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一人と一匹、夜を征く  作者: 水尾
第三章 「赤」の街、メモリア
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五 支部長の策略

 夜、私は感知呪印を仕掛けるために酒場《湖の獅子亭》に向かった。

 酒場に着くと、ちょうど店じまいの最中だった。ルナが床を箒で掃いている。

「あっ、ノックスちゃん!」

 私に気づいたルナが嬉しそうに駆けてきて、私をひょいと抱き上げた。

「どうしたの?」

 私はルナ以外には聞こえないよう声量を絞って囁いた。

「お守りを渡しにきた。あの男が逆恨みしてここに襲いかかってきたときの保険みたいなものだ」

「わあ、ありがとう。実はちょっと心配だったの」

 ルナが嬉しそうに言う。

「この紙を酒場の中央に置いておけば、誰か怪しい奴が入ってきたら私にはすぐにわかる。もちろん私たちがこの街を出るまでの間だが……」

「これを置いとけばいいのね」

 そう言って、ルナは紙を受け取った。

「なんだかお世話になりっぱなし」

「私が好きでやっていることだ、気にするな」

 私はお礼を言うルナにそう言い残すと、歩き出した。夜のメモリアはそこらじゅうに松明が輝いていて、ミネラよりも開放感がある。私はごつごつとした石畳の上をゆっくりと歩いて帰った。

 宿に戻り、ベッドの端に寝そべる。

「そういえばユリア、お前の服と剣はどうなっている?」

「ああ、なんか修復できないかどうかいろいろ試してみるから一日借りとくってよ」

「……そのままうやむやにされたりはしないだろうな」

「大丈夫だろ。店は覚えてるし、店主の顔も覚えてる」

「それならいいが」

 私はふわりと欠伸をして、身体をぐーんと伸ばした。

「では私は先に寝かせてもらうぞ。感知呪文に何か反応したら起きると思うが、まあ大丈夫だろう」

「わかった、おやすみ」

 目を閉じ、意識がゆっくりと沈んでいくに任せる。

 程なくして、私はぐっすりと眠り込んでしまった。



 ――暗い部屋の中。いつもの場所だ。たくさんの不思議な道具や本で溢れている。ここは私の研究室だろうか? おそらくそうだろう。私は椅子に座り、何かの書物を熱心に紐解いていた。

 コンコンと扉が鳴る。

「入っていいぞ」

 扉を開けて、一人の男が部屋の中に入ってきた。そうだ。この男は、私の弟子だ。名前は何と言っただろうか……駄目だ、思い出せない。

「どうした?」

「××××様、南部での調査はどうされますか?」

 これは私の名前だ。私の名前は……名前は……何だ? 私は誰だ?

「予定通りに行う。どうやらフォッサの花が咲くのはこの時期だけのようなのでな」

「わかりました」

 男はそれだけ聞くと部屋を出て行ってしまった。

 私はわずかばかりの不審を抱いたが、そのことはすぐに私の頭から消え去ってしまった。

 私は誰だろうか。そうだ、呪術師だ。しかし、錬金術師でもあるはずだ。しかし、それ以外はわからない。自分の名前もわからない。私は誰だ。

 私は、一体……。

 頭に霞がかかったようにぼんやりとしている。何かを考えることが億劫だ。

 私はどこで、何をしていたのだろう。

 何もわからない……何も。



 身体に電流が走るようなビリっとした感覚で、私は飛び起きた。寝汗がじっとりとシーツに染みている……また例の悪夢を見ていたようだ。

 窓の外はまだ暗いものの、地平線の端はぼんやりと明るくなっている。明け方か。

 感知呪印が反応したということは、何物かが酒場に侵入したということだ。私の背筋には断続的に嫌な感覚が響き、侵入者が複数いることを伝えてくる。

「ユリア!」

 私は寝こけているユリアを蹴っ飛ばした。

「んむあ」

「酒場が襲われたようだから私は行くぞ」

 言うが早いか、私は窓から飛び出して隣の家の屋根に降り立ち、そのまま全力で酒場に向かって駆け出した。間に合え、間に合え。

 近づくにつれて、私の鼻を異臭が刺す。これは……何かが燃える匂いだ。まさか、酒場に火を放ったとでもいうのか。

 悪い想像が現実とならないことを祈ったが、現実は無慈悲だった。

 酒場《湖の獅子亭》から煙が立ち上っている。

「ルナ!」

 私は一声叫ぶと、酒場に飛び込もうとする。そのとき、中から二人の男女がよろよろと出てきた。女性の方は半狂乱になっている。

「ルナがいないの! ルナ!」

 そう叫ぶ女性は必死で辺りを見回している。店内に残っているわけではないということか?

 ……なるほど。ルナを誘拐してから酒場に火を放ったということか。私は、すぐさま昨日の悪趣味な屋敷に向かって走り出した。

 一度は警告した。あの男、次は容赦しない。


 その悪趣味な屋敷のある部屋では、捕らえられたルナがウォークスの前に引き出されていた。赤い絨毯にシャンデリア、上品な内装と武装した兵とのちぐはぐさが際立っている。

「よし、そのまま押さえてろ」

「放してよ!」

 叫びつつ身をよじるルナだが、両脇から屈強な男二人に抱えられているため何もできない。

 そんなルナをにやにや笑いつつ眺めるウォークス。少しはだけたルナの寝間着姿に興奮していることが丸分かりで、それはルナにもはっきりと伝わっていた。

 ルナは少し絶望を覚えていた。三人しかいなかった昨日とは違い、部屋からはみ出し、廊下まで埋め尽くすほど大勢の武装した男たちが並んでいる。昨日より広い部屋だが、壁の松明と窓から差し込む朝日でしっかりと明るい。

 ノックスが渡してくれたお守りの紙……不思議な模様が描かれた紙。あれは言いつけ通り、酒場の中央に置いていた。助けに来てくれるのだろうか。きっと助けに来てくれる。

 恐怖で今にも潰れそうな少女の心を支えているものが、ノックスの存在だった。

 それを見透かしたように、ウォークスは笑った。

「昨日はあの化け猫に邪魔されたが、今日はあいつはいない! 誰も助けには来ないよ、もう諦めたほうがいいと思うけどね」

 ルナは言い返す。

「あなた昨日、もう私にも店にも手を出さないって言ったじゃない!」

「口約束なんか信用するほうが悪いのさ。僕は商人だ。きっちり紙に書いて契約していないものを約束とは呼べないね」

 ウォークスはそう言い放った。

「昨日怖がってずりずり後ろに下がりまくってた腰抜けがよく言うわね。猫ちゃんはきっと来てくれるんだから、そのときのあなたの顔が楽しみだわ」

 ルナは自分が怖がっていると悟られないよう、精一杯挑発してみせた。

 ウォークスはフンと鼻で笑った。

「まあ、好きなだけ助けを待ってればいいよ。来たとしても、昨日の役立たずたちより遥かに強い男たちがこれだけいるんだ。返り討ちにしてやるさ! ともかくこれで、君も酒場も僕のものだ……いや、正確には酒場じゃなくてあの建物の下に埋まっている宝だがね。でないとあんな貧相な酒場を欲しがるわけはないだろう」

 ルナの目が見開かれる。

「宝ですって?」

「そう! 宝だ。金になる。あんな酒場よりも余程金になる、素敵な宝が埋まってるのさ。知らなかっただろう? まさに宝の持ち腐れだ!」

 ウォークスは高笑いした。

「古くから伝わる酒場? そんなものに固執してどうする。馬鹿馬鹿しい、ただの一ノルにもなりゃしない。いっそのこと燃えてしまったほうがスッキリするってもんだろう。宝も掘り返しやすくなるし」

 ルナの顔が歪む。

「まさか……」

「ああ! 君を攫った後、店に火を付けるよう言ってある。残念だったね、君があんなに守りたがっていた酒場は今轟々と燃え盛っているよ。ほら」

 ウォークスが窓の向こうを指し示す。遠くから上がる煙を見て、ルナは信じられないように息を呑んだ。

「……人でなし!」

「何とでも言いたまえ。あんなクソみたいな酒場にこだわるから結局全部失うんだ」

 馬鹿にしたように言うウォークス。目の前の少女がどれだけ吠えても、自分の優位は揺るがない。その余裕がはっきりと現れていた。

「あなたが何を知ってるのよ!」

 涙で濡れた顔を上げ、ルナは絶叫した。

「地下に宝が埋まってる? そんなの知らない。関係ない! 毎日来てくれる常連さんも、初めて来た人も、皆が食事と会話を楽しんで笑顔になれる店。それが父さんの自慢の酒場《湖の獅子亭》よ! 宝があるっていうのなら、その人たちの笑顔と、「また来るね」っていう言葉が、あの酒場の宝よ! 何も知らないお前みたいな奴が、その汚い口でうちの酒場を語るんじゃない!」

 歯を食いしばってウォークスを睨みつけるルナ。

 そのとき窓の外で眩しい光が炸裂し、窓及び外に接する壁が粉々に砕け散った。

 粉塵がもうもうと立ち込める。

 その中から、朗々とした声が響き渡った。

「よく言った!」

ルナのこの叫びを書くためにメモリア編を書いたと言っても過言ではありません。

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