妹ははたらかない
大通りの方から祭囃子が耳に届いた。
夏祭り――もうそんな時期かと少し驚きながら、自宅の玄関扉を開いた。右手に数冊の就職情報誌を抱えて。
そう、今の俺は夏祭りがどうとか言っている場合ではないのだ。
「ただいま」
その言葉に返事がないのはいつもどおり。
俺はきしむ階段を一段飛ばしで登り、二階に入ってすぐ左側に見える部屋のドアノブを回した。当然ノックなんてしない。
「あ、帰ってたんだ」
素っ気ない声に、思わず溜息が漏れる。
俺の淀んだ視線の先には、Tシャツとパンツ一枚のだらしない格好でベッドに寝そべり、悠々と棒アイスをかじる妹の姿があった。
〈妹ははたらかない〉
ここは妹、三毛子の部屋。
所狭しと置かれた本棚には漫画がぎっしりと詰められ、脇の方には最新ゲーム機とテレビ、果ては冷蔵庫まで完備されている。
おおよそ日本中の男児が憧れそうな内装だ。女の子らしいものはほとんどない。
「兄ちゃん、仕事は?」
突然入ってきた俺に微塵も動じず、三毛子は欠伸混じりの口調で尋ねてきた。とある有名な小説にも登場する猫みたいな名前だが、一応人間だ。
「土日だから休みだよ。言ってあっただろ」
記憶力のない妹に呆れて嘆息する。やっぱり頭の方は動物並みなのかもしれない。
この家は現在、俺とこいつのふたり暮らしだ。今は午後の二時過ぎくらいだが、平日の俺は仕事で夜遅くまで帰ってこない。まあ、ごく普通の社会人だ。
対して、三毛子はといえば……
「そんなことより、ほら。今日もいろいろ仕事探してきてやったぞ」
立派なニートである。本人いわく自宅警備員らしいが、知ったことか。無職は無職だ。
俺の掲げた就職情報誌を見上げ、妹は舌打ちひとつ、不満げに呟いた。
「えぇー、懲りないなあ兄ちゃんも」
「むしろ懲りごりなんだよ、おまえの世話が」
まるで他人事だ。野暮ったい白のパンツ丸出しで生意気な口を叩く妹に、思わずこちらも毒を吐いてしまう。しかし、それでも三毛子が反省する様子は見られない。
こんな問答も毎日飽きるほどしている。俺は今日こそはと情報誌を捲り、その中の一ページを見せた。
「ほら、これとかどうだ? 事務職は楽だって聞くぞ」
「あたしジムって嫌いなんだよね。弱そうで」
「ん?」
なにやら会話が噛み合っていない気もするが……とにかく手応えなしだ。
気を取り直して、別の冊子を手に取る。
「じゃあ最初はバイトからでもいい。これはスーパーのレジ打ちだってさ。そういや近所のコンビニも募集してたし、そっちも悪くないんじゃないか?」
「接客ぅ? あたしがぁ?」
唐突に三毛子が胡乱な目つきを向けてきた。
その眼差しは、さも「あたしに務まると思うか?」と言外に問いかけているようで……
俺は無言で視線を逸らした。
――無理だよな。一切の人づきあいを断ち切って自宅に籠もって、もう二年間だもんな。いきなり接客業はハードル高いよな。
その後もいくつか提案してみたが、無惨にもすべて却下された。元々、最初の二件が妹のために俺が厳選したものだったんだ。他にいい求人が発見されるわけもない。
これが毎度のパターン。俺がいくら仕事や休暇の合間に職探しをしても、理屈を捏ねて突っぱねられる。
そうして結局、三毛子はニート生活を貫き通しているのだった。
どっこい、今日の俺は簡単には挫けなかった。妹に合う仕事がないのなら、妹に合わせた行動を取るまでだ。強硬策になるが、仕方あるまい。
「ちょっとこい」
「い、いきなりなによ!」
決意した俺は三毛子の手首を掴むと、強引に部屋から引っ張り出した。階段を降り、廊下を歩く間も抵抗されたが、ニートの力なんてささやかなものだ。
「もしかして、外に出るつもり……?」
玄関口でサンダルを引っかける俺を見下ろし、ようやく勘づいた三毛子が呟く。俺は無言で頷き、扉に手をかけた。
――この社会不適格者に就職はまだ早い。最初は外界に慣れるところからだ。
俺は振り向かないまま、外へと一歩踏み出し……
脳天をぶん殴られた。
「いでえぇぇ!」
突然の痛みに頭を抱え悶絶する。この馬鹿、兄に暴力を振るってまで外出したくないのか。
恨みがましい視線を妹に向けると、なんと奴はそれ以上に恐ろしい眼光で俺を射抜いていた。
我ながら情けないことに、実の妹の形相に委縮してしまう。と、三毛子は怒り心頭の様子でただ一言、
「せめて、ズボン穿かせなさいよ……!」
Tシャツの裾を懸命に伸ばしながら、真っ赤な顔でそう言った。
「お待たせ……」
その声に振り向くと、三毛子が玄関前に覚束ない感じで佇んでいた。まだ両頬を赤らめている。
本当にさっきまでの服装からズボンを穿いただけの、まんま部屋着だったが、ニートにお洒落は必要ないだろう。
「別にい――お?」
ふと、妹の立ち姿に違和感を覚えた。
まあ普段は家の中でしか見ないから不自然なのは当然なんだが、問題はそこではない。思わず全身をまじまじと観察してしまい、
「な、なによ」
「ええと、なんというか……」
やはりこいつの胸元、どう見ても……
「おまえ、ブラジャー着けなくていいの?」
「あ!」
はい、やり直し。
「お待たせ……」
その声に振り向くと、三毛子が玄関前に覚束ない感じで佇んでいた――って、もういいか。
「今度こそ大丈夫だな。じゃあいくぞ」
とりあえず外に連れ出すことは成功だ。内心で安堵しながら、三毛子を先導するようにさっさと歩く。歩幅が違うせいか、妹は小走りでついてきた。
「ねえ! どこいくの」
「夏祭りだよ。言ってなかったか?」
答えるついでに歩くペースを落としてやる。日頃の運動不足が祟ってか、三毛子はもう息を切らしていた。
夏祭りに出向くというのは、完全にただの思いつきだ。どうせ外出するのなら、普段とは違うこういったイベントのある機会がいい。
「祭りなんて、おまえ何年ぶりだよ。せっかくだし楽しもうぜ」
「うーん、まあ……。でも、つまんなかったらすぐ帰るから」
「へいへい」
我が儘なお姫さまだ、まったく。
他愛ない会話をしていると、あっという間に屋台が立ち並ぶ通りに着いた。たいした規模ではないが、それでも若者や親子連れの人々で賑わっている。
学生の頃は、祭りの喧騒を聞くだけですこぶる興奮したものだが、三毛子はどうだったか。兄妹でくるなんて小学生の頃以来だから、全然覚えていない。
気になって隣に目を向けると、
「え」
三毛子は、童心など何処かに忘れてきたような仏頂面で、じっと俺を睨んでいた。
何事かと胸中で焦っていると、暗い面持ちのままでぼそりと呟く三毛子。
「あたしが人ゴミ嫌いだって知ってるよね……」
「り、リンゴ飴食べたくないか!? ほらあっちにお店あるぞ!」
まずい空気を感じ取った俺は、適当な屋台を指差して叫んだ。やはりニートにこの文字通りのお祭り騒ぎは厳しかったか。
なんとか機嫌を直さないと。気乗りのしていない妹を無理やり引っ張り、リンゴ飴を買って手渡す。
もう無我夢中でやっていた行動だが、飴を一口舐めた三毛子の表情が蕩けた瞬間を、俺は見逃さなかった。
――これは使える!
灰色の脳細胞でそう判断し、俺は咳払いをしつつ告げた。
「よし、今日は俺が奢ってやろう。二千……三千円まで好きなものを買っていいぞ」
「本当!?」
子どもをあやすような手段だが、三毛子は瞳を爛々と輝かせて感激していた。妹のこんな無邪気な笑顔は久しぶりに見た気がする。これだけで夏祭りに連れ出した甲斐があったというものだ。……三千円はかなり痛いけど。
「ああ。その代わり、晩飯も一緒に済ませよう。だからできるだけ腹に溜まるものを――」
「あ! たこ焼き食べたい!」
「言うまでもなかったな」
俺の言葉を無視して屋台に突撃する三毛子の背中を見て、思わず苦笑する。まるで本物の子どもみたいだ。
だが、だとすると今度は迷子になりそうで不安を誘う。今のあいつでは、俺を見失ったらその場で泣き喚いても不思議ではない……気がする。
……仕方ないな。
俺は今日何度めかの溜息を吐き出し、たこ焼きを手にしてホクホクする妹に右手を差し伸べた。
「なに、兄ちゃん。一個ほしいの?」
「自分で買うわ。それより、はぐれるから手握ってろ」
「うん」
存外素直に俺の手を受け入れた三毛子。手が重なると、むしろ俺の方が気恥ずかしくなってきた。
正直この年で妹と手を繋ぐなんて寒気がするが……周りはもっと距離の近いカップルで溢れているのが幸いか。とにかく、あまり意識しなければいいのだ。
「そうだ! かき氷買って!」
「おう」
「金魚すくいだ……やってもいい?」
「しょうがねーな」
「タコのから揚げだって! タコ!」
「はいはい」
「あ、かき氷食べたくなってきた」
「おまえ、阿呆の子なの?」
俺たち兄妹は、欲望の赴くまま次々に屋台を梯子していった。財布事情は、この際もう考えるのはやめた。
それにしても、三毛子はこっちが仰天するほど、最初の態度が信じられないほど祭りを堪能している。射的で五百円をドブに捨てたと思えば、一度きりのくじ引きでは、巷で噂の3DS(のパチモン)を当てやがった。また家に引き籠る理由を与えてしまったか……
そろそろ目ぼしい店はすべて消化したかと思って左右を見回していると、
「お、焼きそば食うか」
定番中の定番が残っているのを発見した。
ラムネ瓶のビー玉に悪戦苦闘していた三毛子も顔を上げ、満面の笑みで何度も頷いた。
「うん! 食べる!」
「よし。じゃあ……すいません、焼きそばふたつ」
「片方は紅ショウガなしで」
注文すると、最高のタイミングだったらしい、焼きたてのパックをもらった。
俺たちは熱々の焼きそばを持って適当な道端にしゃがみこんだ。さすがに立ち食いは難しい。
いざ蓋を開けて濃厚なソースの香りを楽しむ俺とは反対に、妹は不満も露わに頬を膨らませた。
「肉、入ってないんだけど……」
「……まあ、そんなもんだ」
俺の方には入ってたけどな。
これが日頃のおこないの差か、と考えながら意外に美味い焼きそばに舌鼓を打っていると、
「……あれ?」
ふと、隣にいたはずの三毛子の姿がないことに気づいた。
迷子になるかも――という不安が脳裏に蘇る。
慌てて立ち上がって四方に視線を巡らせ――見つけた。
さっきの焼きそば屋の前だ。安心する反面、なにをしているのかと疑問に感じる。観察していると、三毛子はまだ中身の入ったパックを店主に差し出し、
「お肉入れてください!」
ぶっ! と、思わず漫画みたいに唾を吐き出してしまった。
なんて恥ずかしい真似をしてるんだ!
俺は全速力で駆け寄り、苦笑いする店主のおじさんに思い切り頭を下げた。隣で棒立ち状態の妹の後頭部を引っ掴み、こちらも九十度にお辞儀させる。
「すみませんでした! こいつ阿呆なんです! 間抜けで厚顔無恥で、だから二十歳にもなってニートなんです!」
「ちょっと余計なこと言わないでよ馬鹿!」
妹の罵声で、がむしゃらに謝罪を重ねていた俺は我に返った。はっ、口が勝手に。
「はっはっは。面白い子たちだねえ。しょうがないオマケしてやる」
いつの間にか大笑いしていた店主はそう言って、三毛子のパックに焼きそばを大盛りで入れてくれた。もちろん肉もたっぷりだ。
「やーん! ありがとう!」
身体をくねらせ叫び出す妹を横目に、俺は浮かない表情で、
――ああ、これは恋人かなんかと勘違いされたな……
なんてことを思って、複雑な気分になっていた。
「はぁ……三毛子、もうあんなことするなよ……」
「えー、なんで?」
「なんでって……もういい」
さっきと同じ道端で、満足げに焼きそばを頬張る三毛子への説得を諦め、俺はがっくりと俯いた。
まったく、肝の冷える経験だった。
あの焼きそば屋がノリのいい店主じゃなかったら、俺は周囲の絶対零度の視線に刺し貫かれていたところだ。
だが、いくら言ってもこいつには伝わらないだろう。
能天気な妹がたまに羨ましくなる。俺も過ぎたことはさっさと忘れよう。
軽く頭を振って気持ちを切り替える。
そして俺は、ぼんやりと夏祭りの風景を眺めながら言った。
「どうだ。たまには家の外もいいだろ」
そう、三毛子が外出して楽しむこと――当初の目的はそれだった。
妹のことが、ずっと心配だった。仕事がどうとか以前の問題で、四六時中部屋に籠もりきりでは、身体にも心にもよくない。
正直に言えば、独身の俺がこいつを養うくらい簡単なことだ。だが、妹が毎日を退屈そうに過ごす様子をただ傍観しているのは、兄として、家族として辛くて、我慢できなかった……それが俺の本音。
「今日は、楽しかったか?」
俺の問いかけに、三毛子は慌てて焼きそばを呑み込んで――少し咳込みそうになってから――照れたように、視線を逸らして呟いた。
「まあ、それなり……」
「――そうか」
素直じゃない、捻くれた性格をしているのは長年ともに過ごしているから知っている。だから、その言葉を聞けただけで、俺は満足だ。
急に食べるペースを落として、小鳥みたいにちびちびと焼きそばを口に運ぶ妹を見つめ、俺はその頭を優しく撫でた。
その翌日から、三毛子は積極的に外出するようになり、買い食いが趣味になった。
俺の出費がかさんだ。