一緒に歩いた黒田さんのことを。あの時のオレンジ色に照らされた綺麗な黒髪を。
「……正直、アタシはどうでもいいんだけどさ……そこは、賢吾君の勝手だから」
「……ありがとうございます。蛍さん」
思わず僕は御礼を言ってしまった。蛍さんは目を丸くして僕のことを見る。
「御礼とか……まぁ、当然だけど……ねぇ、賢吾君」
「はい、なんでしょう?」
そういって、蛍さんは僕の両手を、ギュッと優しくその両手で包む。
「……絶対に、無事に帰れるから。私がいること、忘れないで」
僕はそういう、蛍さんを見て、そのことを絶対に忘れないでいようと、強く心に銘じたのだった。