五 鈴の音
女の身体は床に半分飲み込まれるような形で拘束されている。
「今の……何だ?」
ユリアとメルゴーは、口をぽかんと開けてこちらを眺めていた。
「これも魔法だ。……どうやら先程の頭への攻撃で記憶が戻ったみたいでな、いろいろな魔法を思い出せた。これはその一つ、物体を操って相手の動きを止める術だ」
「はあ……」
床が動くというのは、初めて見たら確かに衝撃的だろう。ユリアなど、自分の真下の床が安全かどうか確かめようとして床をトントンと足で突ついている。
「まあ、これが魔法だ。戦うとき以外も何かと便利だが、私自身の力を使って行うものだから、使いすぎると死ぬ恐れもある。乱発はできないということだ」
メルゴーが惚けたように呟いた。
「……ここまでくると笑うしかないぜ」
そして、ふと思いついたように尋ねる。
「なあなあノックス、お前、こんな魔法は使えるのか……?」
メルゴーが口にした魔法は、割と簡単にできるものだった。
「できるが、なぜ?」
「それは……」
メルゴーの口から語られた言葉に、私は驚きつつも頷いた。
「それはいい考えだな。やってみよう……この魔法は、私が昔、面白がってよく使っていた魔法なんだ」
私は呪文を唱えた。
やがて、女が目を開けた。
起き上がろうとして、それができないことに気づく。
「……殺せ!」
首を捻り、ユリアとメルゴーのほうを向いて女はそう叫んだ。
「だってよ、メルゴー」
「うーん……そう言われると殺すのにやぶさかではないんだが、俺自身としてはあんまり殺したくないんだよなあ」
ぎりぎりと歯を食いしばってメルゴーを睨みつける女だが、メルゴーはどこ吹く風だ。
「とりあえず名前を教えてくれよ、呼びにくいだろ」
「……メルム」
なぜか素直に答えた女、メルムはしばらくもがいていたが、私の拘束が解けるわけもない。
「それじゃあメルム、お前に暗殺の命令をしたのは誰だ?」
「誰が答えるものか!」
「だと思ったよ」
メルゴーはニヤリと笑った。
「じゃあ聞くが、お前はこれからも暗殺を続ける気かい」
「当たり前だ! 私はあの方の役に立つためだけに存在している!」
「そうか」
メルゴーは腕まくりをして、床に半ば飲み込まれるような形で倒れているメルムを見下ろす。
「おいユリア、ちょっと外に出てな」
「え」
不思議そうな顔をするユリア。
メルゴーは、高らかに言い放った。
「ここから先は、とてもじゃないがお子様には見せられねえからな。ほれ出てった出てった」
よくわからないまま部屋を追い出されたユリアは、首を傾げた。
「あいつ、何をする気だ?」
一緒に追い出された私は澄まして答えた。
「きっとお前には刺激が強すぎるものさ」
「さあ、邪魔者は消えた」
私の前に立った男――どうやらメルゴーという名前らしい――は、笑って座り込んだ。
「何をする気だ」
私の問いかけに、メルゴーはただ一言で返す。
「説得」
「説得?」
「そう、説得だ。メルム、お前がさっき俺に話したことに嘘はないな? 気配がないから家族に捨てられて……って話に」
「ない。あれは私の本心だ」
私は言い切った。感情など、普段は表に出さないようにしている。
しかしさっきは、つい激昂してしまい、思っていることが口をついて出てきてしまった。
「じゃ、想像してみろよ。お前にもし気配があったら? 万が一、お前に気配が存在したとしたら……お前はどうする? 何をしたい?」
メルゴーの言葉に「それでもあの方のために……」と答えかけた私は、ふと口を噤んだ。
普通の人生。
きっと家族に嫌われることもなく、大人になって、ちゃんとした仕事に就いて……。
今までは考えないようにしてきた、陽の当たる人生。街ですれ違う女性たちは皆きらきらと輝いて見えた。眩しすぎて、目を背けていた。自分もあんなふうに過ごせるのか、などという甘い期待はとっくに捨てていた。それなのに……。
私はメルゴーを睨みつけた。
「貴様は何が言いたい?」
どうして、私の心を……私が考えないようにしてきたことを呼び起こすのだ。
「今更そんな仮定の話をして何になる? 貴様は私を苦しませたいのか? だとしたら――」
だとしたら、成功だ。
こんなに簡単に、抑圧してきた「普通」への願望を掻き立てられてしまった。
「すまんな、苦しませるつもりで言ったんじゃなかった。それで? 何がしたい?」
それはこちらも聞きたい。目の前の男は、いったい何がしたいのだろうか。
「私は……」
もう意地を張るのも疲れた。
「私は、普通になりたい。街を行く女性たちの中に混じりたい。友達を作って、化粧したり、綺麗な服を着たり、おいしいものを食べたり、そういったことがやってみたい。もう、ひとりぼっちは、嫌だ」
一気に吐き出してしまうと、楽になった。
誰にも言わず、抱え込んでいたこの気持ち……この孤独を。
「そうか」
メルゴーは嬉しそうな顔をした。
「聞いた甲斐があったぜ。その願い、叶えよう」
「はあ?」
今、何と言った?
「あんたに気配を授ける。そこから先は、あんたの努力次第さ。どっちみち暗殺者としては生きていけないだろうからな、これからの人生、身の振り方を考えてみるといい」
いきなり顔を近づけられ、私は戸惑った。
「それに、よく見たら、あんたの顔立ちは悪くない。むしろ整ってる。きっと化粧して綺麗な服を着れば、見違えるぜ……美人さんだ」
「……え?」
今まで「気持ち悪い」や「不愉快」しか言われたことはなかった。罵倒の言葉ならいくらでも聞いてきた。褒める言葉も、あの方以外からもらったことはない。
それなのに……この男は今、私に向かって「美人」と言ったのか?
「信じられないような顔してるな、あんた自分の顔を鏡で見たことあるかい」
「私は……いや、あまり見ない……見ても、すぐに目を逸らしていた」
「もったいねえな、メルム」
名前を呼ばれ、心臓が跳ねる。
「これからは、自分のやりたいようにやってみな。きっと今までより、はるかに楽しいはずさ」
扉の外に締め出された私たちは、非常に退屈していた。
室内からは低い話し声が聞こえるばかりで、私が想像していたような事態も起こっていないようだ。
無論、そのほうがいいのだが……ユリアにはまだ早い。
早い?
ユリアも、もう十八歳になる。そろそろ女性に興味が出てきてもおかしくない年頃のはずだが……。
私が保護者のような心配をしていると、ユリアが突然口を開いた。
「なあ、さっきかけてた魔法ってどんなものなんだ?」
「ああ、メルゴーに頼まれたやつか」
メルゴーは、こう言ったのだ。「この女に『気配』を与える魔法はないか」と。
そのとき私の頭に浮かんだのは、ある呪文だった。
昔、遊びで開発した呪文だ。
それは『歩くたびに鈴の音が鳴ってしまうようにする』というもので、かけられた者は、どんなに忍び足でも、一歩ごとにりんりんと澄んだ音が鳴り響く。
人間だった頃、弟子にこの呪文をかけて遊んでいた。研究仲間と酒を飲み交わしたときは、鈴の音を豚の鳴き声に変え、誰かにかけてはそいつが歩くたびに爆笑していたものだ。
懐かしい光景が頭の中に蘇ってきた。
しかし、一人一人の顔や名前は思い出せない。……まだ、すべての記憶が戻ったわけではないということか。
「おいノックス、聞いてるか」
「ん? ああ、そうだな。何のことはない、歩くたびに鈴の音が鳴るというものだ」
「何だそれ、何の役に立つんだ?」
「過去の私が遊びで開発した呪文だ……しかし、あのメルムという女に対しては素晴らしい効果を発揮するだろうな。気配がなくとも、歩くたびに音が鳴れば嫌でも気づかれる。もう暗殺はできまい」
「ほお……」
感心するユリア。
「ものは使いようだな」
「そうだな」
私も首肯した。
しばらく経ってから、扉が開いた。
「待たせたな」
床の上のメルムに変化はない。強いて言えば、やや頬が赤くなっている。
「なあ、いったい何をしてたんだ?」
「説得」
メルゴーは胸を張ってそう言った。
「こいつはもう暗殺をやめる。それに、たぶんいろいろ教えてくれるはずさ」
私とユリアはポカンとしていた。
「あっ、信用してないな? いいだろう。なあメルム、さっきの質問だ。お前に暗殺を命じた奴のこと、教えてくれないか」
メルムは、やや逡巡した後口を開く。
「あの方は、私に利用価値を与えてくださった。その恩は確かだ。だから、売るような真似はできない。できないが……忠告はできる」
「おう、それで構わないから教えてくれ」
「あの方は、とある組織の頂点にいる。あの方が一言命じれば、数百人の兵が動く。手練の暗殺者が私の他に数人いるが、そいつらも動く。あの方の権力はこの国でも随一……そして、不思議な術を使う。敵に回すと、例外なく始末される」
「不思議な術というと?」
「レガリアからメモリアまで一瞬で移動したり、他人の居場所がわかったり……というものだ」
私は確信した。そいつがあの手紙に術をかけた呪術師、もしくは錬金術師だ。そしておそらく両方を極めている。
手紙に術をかけ、私たちの場所を把握し、ゲヌスを送り込み、このメルムも送り込んできた。
とある組織の頂点、とは……。
「その組織、さてはメルギトゥール商会だな?」
メルゴーの問いに、メルムは反応しなかった。
沈黙は、肯定と捉えてよいはずだ。
倒すべき敵の姿が、だんだんはっきりと見えてきたような気分だった。
試験が始まるので、更新ペースを落とします。
気を抜くと、すぐにレポートではなくこっちを書き始めてしまうので…




