二 炎の竜の伝説
山脈は近づくほどにその威容を増していく。低い山と高い山が入り混じり、山脈と言うよりは山地に近いかもしれない。
太陽はすでに西に傾いている。幾度かの休憩を挟み、私たちは夕焼けに染まる山脈の麓まで近づいていた。
「ユリア、右のほうに小川があるぞ」
「よし、じゃあそろそろ休憩するか」
ユリアは手綱を操って街道から少し外れて小川のほうに走った。速度を十分に緩め、飛び降りる。手綱を放すとオルニットは嬉しそうに水を飲み始めた。私も飛び降り、小川から水を飲んだ。
「だいぶ近づいたから、ここらで夜まで待つかな」
「そうだな、それがよかろう」
水を飲み終わったオルニットの手綱を引き、適当な木陰を探す。草原には木がまばらに生えていて、そのほとんどは低木だ。ユリアは一本の木を選び、枝に手綱を結びつけた。手綱はかなり余裕をもたせてあり、オルニットに窮屈そうな様子は見えない。
「こいつは手綱放しても逃げないから楽だな」
そこらへんの草でも食ってこいと言ってユリアが軽く叩くと、オルニットは嬉しそうに草を食み始めた。
「こいつはいつも嬉しそうだな」
私が呟くと、ユリアはにやっと笑った。
「年がら年中無表情の誰かさんとは違ってな」
ここで言い返すのも馬鹿らしいので、「そうだな」とだけ返して木の枝に登る。
遠くを見ると、何か赤いものが見えた。目を凝らして、じっと見つめる。明らかに周囲の自然から浮いているそれはーー。
「おいユリア」
「何だ」
「家があるぞ」
「ああ、赤い家だろ? 誰が住んでるんだろうな」
「なんだ、知ってたのか」
「四回も通ったからな。往復だから八回か」
ユリアは遠くを眺めるようにして言った。
「あの家には誰も住んでいないってある先輩が言ってたけど、俺は以前通ったときに灯りが点いてるところを見た。中にいる住人の顔は知らないけどな」
「このような辺鄙な場所に住むとは、物好きもいたものだな」
まったくだ、とユリアが頷く。
「食べ物なんか、どうやって調達してるんだろうか。この時期は化物が出るらしいけど、ひょっとして化物って食えるのか?」
「食えるわけがなかろう」
「だよなあ」
日はゆっくりと沈んでいく。私は、少しずつ緊張してくるのを感じた。それは意識的なものではない。この山脈から発散されている、不気味な生温かさによるものであった。
「なあユリア」
「ん?」
「なんだか暖かくないか」
「ああ、炎の竜のせいだな」
「炎の竜?」
聞いたこともない単語に、私は眉をひそめようとした。が、そもそも眉がなかった。
「そうか、お前は聞いたことないかもなあ」
ユリアが話し始めたのは、昔からこの国に伝わるという炎の竜の伝説だった。
「俺たちがいるこのハルモニア王国の地中深くには昔、炎の竜が支配する王国があった。人々は乱暴な炎の竜の悪行三昧に苦しみ、いつかこの残虐な竜を倒すと心に誓った。そして長い年月を経て、人々は竜に対抗する手段として魔法を生み出した。魔法があれば、竜の炎に対抗できる。人々は反乱を起こし、炎の竜との戦いに挑んだ。炎の竜は荒れ狂い、口から猛火を吐き、鋭い爪と棘の付いた尻尾を振り回した。多くの人が焼かれ、潰されて死んだ。それでも人々は決して諦めなかった。ついに、竜との戦いを制したんだ。死してなお燃え盛る竜の死体を、人々は最後の力を振り絞って硬い岩の中に入れ、固く閉ざした。それから長い時が過ぎ、人々は地上へと出て新しい王国を創った。それがハルモニア王国だ。竜を閉じ込めた岩は、中の炎の竜の体のせいで今でも高熱を放っている。その岩は、アルカナ山脈の真下に埋まっているんだ。だからこの山脈の近くは冬でも暖かいのさ」
私はじっと聞き入っていた。
「俺が拾われたばかりの頃ーーお前を拾う前だなーー寝付けない俺に、あの人たちがよく話してくれたんだ。今でも覚えてるもんだな、もう十何年も前なのに」
ユリアが感慨深げに言う。あの人たちとは、ユリアと私を育ててくれた老夫婦のことだろう。
「なるほど……」
炎の竜を信じたわけではない。伝説はあくまでも伝説だ。しかしーー魔法という単語が、伝説として笑い飛ばすには少し引っかかった。昨夜聞いたばかりの単語だ。
「なあ、ユリア」
「なんだ?」
「魔法というものが、本当に存在すると思うか?」
ユリアは笑いながら言った。
「そんなものがあったら、さぞかし便利なことだろうな! こんな危ない街道を通らなくても王都までひとっ飛びだ」
その口調からは魔法の存在を信じていないのがはっきりわかった。私は少し迷ったが……結局何も言わないことにした。今言ったところで、魔法が実在するなどとは信じてもらえまい。
いつの間にか空は暗くなり、夜の帳が下りていた。辺りは暗闇に包まれている。私の目は、昼間とは違った色彩で周囲の景色を映し出していた。
「そろそろか」
「ああ。見えるか、ノックス?」
「はっきりとな」
私たちはオルニットに飛び乗った。私がユリアの前に座り、前方を見渡す。
「オルニット、ちょっと怖いだろうけど大丈夫だ。しっかり走ってくれ」
ユリアが手綱を引くと、オルニットはやや不安そうに走り出した。私は道を見ながら細かく指示を出していく。
「少し右に寄り過ぎている。もう少し左だ。そう。そう……この先で道が右に曲がっている。そう、そのくらい」
暗闇に包まれた街道をひた走り、やがて前方に小さな光が見えてきた。
「驚いたな! 先程の家から灯りが漏れているぞ。本当に誰か住んでいるらしい」
「な、言っただろ」
光はだんだん大きくなり、やがて右横に流れると後方へと消えていった。家の横を通り過ぎたらしい。横と言ってもかなりの距離があるのだが。
「家を通り過ぎたぞ」
「よし、それならもう山脈に入るはずだ。しっかり頼むぞ、ノックス!」
「任せろ」
私は目を凝らして前方を見続けた。何か異変はないか、道は続いているかーー。
ともすれば立ち止まってしまいそうになるオルニットを励ましつつ、走っていたそのとき。
ぞわりと、私の毛が逆立つ。
「止めろ!」
私の叫びにユリアは手綱を全力で引いた。
前方に見えるのは、四本足の黒い影。大きさはオルニットと同じくらいだが、足の太さはオルニットとは比べ物にならない。獰猛な唸り声とともにこちらへ向かってくる気配にユリアも気づいたらしく、顔が強張っていた。オルニットも怯え、震える声で嘶く。
そいつは、ゆっくりと立ち上がった。
私は愕然とした。四足歩行ではなかったのか! 二本足で立ったそいつはユリアが縦に二人並んだほどの大きさで、その威圧感に私の全身からさらに嫌な汗が吹き出した。こいつはまずい。
そいつはすっと腕を振り上げた。
「右に避けろ!」
手綱を引かれて右を向いたオルニットの鼻先を掠め、振り下ろされたそいつの腕は石畳を爆砕した。なんという力だ。
「後ろに逃げろ! こいつから離れるんだ!」
私たちは今まで通ってきた道を辿って逃げ始めた。後ろを振り返ると、そいつは四本足に戻って追ってきている。
速い!
「もっと急げ! 追いつかれる!」
「そんなこと言ったって……くそっ、暗闇の中じゃオルニットが怖がって速く走れねえ」
オルニットを急き立てつつ、私たちは街道をひた走った。
「もっと速く!」
「これが限界なんだよ!」
迫り来る黒い影。蹄の音とそれを上回る地響き。
「これが化物か……」
私は慄然として呟いた。中央街道が危険だというのは、こういうことか。
必死に走り続ける私たちの前に、小さな光が二つ見えてきた。どうやら先程の家の位置まで逃げてきたらしい。私は、ふと違和感を覚えた。家は私たちの左前方にあるはずだ。では目の前の光は何だ?
さらに近づいて、その違和感の正体が判明した。その光は家から出たものではなかった。松明だ。一人の男が、松明を持って街道に立っている。
「ユリア、前に人がいるぞ!」
「なんでだ!?」
ユリアもそれに気づいたようだが、かといって馬を止めるわけにもいかない。為す術のないまま、私たちは男にどんどん近づいていった。敵か? それとも味方か?
そのとき。
「そのまま走ってこい!」
前方から野太い怒鳴り声が聞こえた。間違いない、あの男からだ。一瞬迷ったものの、私たちは指示に従い、男の横を走り抜けると、少し離れた地点で立ち止まり、後ろを振り返った。
立ちはだかる男に向かって化物が疾駆していった。先程石畳を砕いた腕が、再び振り上げられる。人間など、ひとたまりもないだろう。
私には、そのあと何が起こったのかわからなかった。
松明を投げ捨てた男の身体が流れるように動き、化物の懐にするりと潜り込んだその刹那、化物が宙を舞ったのだ。鮮やかに空中で一回転すると化物の巨体はそのまま背中から落下し、石畳を軋ませる。化物の喉から苦しそうな呻きが漏れた。
あの巨体を、投げ飛ばしたというのか。なんという怪力だ。
男は素早く松明を拾い上げると、その化物に近づける。目の前でゆらゆらと揺れる炎に化物は激しく嫌がるような素振りを見せた後、起き上がってしばらく唸っていたがやがて山のほうへ駆け出していった。
あっさりと化物を追い払った男はこちらを振り返り「付いてこい」と手招きした。
そのまますたすたと歩き出す。
「……どうする?」
「とりあえず、俺たちを助けてくれたことは確かだ。付いていってみよう」
「そうだな」
ユリアはオルニットの首を巡らせ、男の後を追った。
どうも他の小説と比べてキャラクターが少ないですね……というわけで、次回新キャラ登場です。




