這いよる深淵
「黒須君!」
そう言われて、僕はケイさんの方に視線を戻した。
ケイさんが僕の手を握る力が強くなっている……そして、すぐ横にいるものが良くない存在であるということも、強く感じることができた。
「け、ケイさん……どうすれば……」
「……わからないわ。横にいるコイツがいなくなってくれるまで待つ……いなくなってくれればの話だけどね……」
しかし、横にいる何者かは、いなくなるどころか、少しずつ、僕達との距離を縮めようとしているかのようだった。
すぐ近くに存在を感じる……どことなく嫌な感覚が躰を覆っていくようだった。
「け、ケイさん……」
見ると、ケイさんの視線は左右にしきりに動いていた。僕よりもケイさんの方が「こういうもの」に対しての感覚が鋭い。おそらく、今本当にヤバイのは僕よりケイさんなのだ。
「黒須君……ま、まだいる?」
ケイさんが震える声でそう訊ねる。僕は何も言わず頷いた。
「ま、マジで……? む、無理なんだけど……もう……このままずっとこのままなんて……む、むり……」
本当にケイさんは限界のようだった。すでに視線は隣にいるヤツの方を見ようとしている。
無意識にこの状態から逃れたくて、思わずヤツの事を見てしまおうとしているようだった。
このままではいずれケイさんはヤツの事を見てしまう……そして、視線が合ってしまえば……
何か、この場を解決する方法はないのか……僕はふと、書斎の机の上に視線を移す。
八十神語りの真似事……灰村家がやろうとしていたこと……
「そうだ……ケイさん!」
僕がそう呼ぶと、ケイさんは驚いたようにこちらを向く。
「え……な、何?」
「ケイさんは……僕のことを、愛している?」
正直、滅茶苦茶恥ずかしかったが、僕はそう言った。
さすがのケイさんもポカンとして僕のことを見ている。
「え……こ、この状況で何言ってんの?」
「だから! 愛しているか、聞いているの!? 好き!?」
「え……き、嫌いじゃないけど……す、好きっていうか……そういうのじゃ……」
ケイさんは完全に混乱してしまっているようだった。しかし、ここで終わるわけにはいかない。
「嫌いなの!? 好きなの!? どっち!?」
「え……す、好き……かな……」
「じゃあ……今ここで僕と一緒に死んでくれる!?」
「……え? ……はぁ!?」
ケイさんも意味がわからないという感じで僕にそう云う。僕は至極真剣だった。
「だから……僕と死んでくれるかって、聞いているんだよ!」
「そ、そんな……し、死ぬって……」
ケイさんが困っている間にも、ヤツは益々僕達の方に距離を詰めているようだった。
ケイさんの視線はしきりにヤツの方向をチラチラと見ている……もはや時間はなかった。
「ケイさん!」
僕は今一度大きな声で叫んだ。ケイさんは我に返った様子で僕を見る。
「し……死にたいわけ無いでしょ! 黒須君と一緒になんて……死にたくない!」
ケイさんは言葉にしてはっきりとそう言った。僕の狙い通りだった。
その瞬間、フッと、隣の嫌な感覚が消えた。
僕は横を見る。
「……いなくなった」
「……え?」
書斎の中には僕とケイさんしかいなかった。
ふと、机の上を今一度見る。
「あれ……? ノートが……」
机の上は、それこそ、何年も使われていないようで埃をかぶっていた。
ノートがあったはずの場所にも埃がかぶっている……それこそ、最初からそこには何もなかったかのように。