六 記憶の奔流
限界は突然にやってきた。
急に足に力が入らなくなり、私はつんのめって転んだ。二転三転して地面に投げ出され、力なく横たわる私を野犬たちが嬉しそうに取り囲む。口から手紙がパサリと落ちた。
嬉しそうな唸り声に囲まれて、私ははっきりと死を覚悟した。手紙だけでも守ろうと、引き寄せて胸にしっかりと抱きかかえる。
野犬の牙が私の喉元に迫ってきた。生臭い息が顔にかかる。
私は赤い家に残してきたユリアの身を案じた。
ーーどうか、私を待たずに先へ進んで欲しい。追いかけてきても、私はその頃には骨も残っていないだろうから。
私はそっと目を閉じた。
(……すまない)
今までの思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。ユリア、老夫婦、村長、村の皆、ファルサ、ミセリア、クラヴィス……様々な人の顔が浮かんでは消えた。その中に、一つだけ知らない顔があった。奇妙に歪められた顔は敵意に満ち溢れている。
これは……誰だ?
そのとき、私の頭に何かが唐突に蘇ってきた。どこかの景色。緑。血の色。
なんだこれは。
「う、うあああああああ!」
私の絶叫に、まさに喉元を食い破ろうとしていた野犬が飛び退る。
目の前に広がる色彩の砂嵐。やがて視界が暗転し、一面の緑が映し出された。
私は森の中に立っていた。
突然の弓弦の音。空を裂いて飛んでくる矢を、避けきれなかった。辛うじて捻った首を切り裂き、矢は側の木に突き刺さる。
私は地面に倒れ伏した。弓を持った一人の男が茂みから出てくる。
「お前は……!」
「その矢にはモルスの汁が塗ってある。せいぜい苦しんで死ぬがよい。おっと心配するな、貴様の研究の成果は私が全て引き継いでやろう。有難く思え」
男が顔を奇妙に歪めて嗤った。そんな顔をする男ではなかったはずだ。
「な……何故お前が」
私の意識が深く沈んでいく。懸命に意識を保とうとするも、全身に回りつつある毒のせいか考えることもままならない。
ここはどこだ……そうだ、ここは王国南部の小さな森だ。薬草の調査に来ただけのはずが、どうしてこんなことに……。
私は首元を押さえた。ぬるりとしたものが手に付いて、私は悟った。これは助からない。
口の中で呪文を唱える。一度も試したことのない呪術だが、こうするより他はない。
私の魂は死にゆく体を離れて宙に舞い上がった。私の魂と身体を結ぶ糸がゆっくりと細くなり、ぷつりと消える。糸が切れた魂は天に昇るはずだが、私は依然としてそこに留まっていた。術は成功したようだ。
私はふわりふわりと空中を漂いながら考えた。
(さて、魂になったはいいが、どうするべきだろうか)
そのとき、私の身体が何かに引っ張られた。強烈な引力に逆らえず、私の身体は速度を上げる。
(何だ!?)
私の魂は森の外れへとぐんぐん引っ張られている。これは……魂のない身体に呼ばれているのか。
森の外れにいたのは、熊に襲われて死にかけた子猫だった。子猫の魂がその小さな身体を離れ、一直線に空へと駆け上がって行く。
私の魂はその身体に引かれ、その力は抗いがたいほどになってきていた。
(やむを得ん。哀れな子猫よ、お前の身体貰い受けるぞ)
私は子猫の身体に飛び込んだ。
強い衝撃。視界に走る閃光。混濁する意識が深い水の底にゆっくりと沈んでいき、そして……。
私は目を開けた。
ここはどこだ。私は誰だ。
私はふらふらとする頭で目の前の熊を見た。殺したはずの子猫がまだ動くことに訝しげな表情を浮かべ、熊は再び私の息の根を止めようと牙をむく。
そのとき、茂みの中から熊に向かって生肉のようなものが放り投げられた。
熊がそっちに気を取られて私を手から落とした隙に、誰かが私を抱き上げて走り出す。
「大丈夫か?」
私を抱いて走っているのは、黒い髪に黒い瞳をした少年だった。
「狩りの帰りで、肉持っててよかったよ。すぐ手当してやるからな、死ぬんじゃないぞ」
私はその腕に抱かれたまま、気を失った。
「……!」
私の頭に流れ込んできた記憶の奔流は、私がユリアに出会う直前のものだった。
思い出した。
間違いない、私は元人間だ。人間としての身体は死に、魂だけが子猫に入って蘇った。そしてそのまま記憶をなくし、ずっとユリアと共に育ってきたのだ。
私はやっと戻った記憶の一部に衝撃を受け、しばし呆然としていた。
前世が人間というわけではない。ミセリアが言ったことは正しかった。私の魂は一人の人間なのだ。この身体はいわば借り物で、私の身体はとうの昔に骨になっているのだろう。
おそらく、身体とは魂の入れ物でしかないのだ。身体は中の魂に付き従うもので、身体単体ではただの肉の塊に過ぎない。身体に宿る命ーーそれこそが魂であり、魂が天に昇って身体と繋がる糸が切れたとき、初めて身体も死を迎えるのであろう。私の身体と魂を結んでいた糸は切れてしまっているが、今はきっとこの身体と新しい糸で結びついている。
図らずも知ってしまった自分の正体を、私はしかし冷静に受け止めていた。いつも心のどこかで自分が猫ではないと思っていたせいもあるかもしれない。
そういえば、野犬はどうなったのだろうか。周囲を見渡すと、私を取り囲んでいた野犬たちは影も形もなかった。
しかし、明らかにあるはずのないものがそこにあった。私は二度見して愕然とした。
ミネラの、外壁だ。
太陽の傾きに変化はなく、野犬に囲まれてからほとんど時間が経っていないのは明らかだ。先程までいた場所からこのミネラまで、馬でも数時間かかる距離を一瞬で移動したとでも言うのか。
私は混乱した。
考えてわかるはずもない。わかるのは、ミセリアの言っていた「生命の危機」によって記憶の一部が戻ったということと、私がミネラに着いたということだけだ。
私はしばらくふらふらと周囲を見渡していたが、やがて我に返った。
ここまで来たら、ミセリアに会ってみるしかあるまい。
足元を見ると、胸に抱いていた手紙が落ちていた。ほっと安堵し、手紙を再び咥えると門に向かって歩き出す。ミネラに着いたはいいが、先程の競争のせいで疲労が溜まっている私は歩くのも辛いほどだった。
北門の前には兵士が二人立っている。
「おい、見てみろよ。黒猫がいるぜ」
「本当だ。手紙まで咥えてら」
「おい猫! 街に入るのか?」
笑う兵士たちに向かって私は頷いた。
兵士たちは驚いて顔を見合わせる。
「俺が言ったこと、わかったんじゃねえか?」
「まさか。ただの偶然さ」
私は門の前で立ち止まり、兵士たちをじっと見つめた。人前で喋るのは得策ではない。あくまでもただの猫を演じなければ。私は内側に入りたそうな素振りを見せた。
「入りたそうだぜ」
「開けてやるか」
「そうだな」
扉が開き、一日ぶりのミネラの街が姿を見せた。
私はゆっくりと足を踏み入れ、大通りを進む。足が棒のようだ。ミセリアの店は、確かここを曲がったはずだ……そして右……ここの路地裏をまっすぐ。
足が棒のようで、思うように動かない。一歩一歩、倒れそうになるのを必死で堪えながら歩いた。まだかまだかと念じる私の前に、目の前にあの看板が姿を表した。
着いた。
私は呼び鈴を鳴らそうとしたが、できなかった。人間用の高さの呼び鈴は飛び上がらなければ私には届かず、今はその体力がないのだ。
仕方なく扉を前足で叩くが、弱々しい音しか響かなかった。
どうか気づいてくれ、という願いが届いたのか、しばらくしてから「はーい」という声と共に扉が開く。
「いらっしゃい……あら、ノックスちゃんじゃない! どうしたの、疲れてるの?」
「すまない、少し……休ませてくれ」
私は店内によろよろと入り、床の上に倒れ伏した。手紙を口から離す。
「ああ、疲れて死にそうだ。いや、実際死にかけた」
ミセリアは店の奥から毛布を引っ張り出して床に敷いてくれた。
「ありがとう」
私は毛布の上まで這っていった。
「どうしてそんなに疲れているの?」
「ちょっと野犬と追いかけっこしてな」
ミセリアは冗談だと思ったらしく、面白そうに笑った。
「そういえばあなたとユリアちゃんって、どうしてミネラに来たのかしら。まだ荷馬車の季節でもないでしょう? それに、その手紙は何?」
私はミセリアを見つめた。見た夢を覚えておける魔法について尋ねるつもりだったが、思い出してしまった以上はこちらが優先だ。自分の記憶を話すことはそのまま私とユリアについて話すことになり、必然的に旅の目的をも話すことになる。ミセリアを信用するべきか、否か。
私は心を決め、口を開いた。
「今から、ここに来た理由も含めて全てを話したい。私とユリア、それからこの国の王の命にも関わる話だ。……あなたを信用してもいいか?」
しばしの沈黙。
やがてミセリアは、黙って頷いた。
外に出て店の入り口に《本日休業》の札を掲げ、鍵を閉めると戻ってきて椅子に座る。
「どうぞ。きっと長い話になるのでしょう」
「ありがとう。では、始めよう」
私は全てを語り始めた。
ついに明かされた真実の一部。
「予想通りだった」という方はどれほどいらっしゃるのでしょうか…




