五 逆戻り中央街道
私は首から袋を提げ、赤い家を後にした。入っているのは国王への手紙といくばくかのお金、そして干し肉だ。草原で餌を探す時間も惜しいので、食べやすいものをと思って背嚢を探ったがこれしかなかった。やや味が濃いが、この際仕方ない。
家を出て、街道まで歩く。
果てしなく続く街道の道幅は、やはり広い。荷馬車が二台余裕を持ってすれ違えるほどの広さだ。石畳は所々欠けているものの、あまりにひどいひび割れなどは見当たらなかった。定期的に補修が行われているのだろう。
私は走り出した。
オルニットのように速く長くは走れない。上手に休憩を入れつつ、疲れすぎないように走らなければ。私は慎重に走り続けた。
途中で肉球が痛くなったため、街道に沿って草原を走ることにした。足の裏から伝わる土の感触にほっとする。
人間は靴を履くから石畳の上で行動できるのだろう。そういえば、オルニットの足にも靴のようなものが付いていた。蹄鉄、とか言ったか。だから街道を走ることができたのだ。
ミセリアの店で、私に合う靴も買おう。
私はそう心に決めて走り続けた。
「違う! そうじゃない!」
クラヴィスの怒鳴り声が草原に響く。
「力を抜け。そんなガチガチな腕で何するつもりだ」
クラヴィスにくるりと投げ飛ばされたユリアは悔しそうに立ち上がった。
「くそっ、感覚が掴めない」
「感覚ってのはな、練習してるうちに突然掴めるもんだ。掴もうとして掴めるなら誰も苦労しないだろう。ほれ、もう一回!」
クラヴィスがユリアに向けて腕を振り下ろす。
ユリアはその腕を優しく掴んで引き付け、同時にクラヴィスの足を払う。クラヴィスの身体は一瞬ふわりと浮いたが、そのまま何事もなかったかのように着地してしまった。そのままユリアの身体が引き付けられ、逆にユリアが投げ飛ばされる。
「またか……」
寝転んで悔しがるユリアに、クラヴィスは声をかけた。
「今のは良かったぜ。少し浮いた」
「手も足も使って、やっと浮く程度だ。クラヴィスさんは手だけで俺を投げ飛ばすのに……」
「この馬鹿」
ユリアの頭にクラヴィスの拳骨が落ちた。
「いってえ!」
「俺が何年これをやってると思ってる! 人の身体を浮かせられるようになるまで、普通のやつなら数ヶ月だ。お前はかなり早いほうなんだぜ」
「五日で習得しないといけないんだ、それじゃ遅すぎる。……もう一回お願いします!」
ユリアは再びクラヴィスに向かっていった。
私が六ドゥム(三時間)ほど走り続け、疲れを覚えてきた頃、何か違和感を感じた。
おそらく……誰かに見られている。何だか首筋がぞわぞわする。昨日の化物と同じ、身体が危険を告げているような感覚だ。
「ちっ……」
何者かはわからないが、この疲れた状態で襲われると少しまずい。
私は立ち止まり、少しでも体力を戻すために干し肉を食べることにした。首の袋を降ろし、干し肉を引っ張り出して食いちぎる。濃すぎる味付けに一瞬むせたが、構わず飲み込んだ。
そのとき私の横手から姿を現したのは、野犬の群れであった。
「……しまった!」
干し肉の匂いに釣られてきたのか。
一匹でもかなり危険な大型の野犬が十匹以上、唸りながらこちらへ迫ってくる。これはまずい。……非常にまずい。
私は干し肉をその場に残して右に走り出した。野犬が干し肉を狙っているのは明らかだ。これに食いついているうちに迂回して先に進もう。
しかし、私が甘かった。もともと量が少ない干し肉、ありついた野犬はわずか三、四匹。残りは干し肉の香りが染み付いた袋に釣られ、私を追いかけてくる。
私はほぞを噛んだ。この袋の中には、あの手紙が入っている。犬たちはおそらくこの袋の中にもっと干し肉が入っていると思っているだろう。袋と一緒に手紙が引き裂かれてしまってはどうしようもない。
さらに、ここに干していない生肉の塊が一つ。
……冗談じゃない、食われてたまるか。
私は逃げることにした。立ち止まれば、袋は奪われる。そして、私も食われる。こんなところで死ぬわけにはいかない。
素早く走り出した私を追って、野犬たちも速度を上げた。私は野犬の走る速さに合わせて距離を保ちつつ逃げようとしたがみるみるうちに追いつかれそうになり、慌てて速度を上げた。ほぼ全速力である。
この速さで、一体いつまで保つか。
早く諦めてくれ。頼む。
「またか……」
大量に汗をかいたユリアが、草原に突っ伏したまま悔しそうに呟いた。
その横では、汗一つかいていないクラヴィスが涼しそうな顔をしている。
「落ち込むほど悪かないぜ」
「俺にはそうは思えません……」
「あとは一回成功するだけだ。上手くいく感覚がわかれば、お前のことだ、一回でそれを掴めるさ」
「そうだといいんですが」
「休憩するか?」
「いえ、まだやれます!」
「よーし」
ユリアは立ち上がり、振り下ろされたクラヴィスの腕を引くと同時に足を払う。クラヴィスの身体が跳ね上がった。
「おおっ!」
しかし、勢いがなかった。
クラヴィスの身体は回転の途中で失速し、そのまま落下した……ユリアの上に。
「ぐえっ」
「もうちょいじゃねえか! 今のは惜しかったぜ」
クラヴィスはユリアに乗っかったままガハハハと笑った。
「……いいからどいてください」
下敷きになって息も絶え絶えといった様子のユリアには、クラヴィスの顔が驚きと興奮に満ち溢れているのが見えなかった。
(練習を始めて半日でこのレベルか……こいつは想像以上だ)
クラヴィスは、ニヤリと笑った。
(鍛え甲斐があるってもんさ)
「さあ起きな、続きだ」
「くそっ!」
私は走りながら悪態をついた。
野犬たちは楽々と走っているが、私は既に限界が近い。太陽は既にほぼ真上まで昇っていて、私の身体を容赦なく焼いてくる。私は自分の体力の底を感じた。このままでは確実に追いつかれる。私は仕方なく、走りながら袋を開け、手紙を咥えた状態で袋を首から外した。
干し肉の匂いが染み付いた袋が道に落ち、犬たちがわっと群がる。
成功したか。後ろを振り返ってみると、残念ながらそうではなかった。半分以上は袋に釣られたものの、まだ五匹もの野犬が執念深く私を追いかけてくる。
靴を買うお金もなくなったが、今はそんなことを嘆いている場合ではない。
追い立てられ、手紙を咥えて走り続ける私の心臓は口から飛び出しそうになっていた。軽率な思いつきでミネラへと向かった自分を責めながら、私は必死で走り続けた。私にはまだやるべきことがあるのだ。野犬に食われている場合ではない。
走り続けると呼吸が荒くなり、目が霞んできた。破らないように咥えているため、唾液も飲み込むこともできない。油紙の封筒のおかげで中の手紙が濡れないのがせめてもの救いだ。
後ろから聞こえる足音。息づかい。目の前の餌に、犬たちも興奮しているのだろう。
冗談じゃない!
私が食べてきた虫や小動物も、食われる直前はこんな気分だったのだろうか。私は縁起でもないことを考えつつ、なお走った。
クラヴィスの身体が跳ね上がる。しかし、半回転もせずに重力に負けて落ちてしまう。
「ふーむ……あと少しなんだがなあ……」
ユリアをくるりと投げ飛ばしながら、クラヴィスは首を捻った。
「お前ならそろそろできてもおかしくないはずなんだが」
ユリアは仰向けになって空を眺めた。朝に練習を始めて、今はもうとっくに真昼を過ぎている。
「ちくしょう」
ユリアは苛立ちまぎれに地面を殴りつけた。
「おいユリア、よく聞け」
クラヴィスがユリアの隣にどっかりと腰を下ろした。
「俺はな、今日一日教えて少しでも身体が浮くようになればいいと思ってた。わかるか? お前の飲み込みの早さと格闘におけるセンスはかなりのものだ。正直に言って、俺の予想の遥か上だ。このままいけば絶対に間に合う。だから焦らなくていい。そして」
ユリアの頭を軽く小突く。
「お前は体で覚えこむタイプのようだが、頭も使えよ。俺が説明した力の流れを想像しろ。力に矢印を付けて頭に描け。お前は矢印の向きを強引に変えようとしている、だから勢いがなくなるんだ。お前には俺の身体を強引に投げ飛ばすほどの力はない。いいか、矢印の向きをそっと変えてやるんだ。優しくな」
立ち上がり、ユリアの腕を引っ張って立たせる。
「休憩だ。昼飯食ったら再開するぞ、今言ったことをしっかり考えろよ」
大学の学祭があり、更新が少し減るかもしれませんが頑張って両立したいと思います。




