No.69 Bionoid
バイオノイドとは、他者からの移植に頼ることなく人体のスペアを確保、鮮度の高い状態のまま常時ストックとして維持することを目的に開発された人造人間のことである。
四肢や臓器はもちろんのこと、神経に至るまで、欠損した身体の部位を細胞単位で補完するために生み出された。オリジナルに万が一の災難が襲ったとき、その記憶や個性も含めて、受難以前の状態を取り戻すために作り出された。ただし、脳にだけは“A.I.”と呼ばれる人工知能のチップを埋め込む、という人工物の処置が例外的に施されている。それはオリジナルの身体が全損したとき、オリジナルの記憶、感情、思考などを人工知能へコピーする必要があるためだ。だが脳とそれに繋がる脳髄や脊髄組織以外は、人間と同じ組織で構成されていた。
最大の利点は、オリジナルの肉体が絶対に拒絶反応を示さないこと。数多のドナーが求める患者に臓器や皮膚などの人体組織を提供したにも関わらず、拒絶反応によって救えなかった命を思えば画期的なスペア確保の手段である。また、常時生活動をさせるので、被移植者の低体温処置も移植細胞の常温処置も不要となる。言い換えれば、移植手術に即時対応する最高品質の状態、それがバイオノイドを推すもう一つの大きなメリットだ。
だが、バイオノイドを正常に温存維持させる、つまり人間と同じ生活動をさせる過程に於いて、開発者たちは致命的なリスクを認識せざるを得なかった。
“バイオノイドに生活動をさせると、脳に仕込んだA.I.が個性を持ち始める”
研究者たちもまた、人間である。この偉大なる功績に自尊心を満たされる一方で、自分たちの生み出したモノが人工物なのか人間なのかに迷う結果となった。もちろん、電気信号を送る装置でA.I.とオリジナルの脳を繋げば、A.I.の人格はオリジナルの人格に上書きされるので問題はない。ただ、それが倫理的、人道的にどうなのか、という人間臭い感情論で悩まされた。その感情論がA.I.の上書きに躊躇を感じさせる。そのためらいを学習したバイオノイドが自らの意思を持ち、人権を求めて暴走するのではないか、という懸念が研究者たちの中で議論となった。結果としてリスクは、計測不可能としか言いようがない、と報告書には記された。
脳以外で人間との区別をつけられないバイオノイドという存在は、最終的に世間で物議を醸すこととなった。
“感情や思考を有するバイオノイドは、もはや人工物とはいえない存在である”
“自らの人権を求めて人類との抗争に臨む危険性があるバイオノイドは、人類滅亡の禍根となり兼ねない。製造を禁止すべきだ”
かくして、全世界に於けるバイオノイド研究開発は、WHOや各国政府が大々的に大義名分を翳して莫大な予算を投資したにも関わらず、世論に気圧される格好で唐突に中止された。その存在は戒厳令よろしく人の口に上ることがなくなった。そしていつしか、その研究内容も、その後開発者たちがどうなったのかという顛末も、世間に公表されないまま人々の記憶から消えていった。
一人の男が薄暗い地下街を足早に歩いていた。コートの襟を立てた男の顔は、その襟のせいではっきりとは見えない。長い前髪と口元を覆ったコートの襟の隙間から覗く両の目は、警戒を滲ませてぎらついた光を放っていた。それが落ち着きなく辺りを見回している。
やがて男は目的の場所を見つけたのか、歩みを止めて丸まった背を伸ばした。コートの襟に隠れていた男の顔が軽く上がる。その顔は、疲れた双眸からは予測不可能だった、という程度には若かった。三十代半ばといったところか、無精ひげを落として髪を整えさえすれば、そこそこ見栄えのする男だった。
男はほかのとそう変わりのない扉の一つをゆっくりと開けた。その手は酷く震えている。やがて男は意を決したように唇を結び、扉の向こうに続いている長い下り階段を確かめるように一歩ずつ下りていった。
(まるで奈落の底へ堕ちて行くようだ)
男は薄暗い階段を下りる中で、ふとそう思う。未知との遭遇を前にすることを自覚すると、男の両肩が勝手にぶるりと震えた。
男が自分とは無縁な地下街に訪れるきっかけになったのは、自宅のポストに投函されていた一通の封書だった。
いわゆる広告のダイレクトメールだ。ただの真っ白な封筒に入っていたせいで、ほかのダイレクトメールよりも目立っていた。
家を管理すべき妻は、その日も帰らなかった。
(またテレビ出演か。それとも取材か? まったく、コラムニストというよりもタレントだな)
ポストにぎっしりと詰まったDMの束を見た当初はそんなことしか思わなかった。
仕事で疲れた身をソファに埋め、ネクタイを緩めながら、なぜか白い封筒に入ったDMを開封し始めた。日頃ならそのままダストボックスへ直行していたそれがいつまでも男の手に握られていたのは、その目立つ白さのせいだけでなく、表に書かれた気になる一文のせいだ。
“多忙で家庭を顧みることすら許されないあなたに代わり、もう一人のあなたがあなたをお助けします”
『まずは中の資料をご覧下さい、か。発行元は……Mr.Bionoid?』
まるで男の現状を見透かしたかのような文言、そして初めて目にするバイオノイドという単語。助けてくれるという言葉にも妙な魅力を感じた。癒してくれるはずの妻が売れっ子のコラムニストになって以来、仕事を優先してばかりで夫を放置している、という寂しさ交じりの不満も手伝った。
『俺が二人、か。もし本当なら、もう一人の俺に働いてもらおうかな』
そしてオリジナルである自分は、妻のマネージャーでもしようか。そうすれば、もっと妻の仕事を自分の匙加減で調整できる。もっと家にいてもらう時間を確保して、昔のように奥ゆかしく夫を待つ愛らしい妻に戻らせよう。日に何度も妻の端末にコールしては文句を垂れ流し、喧嘩紛いの議論で中途半端に会話を終える、そんなやるせない日々は実際のところもうたくさんだ。
『うん、なかなか悪くない妄想だな』
そんな戯言を一人呟きながら、男は結局「眉唾のネタ」と笑って中の資料を見始めた。だが、男が案内を読み終わるころには、見下した笑みを浮かべていた表情が別の思いで変わっていた。
『情報の並列化、過去の記憶をアーカイブさせてA.I.にインストール……それに、この技術……これはひょっとして、本物か?』
封入されていた資料には、男にそう呻かせるほど現実味のある“人工知能搭載バイオノイド”開発の過程が記されていた。
長い長い下り階段がようやく終わりを告げ、回想が丁度途切れたところで重そうな鉄の扉が男を出迎えた。
ウェルカム、とだけ記されたプレートにそっと触れる。それが来訪の合図だと、アポイントの連絡を入れたときに指示を受けたからだ。
触れた瞬間、プレートが淡い緑色に一瞬だけ光った。ほどなくして鉄の扉が開き、ひょろ長い白衣の男が顔を覗かせた。
「生体認証でご本人と確認できました。ようこそ」
白衣の男はそう言って、銀縁眼鏡の向こうで光る目を細めて薄く笑った。
「生体認証……いつの間に俺の指紋を?」
「お電話でお話したとおりです。守秘義務があるので誰とは申せませんが、然るお方があなたには必要だと判断され、僕にあなたをご紹介されました。そのときいただいたあなたの資料の一つとしてグラスを拝借しています。強制ではありませんので、何か不安がありましたら、お断りしてくださって構いませんよ?」
グラスに触れる機会など、思い当たる場面としてあり過ぎる。男は正体不明の紹介者を不気味に思いながらも、目で更なる質問を拒む白衣男に従いその件については口をつぐんだ。
「いや、すまない。紹介者についての言及はご法度、だったな。施術についての詳細を聞きたい。中に入れてくれないか」
「ご理解が早くて大変助かります。どうぞ」
白衣の男がそう告げると、ようやく鉄の扉が大きく開かれた。中から零れ出す照明の光が、男の中に燻っていた不安や恐怖を解かしてゆく。何に対する恐怖や不安だったのかさえ忘れるほど、そのときの男は光やぬくもりに飢えている深夜の流浪人だった。
「まずはお茶をどうぞ。外は随分寒かったでしょう」
白衣男――バイオと呼んでくれ、と自己紹介したその男は、明るい照明のぬくもりだけでなく、腹の中まで温めてくれると言う。
「ご心配なく。毒など入っておりませんよ。僕もご相伴に預かります」
男がすぐに茶へ口をつけなかったからか、バイオは少し困った笑みを浮かべ、同じティーポットから注がれたブラック・ティーへ先に口をつけた。
多少の疑心があったのは確かだが、男の動きを止めた理由は他にあった。
よく見れば優男風の容姿端麗な青年だ。年のころは男よりも五、六歳ほど若いくらい、だろうか。長く伸ばした銀色の髪は、仕事に明け暮れてぼさぼさにしている男のそれとは異なり、如何に自分を見栄えよくするかを客観視できる人物像と見る側に思わせる整え方だ。よく手入れされた美しい髪で、それが綺麗に後ろで一つに束ねられていた。
(研究者、なのかな。モデルでも食っていけそうなヤツだなあ。地下街暮らしなんてもったいない)
男も若いころ、独身時代のときまでは、そこそこ女性にアプローチされていた。という程度には自分の容姿に自信を持っている。それだけに、ほかの同性の美点を認めるのが癪に触る嫌な一面を自覚していたが、不思議とバイオにはそんな競争心や劣等感を抱かなかった。それが不思議で仕方なく、つい考えに没頭して動きが止まっていた。
「ああ、いや。あなたを疑っているわけでは。地下街暮らしを余儀なくされている事情が想像つかないくらい、あなたがここにいることに違和感を覚えたので、つい」
と、男はうろたえたあまり思ったままを口にした。
「あなたは依頼人の仰っていたとおりの方ですね」
「依頼人? 俺のことを知っているヤツなのですか」
「そこは守秘義務、ということで」
「ああ、そうだった。すまない」
「でも、依頼人はあなたのことを、昔から真面目な方で、随分と異性にモテたのに遊ぶこともなく、上司から全幅の信頼を置かれていて職権乱用も可能だったのに、ずっと実直に働いている、と」
「ポジティブに受け取っていいのかな」
「あなたにお任せしますよ」
バイオはそう言って柔和な笑みを浮かべ、返答に窮した男の問いをさらりと受け流した。
「地下街は脛に傷を持つ者しかいないという偏見をそのまま信じていらっしゃる辺りからも、あなたのお人柄が覗えます。でもね、実はそうでもないのですよ。何しろ地上は地代が高い。僕のような若造が地上に住むには、少々生きづらい、というだけのことです」
「そう、なんですか。いや、お恥ずかしい。無知を晒してしまいました」
男は気恥ずかしげに頬を染め、そっと俯きながら謝罪した。手に取ったティーカップは染み入るほど温かく。
「依頼人曰く、以前のあなたは物事への対応がもっとクールな方だった、とか。そんな謙遜を仰るタイプではなかったそうですね。タイトなスケジュールやお仕事の人間関係などが原因で、心が疲弊しているのではないか、と心配されておりました。少しでもバイオノイドに分担させることが出来れば、との善意のご紹介だったのですが、いかがなさいますか?」
バイオの言葉がまた深く染みる。依頼人は自分の若いころを知っている人物だとさりげなく教えてくれた。それが善意であることも、自分と直接対面したバイオが、依頼人の言に共感を覚えていると感じさせることも、元来寂しがりやで格好付けたがりの男を優しく癒した。
「前向きな検討をするつもりでこちらを訪ねました。詳細をお聞かせいただけますか」
そう答える男の口角が楽しげにゆるりと上がる。男はようやっと紅茶に口を付け、しみじみとぬくもりや美味を堪能した。懐も、今はとても温かい。もし信用に値する話であれば頭金を納める、というつもりで用意したキャッシュが男を力づける。
「お話を伺う前に前金が必要でしたら、用意はできています。そちらの手続きを先にしましょうか?」
「いえ、すべてをご了承の上で初めて契約が発生しますので、前金はお話の後で結構です。それよりも、ご懸念されるであろうことを先にお伝えしておきますね」
バイオは、自分をそう呼べと言った理由とも思える“そちらの事情”を簡潔に述べた。
「あなたの個人情報は、あなたのバイオノイドを生成後、全て僕からアンインストールされます。その処置は僕のオリジナルがデータを読むことなく行ないます。あなたを模したバイオノイドのA.I.にストレージされた記憶、個性など全ての情報についての秘密は保持されますのでご安心を。その代わり、案内にもありましたとおり、バイオノイドの生成は違法です。そちらもどうか、このことはご家族にも内密にお願い致します」
「あなた自身がバイオノイドだったんですか……気づかなかった」
「論より証拠、僕を見ていただくことが、他の何よりも説得力があるから、というのがマスターの自論です。信用していただけましたか?」
男はバイオの言葉に二つ返事で頷いた。彼は信頼に値すると思えた。そして守秘義務についても、妻には元々言う気などなかった。ある計画を構築したからだ。
「もちろん、信用します。守秘義務についても問題ありません。妻にバイオノイドを作ったことがバレては、作ってもらう意味がなくなっちまうのでね」
嬉々とした表情でそう述べた男に、バイオは軽く首を傾げた。
「奥様に関係する何かをお考えで?」
「悪用はしないよ。ただ、妻をほったらかしにし過ぎたと反省していたところでね。その埋め合わせをしたくて、この話に乗る気になったんだ」
気づけば軽い口調で語る男がいた。どこか俯瞰で自分を見つめている。
(不思議な存在だな。バイオノイドだと判っただけで、なんだかなんでも話せてしまう)
人ではない、だが、人間らしい反応は示してくれる。そんな便利な存在は、それを目の当たりにしたらより男を魅了した。
男はバイオノイドを入手するために、半ば無理やり休暇を取っていた。そのツケというべきか、数日自宅へ帰れないほどの多忙を極めていた。
外回りを終えて、夜が更けたころからようやく事務処理の仕事に取り掛かる。
「いよいよ、明日か」
一週間前の出来事を反すうしながら、男が無人のオフィスでポツリと零す。男は、は、と思い出したように顔を上げ、引き出しの奥に隠しておいたマニュアルを取り出した。
全てがデータ社会の中に於いて、レトロなペーパーデータのそれは、電子社会でこの極秘の存在が流出することを恐れたバイオ(正確にはバイオのオリジナルらしき存在)が、手書きでしたためた殴り書きである。
注意事項は至極簡単だ。
同じ空間にオリジナルとバイオノイドが同時に存在しないよう細心の注意を払うこと。
バイオノイドのA.I.に適宜メンテナンスを施すこと。メンテとは、情報の整理である。
不具合や不都合が見受けられたときは、即時バイオの元へ報告すること。その際は直接訪問以外の手段は認めない(これもまた、漏洩防止措置らしい)。
「メンテのときに限っては、俺が自分のバイオノイドを見られる、ということだよな」
つまり、納品日である明日は、自分のリクエストした自分のバイオノイドを拝むことができる。
男はそこに、少しの不安と大いなる期待の混じった複雑な感情を抱いていた。
秘密厳守との確約を受け、相手がバイオノイドだという安心感も手伝って、男は思い描いた計画とバイオノイドの使い道をバイオに洗いざらい語り聞かせた。
“妻の心を取り戻したい”
それが大目的だ。
自分のバイオノイドの風貌は現在のままに、ストレージする個性は、今の自分ではなく若いころの自分で。妻が愛してくれた若いころの、少し醒めた視点で物事を捉え、何にも囚われず固執もしない、淡白で無機質な人物に設定して欲しい、とバイオには注文した。
『あなた自身が奥様に寄り添い、仕事をバイオノイドに任せるのではないのですか』
少し呆れた口調でそう問われ、男は苦笑いを浮かべて白状した。
『今の俺があいつの傍にいても、喧嘩になるのがオチだ。自分でも、若いころの自分がどうだったかもううろ覚えなんだよ。バイオノイドとは情報の並列化が行なわれるんだろう? そこから少しずつ昔の自分を思い出してから入れ替わろうと思ってね』
『奥様を昔と変わらず愛しておいでなのですね』
『いや、どうかな』
ストレートなバイオの言葉に面食らい、男は咄嗟に否定の言葉を吐いた。
『キミなら解るかな。見た目でしか判断しない周囲にうんざりしたことはないかい?』
『はあ……確かに、マスターにそういう記憶がありますね』
『だろう? そして俺と実際に向き合ってみると、大抵の人間は幻滅するんだ。勝手に理想を自分の中に描いたくせに、それが自分の幻想でしかなかったと解った途端、裏切られたとかほざきやがる』
『人間とは、弱い者ほど勝手、という哀しい生き物ですね』
『そう。だけどあいつだけは、違った。元々は職場でも犬猿の仲と周りから言われるほど折り合いが悪かったんだ。あいつが俺を遊び人だと勝手に思い込んでいてね』
それがたまたま二人きりで飲む機会が訪れた。二人でバディを組んでの仕事の際、接待相手がドタキャンをしたので二人で飲む破目になったのだ。
『そこで初めてお互いのプライベートや、腹を割った話をすることができてね』
『遅まきの一目惚れ、というヤツですか』
『あっちがね。どうやら俺のことを、仕事で自制が利く分、プライベートでは自己中心的でワガママな野郎だと思っていたらしい』
『ところが、いざ個人的に接してみれば、あなたはとても紳士だった』
『紳士は大袈裟だけど』
“意外だわ。プライベートではあまり自論を強く出さないのね。私に付き合える人なんていなかったから、個人的な興味が湧いた、と言ったら迷惑かしら?”
『なかなかストレートな方ですね、奥様は。実際のところ、あなたは自論を強く主張しないタイプなので?』
『当然だろう? プライベートな時間とはいえ、相手は職場の同僚だ。余計な敵を社内にまで作ってどうする、という話だ』
遠い遠い、甘酸っぱい昔話に興じていると、男の面に少しずつ得意げな笑みが浮かんだ。向かいに腰掛けるバイオと目線を合わせる。
『妻は勝気な性格でね。ものすごいアプローチの嵐だった。まあ、これでも当時は一応、ほかの女子社員や得意先の受付嬢からもそれとないアピールは受けていたのでね。あいつとしては、焦りもあったんだろうな。俺の方が押し切られる形で結婚した』
少子化問題の社会背景もあって、男は人工子宮で生を受け、人為的に育てられた。当然ながら両親はなく、病院の特殊新生児育成科と呼ばれる診療科で生まれ育ち、孤独な幼少期を過ごして来た。
『三十余年前と言えば、俺みたいな人工誕生の人間が多く生まれた時期でね』
『そう言われてみれば、そうですね。バイオノイド研究に代わって、人工授精の胎児を培養グラスで育てる研究が推されるようになりました。それが実験段階を終え、一般に普及し始めたころですね、あなたの生まれた時代は』
そんな素性の知れない人間を、彼女は必要だと言ってくれた。ありのままの自分を、自分の中身を見てくれた。
“人は誰だって寂しがりなのよ。あなただけじゃない。孤独が怖くて始めから一人でいようなんて諦めてしまうくらいなら、自分の家族を作る方へ躍起になればいいじゃないの”
『そう言ってくれたんだけどなあ。専業主婦をしている間に趣味でやっていた電子新聞のコラム投稿で、何度も採用されるようになってね。その新聞社からオファーが掛かって、やってみたいというので俺も了承したんだ。だって在宅仕事で家庭をおろそかにすることもないだろうし、と思ったから。だけどそのころから、あいつは少しずつ変わっていった』
主人を待ち侘びる愛玩犬のように、男が帰れば玄関口まで駆け寄る音が扉の向こうから聞こえて来るほど男に執着していた妻なのに。
『いつもモニタと睨めっこをして、背中越しで“おかえり”と言うんだ。そのうち打ち合わせだとか、ほかの雑誌からの仕事も勝手に引き受けるようになっていって、その打ち合わせだからと出掛けることが多くなっていって』
郊外にある自宅まで帰ることが叶わない時間まで都心部で打ち合わせや付き合いをするようになっていった妻。なかなか子供ができなくて、いつの間にか意図せずディンクスになっていた。
『お子様が欲しかったのですか』
『いや、特に固執はしていなかったけどね。子供が好きというわけでもないし。ただ、今思えば妻の“子供なんて要らないよね”という言葉に、彼女の意図を読んでイエスと答えたのが失敗だったかな、とは、思う』
子供がいれば、妻を家庭に縛り付けておけただろうに。男が力なく独り言のように呟くと、バイオはそれを聞き流すように
『お待たせしました。あなたとバイオノイドへ注入した親和剤の浸透率が百パーセントになりました。バイオノイドのA.I.とコネクトします』
と、男の座していたリクライニングシートをゆっくりと倒していった。
『バイオ、眠る前に幾つか訊いてもいいかな』
『お答えできる範疇であれば』
男の横たわるベッドソファがスライドし、ドーム型の装置へ吸い込まれていった。だが、ドーム内に備え付けられているスピーカーからバイオの声がはっきりと聞こえて来る。
『回想することでそのときそのときの意識をトロールできるから、ということで昔話をしていたけれど、少し現在に戻り過ぎた気がする。ついさっき話していた、ぎくしゃくし始めたころの俺がバイオノイドの意識に混じってしまう心配はない?』
男は喋りすぎたことを悔やみながら懸念事項を口にした。
『大丈夫ですよ。あなたが本体であり、バイオノイドは、言ってみれば端末のような存在です。あなたが排除したい意識をA.I.の中核が自動認識して隔離するので、表層には出て来ません。あなたのバイオノイドは、マスターであるあなたに忠実です。信じてやってくださいね』
暗闇と化した世界で、男はそっと溜息をつく。
『そうか、解った。では、もう一つ。僕が最初に訪れたのは数日前なのに、もうバイオノイドが形成されていた。早過ぎないかな。欠陥などの心配は?』
『まったくありませんよ』
装置の稼動するボォン、という鈍い音が、バイオの声を遠くに感じさせた。
『――は、あなたは必ず――と言って――既に成体まで――、必ず守って――いね』
(守る? 何を?)
声が出ない。瞼が重くて目を開けることもできなかった。
『ストレージします』
バイオの声をそこまで認識したが、男の意識はその後長い時間途切れたので、最後まで聞き取ることができなかった。
翌朝、男はオフィスで目覚めた。その日は週末だったので、むきになって仕事を片付けた今日は、久し振りの指定休日を本当に休暇として過ごせる日だ。
だが男は自宅へ帰らず、少しだけ通い慣れた地下街へ向かった。
「お待ちしていましたよ」
バイオに言われて少しだけうろたえる。温和な笑みで皮肉るとは、意外に手厳しい一面を見せたものだと驚かされたからだ。
「早朝から訪ねて申し訳ないとも思ったのだが、いてもたってもいられなくて」
男がしどろもどろにそう答えると、今度はバイオの方が目を丸くした。
「ひょっとして言葉のままに受け取っていただけませんでしたか。首を長くしてお待ちしていたのは、僕ではなく、あなたのバイオノイドですよ」
待ち侘びていた!
自分を空気のような存在だと思うことが増えた男にとって、それはなんとも甘い響きで心と鼓膜を揺さぶった。
「俺はそんなに自己愛の強い性分ではない気がするけど。俺のバイオノイドが待っていた、って、感情がもう個を持ってしまっている、ということなのか?」
促されるままに中へ歩を進めながら、実際のところそう不安を感じることなく一応問い質した。
「仕様です。言ったでしょう。バイオノイドはマスターに忠実です。自らの感情や意思よりも、オリジナルであるマスターへ常に忠誠を抱くには、やはり思慕という感情が根幹になければ禍根となりますから」
「そうか……仕様、か」
仕様と言われて少しだけ気落ちする。だが元来強く拘ることのない性分だった男は、大元の目的を思い出して一抹の寂しさを手放した。
幾つかの扉を通り抜け、如何にも、という雰囲気の部屋へ通される。
そこには、鏡を見ているかのような錯覚を覚える存在が瞼を閉じたまま椅子に座っていた。
「では、マスターであるあなたが目覚めさせてやってください」
男はバイオにそう促され、一歩ずつ自身のバイオノイドに近づいた。
「目覚めなさい、私のバイオ」
教えられたとおりの文言を口にする。背後で見守る彼と同じ“バイオ”を呼び捨てにしたようで、少しだけ口ごもった。
だが、そんな居心地の悪い感覚は、目の前で眠る自身のバイオノイドがゆるゆると瞼を開けてゆく光景を目にすると、あっという間に霧消した。
「おはようございます、マスター」
目覚めた男のバイオノイドは、男と同じ声でそう言って笑んだ。
「俺のA.I.が生き続ける限り、マスターに忠誠を誓います」
男のバイオノイドはそう言って椅子から立ち上がり、男の前にひざまずいた。
「だからどうか、俺に指示をください」
バイオノイドが、あらかじめバイオから説明を受けていた通りの言葉を口にする。バイオノイドに大項目的な指示をインプットすることが、オリジナルとの完全なる同期化の設定処理になるらしい。
「妻を、昔のように愛してやってくれ」
「はい、マスター」
途端、ぐらりと身体が揺れる。眩暈に襲われた男は、堪え切れずに床へ膝をついた。だがそのまま倒れることなく、ふわりと身体が宙に浮く。
洪水のように溢れ返る記憶、情報、そして自分でも身に覚えのない感情。
(いや、覚えがある。これは)
遠い遠い昔、若いころの寒々とした感覚だ。
孤独、という言葉が脳裏を過ぎった。溢れる情報は、すっかり忘れていた過去の自分が抱いていた諸々だ。
(ああ、これが同期化、というヤツか)
自分自身に抱きかかえられながら、男はぼんやりと現状を言葉に置き換えた。
抱きかかえられた体が、長椅子に横たえられるのを俯瞰で感じ取る。この視点は男のものではない。
(ああ、今、俺のバイオノイドからは俺がこう見えているのか)
自分の思考とバイオノイドの思念が混在する中、うっすらとそんなことを覚る。
「情報の共有は、生身のあなたにはどうしても負荷が掛かってしまいます。脳がショートしない程度に共有処理を施しますから、しばらくそのままゆっくりおやすみください」
大丈夫ですよ、次からは短期間の情報共有になるので、という言葉を耳にすると、男はほっと一度だけ溜息を零し、そのまま吸い込まれるように深い眠りに堕ちた。
それからおよそ半年後。男は薄暗い地下街へ舞い戻って来た。じめりとした雨期の鬱陶しい湿度などまるで感じていないかのように、長袖のパーカーを身につけ、そのフードを深く被って顔を隠している。ギラギラと鈍く光る双眸は、荒ぶる激情で揺れていた。
「バイオ!」
男は例の地下室へ続く階段を下り切ると、生体認証のことさえ失念し、大きな声で彼の名を呼んだ。彼が顔を覗かせるまで、何度も何度も名を呼んだ。
思いのほか長く待たされたあと、ようやく鉄の扉が軋む音を立てながら薄く開いた。
「どうされましたか。バイオノイドに不具合でも?」
「不具合どころじゃない! 何が“マスターに忠実”だ! あの野郎、俺の妻なのに……俺の家族なのに、あいつは俺のコピーでしかないくせに!」
「落ち着いてください」
バイオはいきり立って支離滅裂をまくし立てる男をなだめるように一言言うと、ちらりと一度だけ部屋の中を振り返った。
「来客中なら追い返せ。こっちはのっぴきならない事態になっているんだ。あんたにとっても不都合な状況だ」
言葉を選びに選んで、やっと男が口にする。言い終えた直後、男のこめかみから脂汗が一筋零れ落ちて床を湿した。
「……来客はありませんよ。どうぞ」
バイオは何を思ったのか、不快をあからさまにし、そして無機質な声音でそう述べると、重い扉を大きく開けて男を中へ促した。
初めて訪れたときとは打って変わり、バイオは男に茶の一つも出さなかった。
「のっぴきならない状況とは?」
と単刀直入に本題へ入ったバイオの胸倉を掴み、男は噛み付く勢いで現状を吐き出した。
「どこが“マスターに忠実”だ! 何が“信じてやってくれ”だ! あいつはコピーの分際のくせに、それをわきまえもせずに妻と寝た!」
バイオの襟を掴んだ手と、吐き出された男の声が激しく震えた。
「あなたが命じたことです。“昔のように妻を愛せ”と。バイオノイドはマスターに忠実です。思慕をほかへ変える命令を実行することはできません。ですが拒否もできないとあれば、物理的な意味合いと解釈をして自己正当化を図るしかないでしょう」
「屁理屈を言うな! 端末に過ぎない分際で、自我を持ったに違いない。そもそも、人工知能のくせに欲情を持つこと自体がおかしいじゃないか。欠陥品だったのを屁理屈で責任逃れしようとするな!」
「責任転嫁はあなたの方です。彼女から彼を守ってください、と言ったのに」
ギラギラとした男の目が、バイオの発した言葉を聞いた瞬間色を変えた。正確には、男の弁を受けて表情を変えたバイオの瞳を直視したせいだ。
「彼はあなたに人として見て欲しかったのに。守っては、くれなかったのですね」
バイオの告げたその言葉と、彼の表情に恐怖する。
バイオの襟首を掴んでいた男の両手から力が抜けた。
始めのうちは些細な変化だと思っただけだった。
『ただいま』
男を演じる男のバイオノイドが、妻の背中にいつもどおりの挨拶を投げ掛けた。
『おかえりなさい。テーブルの上にご飯の用意はしてあるから。レンジで温めて適当に済ませてちょうだい』
『わかった。ありがとう』
男のバイオノイドはそれだけ言うと、妻のいるリビングからダイニングへと移動した。
『どうしたの?』
珍しく妻がモニターから目を離して、男のバイオノイドについて来た。
『何が』
『いつものお説教は、ないの?』
『説教?』
『顔も見ずになんたら、って』
男は数時間のタイムラグが生じるものの、同期化した脳でそのやり取りを追体験した。妻のその言葉で初めて自分の行動パターンに気づかされたのは、その瞬間だ。
『ああ……お前が仕事で忙しいと解っているのだから、そんな細かいことはもうどうでもいいか、と思って』
妻の顔が一気に青ざめたのが解った。同時に、男も自分の執着を自覚させられた。
『仕事で何か嫌なことでもあったの?』
『別に』
『それとも、私に何か隠し事でも出来た、とか』
『どうしてそう思う?』
男のバイオノイドが妻の方へ振り返って見たモノが、それを追体験する男にドキリと心臓を高鳴らせた。
『だって、私に関心がないみたいに見えたから』
笑んでいるくせに苦しげに眉根を寄せる妻を見るのは、男にとって一年以上ぶりのことだった。
(関心がないのはおまえの方だったじゃないか)
嬉しさ半分、だが残りの半分は、そんな憤り。だが男のバイオノイドは、オリジナルである男の思考とは別の言葉を彼女に告げた。
『そんなことはないさ。今やっていたコラムの締め切り、確か来週の頭だと言っていただろう? それを覚えていただけだ。手を煩わせた挙句落としたら、それは俺のせいになる』
ああ、そうだ。男は思った。昔の自分ならそう答えていた。自分が最優先でなくて当然という、根幹にある他者による自分の存在否定感が常にそう思わせていた。
その夜は妻が食事を温めてくれた。ただそれだけのことが、男は嬉しかった。それがバイオノイドに施されたことだったのが、唯一残念に思うことだった。
妻が家にいる時間が多くなっていった。バイオノイドを通じて妻にその理由を問うてみれば、
“テレビ出演は録画で後放送になるものだけにしたの”
“集中力が上がったみたい。あなたが仕事に行っている間にはかどるようになったから”
“打ち合わせの時間を最小限にとどめるようにしたわ。始めのうちはついでに都会でのランチやディナーも面白かったけれど、飽きちゃったから、もういいの”
と、納得できるようなできないような答えが返って来た。
『そろそろ交代してもいい頃合いかな』
マンスリーマンションで自身のバイオノイドと向き合ってソファに腰掛けていた男は、目の前でじっと自分を見つめる同じ顔に視線を向けることなく呟いた。まるで自分しかいないような態度と表情だった。
『マスター、交代とは、今後は俺がここで暮らし、マスターが自宅へ帰る、ということですよね?』
媚びるような笑みを浮かべて確認する己のバイオノイドに対し、男は心の中で舌打ちをした。
(情報の並列化も良し悪しだな。遠回しにお払い箱はゴメンだと主張していやがる)
注意書きを読み落としていた。長期間の情報共有化は、バイオノイドに個性を持たせやすい、と。個体差があるので具体的な期間は明示できないとの注意書きを見落としていた男は、半年もバイオノイドとの並列化を続けていた。それが原因なのか、バイオノイドは男の顔色を窺いながら遠回しな自己主張をするようになっていた。
『地下街のバイオ氏に相談をしてみようと思う。おまえも契約当時に比べて随分と自我を持つようになったし。世間に紛れて平穏に、一個人として暮らす権利がおまえにはある、と俺は思う』
そんな綺麗事でごまかした。そしてバイオノイドに思考を共有されないうちにマンションを出るべく席を立った。
『さ、そろそろタイムアップだ。今週もご苦労さん。俺が自宅へ戻るから、おまえはここから出勤する方へシフトチェンジしてくれ。期限は来週のメンテまでに決めておく。週末にはバイオ氏のところへ行って来るから』
『マスター、待ってください。俺は』
叫びに近いバイオノイドの声が、男を震わせた。彼が言い掛けた言葉を阻むように扉を勢いよく開けて、そして閉める。
『……気持ち悪い』
マンスリーマンションのエントランスから逃げるように飛び出し、一つ目の角を曲がったところで、男は吐き捨てるように呟いた。
自分に限定された透視能力者のように、何もかもを見透かす自分を模したバイオノイド。その瞳が男に訴え掛けて来るのは、自分が抱いたそれとは逆の、例えるなら子供が親にねだる愛情、みたいな想い。
親のいない男にとって、それは想像の域を出ることはないが、恐らくバイオの言った“思慕”というヤツだろう、と思った。
造られた存在のくせに、人間のように振る舞い、動き、そして心まで持つ生き物に近い物体。男は自分と瓜二つのバイオノイドが気持ち悪くて仕方がなくなっていた。
ぎこちない別れ方をしてから二、三日ほどは、バイオノイドが何かしでかすのではないかと警戒していた。だが、一週間を経過しても、なんら変化は見られなかった。自分の行動とバイオノイドの行動が混在する同期化もなく、まるで始めからバイオノイドなどいなかったかのような日常が過ぎていった。
職場に連絡を取ってみれば、上司から心配の言葉を受けた。バイオノイドは詐病を理由に休暇を取っていたらしい。男はそれを利用し、電子会議で一通りの業務をこなす意向を上司に願い出た。気遣いもあったのだろう、上司は快諾し、また引き継げる物件は他の社員に担当させようかという提案まで出してくれた。特に出世を望んでいたわけでもないので、男は大袈裟なほどの礼を述べ、仕事が減ることを心の中だけで喜んだ。
そんな経緯を経て、男は週の半分を在宅で仕事をこなすことになった。
男は気づいていなかった。
“あなたが排除したい意識をA.I.の中核が自動認識して隔離する”
もう用が済んだバイオノイドと関わりたくない。その意識のせいでバイオノイドとの同期化が成しえなかったことを。
週末になってマンスリーマンションを訪れたとき、バイオノイドが契約を打ち切って行方不明になったときも、あの繁華街にでも帰ったのだろうとしか思わなかった。
だが、現在から数時間前に、衝撃的な事実を知る。
トラブルの処理に駆り出され、二連続徹夜のあとようやく帰宅したときだ。妻は既に眠っていた。時刻は夜中の零時を回っている。
『あなた……どうしたの?』
妻は目を覚まし、ベッドから身を起こして寝ぼけ眼で男を見上げた。とろんとした瞳が艶っぽく男を誘う。寝汗で肌に張り付いたネグリジェが、妻の身体のラインを強調して男の雄を刺激した。
『……』
人はあまりにも疲れ過ぎると、性欲が増すらしい。男は妻に甘えたい気持ちを自制できなかった。揉めに揉めた末にやっと仕事のトラブルを解決させたのだ。家庭で癒される権利はあるだろう、などと心の中で自己正当化の言葉が次々と浮かんでは消えた。
『あなた?』
抱き寄せてみれば、柔らかな妻の身体が男の尖った神経を少しずつ和らげてゆく。
『起こしてごめん。いやか?』
甘噛んだ耳元に囁けば、妻がくすぐったそうに肩をすぼめた。
『いや、っていうか……昨夜の今夜なんて、随分と元気ね』
(――!)
妻は自分が詮索されるのを嫌うので、男の仕事についても尋ねては来ない。帰らなければ仕事だろうと判断し、帰宅すれば仕事が終わったのだろう、という程度にしか認識を必要としていないのだ。だから、男は気づかなかった。自分が仕事へ行っている間に、バイオノイドが男に成りすまして自宅で妻と過ごしていることを。
『あ、ああ。ごめん。寝ていたのに、勝手が過ぎたな』
もう妻を抱く気にはなれなかった。それよりも、確認すべきことがある。
男はあっという間に睡魔に引き戻された妻を寝室に残すと、再び玄関の扉に手を掛けた。
マンションの向かいにある駐車場で、マイカーに腰を据えて監視した。ほどなく男と同じ姿かたちをした人物が、マンションのエントランスへ吸い込まれていった。男はその後を追った。エレベーターが止まる階を目指して非常階段を駆け上る。
果たして、男が自宅のある階へ辿り着き、自宅の前へ駆け寄ってみれば、自分と同じ風貌の男が玄関のパネルにキーカードを滑らせているところだった。
『マスター』
男の気配に気づいたバイオノイドが、ゆるりとこちらに向けて顔を上げた。悪びれもなくまっすぐ男を見つめてくるそれを見た男は、鏡を見ているような錯覚でくらくらとした。
『打ち上げで帰らないとばかり思っていました』
『そっちにはこちらの情報がリンクされたままなのか』
『俺はあなたを否定してはいませんから』
『どうでもいい。妻を起こしたくない。書斎に行け』
『はい、マスター』
男のバイオノイドは、オリジナルである男を疑うこともなく、命令に従った。
その後の出来事が、走馬灯のように、巡る。
先に書斎へ入って男を待つバイオノイドのうなじに包丁を突き立てた。それを引き抜いて彼の前へ回り、心臓を一刺し。
『マスター……俺は、役に、立てましたか』
口角からヒトと同じ赤い血筋を伝わせ、それを口にした直後に息絶えた。溢れ込んで来るのは、バイオノイドの最期に駆け巡った彼の意識。
もっとマスターと共有できる時間が欲しい。
妻のことだけでなく、自分のことも聞いて欲しい。関心を寄せてもらいたい。人として見てもらいたい。
――俺も、あなたの家族になりたい。そう願うのは、傲慢ですか?
バイオノイドが遺した思いは、男が幼少期から思春期に掛けて抱き続けていた幼稚な思慕そのもので。
道具としてしか見ていない男に対し、バイオノイドは復讐のために妻を寝取ったわけではない。男の理性はちゃんとそう解釈できていた。
命じたのは、自分だ。妻を愛せ、と。心の在り様を操作することはできない。だが命令には従わなくてはならない。男のバイオノイドにとって、それは苦肉の策だったのだ。マスターの命令には逆らえないから。
だが、どうしようもなく赦せなかった。どうしようもなく、気色が悪かった。作り物のまがい物のくせに、嫌というほど男に等身大の自分を見せ付けてくる――消したかった。
物音で目覚めた妻が、書斎の扉を開けた瞬間叫ぶ。男は咄嗟に妻の口を塞ぎ、手にしていた包丁を妻の胸に突き立てた。叫ぶ素振りが消えた妻の口から手を離せば、妻は男が予想すらしていなかった言葉をポツリと零して息絶えた。
『ごめん、なさい……あなたの夫を、愛せ、ません、でした』
男は妻の遺した言葉の意味が解らず、全ての元凶とも言うべきバイオに怒りを向けることで“何か”を認めることから、逃げた。
巡る走馬灯が途切れ、ぼんやりと視界が白んで来る。いつの間にか床に倒れ込んでいた男の目に映ったのは。
「約束どおり、夫にはバイオノイドとの並列の無効化については伏せておいてくれたみたいね」
霞む視界の中で、見覚えのあるサンダルを履いた女の脚が男目掛けて迫ってくる。
「……ッ」
ガ、という鈍い音とともに、男の頬へ鋭い痛みが走った。女にサンダルで蹴られたと認識するのに少しだけ時間が掛かった。
「はい。K代議士さまより、貴女の要望を全て聞き入れるようにと指示を受けておりましたから」
「そう。さすがK先生。根回しが完璧。じゃあ残りの依頼料を支払うわ」
耳に馴染んだ女声は、数時間前に寝ぼけ眼で「どうしたの?」と男を案じたかのような言葉を紡いでくれた妻のそれと同じだった。
「まったく、バカな男。あんなはした金でバイオノイドが作れるわけないのに、こっちが気抜けしちゃうくらい簡単に乗ってくれちゃって」
疑いの目を持たれないまま死んでくれてよかった、と冷ややかな声で言うそれが、妻だと認めたくはなかったが。
「うんざりしていたのよ。もっとパーソナル・スペースを保てる人だと思ったから結婚したのに。とんだ粘着気質だったわ。バイオノイドと心中してくれたお陰でやっと自由になれる」
男は薄れてゆく意識の中で、やっと自分のみの上に起きた異変の理由を理解した。
バイオノイドと共有するのは思考や記憶などの情報だけでなく、身体情報も並列化されるようだった。その証拠に、男が強い痛みを感じる箇所は、いずれも自分がバイオノイドを刻んだ部位だ。
「ど……う、して」
男は精一杯の努力で頭をもたげ、どうにか自分を見下ろして来る妻の視線を捉えて答えを求めた。
「どうして? 殺す必要があるのか、と言いたいの? 当然でしょ、自己防衛よ。まともに話して離婚したところで、あなた、ストーカーになりかねない。そんなスキャンダルは仕事に響くわ。やっと代議士先生たちへの伝手ができた大事な時期なのに、あなたに潰されるなんてまっぴらごめんだわ。冗談じゃない」
心の底から気持ち悪がっている声音で男にとどめが刺される。男の首ががくりと垂れ、床をゴツリと鈍く泣かせた。
「た、だ」
愛していただけ、なのに。そんな思いが空回りする。
「バイオ、自宅の処理は手配済み、なのよね?」
まるでもう夫がいないかのように、妻が男に背を向けバイオに次の段取りへと話を進めていた。
「はい。警察に死体を調べられるとこちらも困りますので。K先生の手の者が回収に回っています」
「私はS市のホテルで脱稿のために缶詰中、ということになっているの。だから、帰宅予定にしている日になってから夫の捜索願を出すことにするわ。こっちの処理も宜しくね」
「はい、かしこまりました」
そんな恐ろしい会話を聞いているのに。
(あいつに、可哀想なことをしたな)
男は自分と瓜二つのバイオノイドに思いを馳せていた。
彼もこんな思いをしながら死んでいったのだろうか。もっと自分と向き合っていればよかった。逃げたりなんかせずに、バイオノイドと語り合う形で自分自身を冷静に見て生き直せばよかった。
ただ、慕ってくれただけなのに。こんな勝手な自分を掛け値なしで必要としてくれていたのに。
(ごめんなあ……今、逝くよ)
男のまなじりから、後悔の涙が一筋零れ落ちた。男はゆっくりと瞼を閉じ、そして二度とそれを開かなかった。
十数分前まで人妻だった女は、キャッシュでバイオノイド二体分の費用と今回の経費を支払い終えると、名残惜しげに座っていたソファから腰を浮かせた。
「じゃあ、あなたのマスターに宜しく。お会いしたかったわ、と伝えてちょうだい」
「かしこまりました」
そう言ってさっさと先に立ち上がって女を追い出しに掛かるバイオへ、女はゆるりと手を伸ばした。
「ねえ、バイオ。一つ訊いてもいい?」
「お答えできる範疇であれば」
「あなたはマスターの現在の容姿と同じなの?」
と、意味深に問う女の瞳が妖しく光るのを、バイオは冷ややかな瞳で見下ろした。
「……そうだ、と言ったら?」
「是非、ご紹介いただけないかしら、と思って」
「なぜですか? マスターはこの研究が世間に認められないことを憂いで、人と会うのを極端に警戒しています。恐らく無理かと思いますが」
「孤独な科学者、と言ったところかしら。でもね、そんな境遇だからこそ、心の支えが必要だと思うの」
何度かバイオに諭してきた持論を口にする。バイオの立ち居振る舞いは女の好みだった。何事も飄々と受け流し、無駄に物事に固執しない。それは恐らくオリジナルである科学者の気質に所以しているのだろう。この一年近く、女はバイオの影に潜むオリジナルの人物に強い関心を寄せていた。
「心の支え、ですか。そうですね、人間とは弱い生き物だから」
バイオは低く呻くようにそれだけ言うと、汚いものを見るような目で女を見下ろし、そして冷笑した。
「なに、その上目線。自我を持つと、バイオノイドって創造主である人間をバカにするようになっていくの?」
「いえ、バカにしているつもりではありませんが」
バイオは冷たい笑みをいつもの笑みに変え、自分の腕を掴んだ女の手を掴み返した。
「そろそろ、貴女も終幕の時間ではなかろうか、と」
「!」
女の顔から血の気が引き、バイオに掴まれた手がぶるぶると震え出した。
「ど、ういう、こと、な、の」
脂汗が女のこめかみを伝い、落ちてゆく。女の空いた手が胸を押さえ、きつく服を握り締めた。
「う……ぁ……い……ッ」
バイオが呻く女の声を無視して掴んだ手を離せば、ぐずぐずと泥人形のように女が足許へ崩れ落ちていった。
「並列の無効化はバイオノイドとの信頼関係に比例する、とお伝えするのを失念していました」
淡々と答えるバイオの声が女の耳に届いていたのかどうかについて、バイオはさほど関心を示さなかった。
「それは人間にとって都合のいい仕様でしょうけれど、僕らバイオノイドにとっては、生地獄そのものだ」
「かはッ!」
どこも傷ついてなどいないのに、女が吐血する。その血がバイオの綺麗な白衣を赤く汚した。
「ご主人がバイオノイドを嫌悪すると解った上で依頼されましたよね。僕は何度も並列化の説明をしたのに、貴女は例外事項だけを記憶にとどめ、ご自身のバイオノイドを見捨てた」
女が自分のバイオノイドに命じたのは。
“あの構ってちゃんな夫の相手をしてあげて。永遠に、命尽きるまで。愛してやってちょうだい”
「オリジナルに対するバイオノイドの思慕は忠誠の証だと申しましたのに、それを要らないと言ったに等しい」
女から自分には必要ないと存在そのものを拒絶され、内側から朽ち始めた女のバイオノイド。
「自分でメンテのためにここへ訪ねてきていました。自分の崩壊は貴女の死を招くから、と、必死で生きようとしていました」
メンテさえおろそかにした女がマスターでは、女のバイオノイドがマスターから自己確立するはずもなく。肉体は勝手に同期化を繰り返し、情報もまた当事者の意思と無関係に並列化を繰り返す。そのたびに、女とそのバイオノイドは互いに互いの心身を静かに劣化させていった。
「だから、それは貴女自身が招いた、貴女の選んだ結末です。貴女のバイオノイドの死と並列化されることでね」
バイオは独り言のように朗々とした説明を終えると、うずくまったまま動かない女の肩を軽く蹴った。女の身体が仰向けに転がる。乱れた髪の隙間から覗いた女の瞳は開き、何も映してはいなかった。呼吸を意味する胸の動きもやんでいた。
「マスターは、こんなくだらないことのためにバイオノイドを生んだわけじゃないのにな」
バイオが吐き捨てたその一言には、口惜しいという感情が滲んでいた。
じとりとした湿気が地下街一帯を包む夜が明けようとしていた。
「……」
バイオはデータ入力していた手を休め、特に定めるでもなく視線を宙に浮かせて背筋を伸ばした。
「そか。回収作業が夜明けに間に合って、よかった」
敢えて音にする。この地域一帯に潜ませている自分の兄弟たちの存在を感じたくて。
バイオは入力していたデータに受け取った情報を追記した。これでこの物件は完了だ。
パソコンの電源を落とし、ホログラムを立ち上げた。そこに浮かび上がったのは、バイオがもう十数歳ほど歳月を重ねればそうなるであろうと思われる人物の姿。
「マスター……指示を、ください」
慈しみに満ちた微笑を浮かべたまま無言を貫くホログラムに懇願した。
「僕は、どうしたらいいんですか」
バイオは祈るように両手を組み、ホログラムに向かって震えた声で胸のうちを吐き出した。
「あなたの一番の願いは、あなた亡きあともこの研究を続けて欲しいということでした」
このA.I.に納められたオリジナルの情報と知識、人類繁栄のために貢献するという熱い意思を詰め込んで、オリジナルだった孤独な研究者は、失脚後の無理が祟って病に負けた。
《バイオ、私の唯一の家族。私の愛しい存在》
ホログラムが優しく語り掛ける。バイオは組んだ両手に頭を乗せて俯いたまま、今日もマスターの言葉に聞き入った。
――もし妻を助けることが出来ていたら、きっと君のような息子が私にいたのだろう。
妻を病から助けることが出来なかった罪悪感を克服できたのは、君が生まれてくれたからだ。
たとえ今この研究が世界中から否定されているとしても、いつかきっと必要とされる。
君がこの世に生まれてこれたのは、私の研究成果、というだけではない。
世界中の人々が支援して、私たち研究グループに投資してくれたからだ。
だからバイオ、君にこの名を授けてから私は逝く。
君は私の息子だ、コピーなどではないと心して、人々から受けた恩義を返していって欲しい。
何年経とうと構わない。君には君を複写生産させるだけの能力と知識がある。
支援者を集うのだ。そして更なる研究を。
バイオノイドが無駄につらい思いをすることなく、生まれた本懐を成しえる存在となれるよう、品種改良の研究を続けて欲しい。
私個人だけでなく、バイオ、君には人類を愛して欲しい。
君はもうただのバイオノイドではない。私の自慢の息子だ。
恐らく私の死によって君が朽ちることはないだろう。遺してゆくことだけが心の底から口惜しい。
バイオ、赦せ――。
「マスター……お父さん、苦しいです。僕には人類を愛せません」
父とも言うべき研究者を社会的に殺した、世論という名の暴力を行使した生き物。
金を得るために上層と呼ばれる面々に取り入ってみれば、皆自分の都合のいい使い方でしかバイオノイドを求めない。
バイオにとって、生成されたバイオノイドはモノではなく兄弟だ。マスターの言っていたように「別のもの」として受け取れない。
だが同時に抱く「マスターは自分を愛してくれた。人として認め、必要としてくれた」という喜びも否定できず、人類を完全に消すことも叶わない。
「あなたはどうして、自分を死に至らしめた人間を愛し続けることが出来たのですか」
バイオの切なる問いに、ホログラムの研究者は答えなかった。絶えない笑みを浮かべたまま、遠い遠いいつか、よくしてくれたように頭を撫でる仕草をするだけだ。
「いっそ同期化できていれば、よかった」
マスターの後を追いたかった。だが、それすらも彼は許さなかった。後世を託されたバイオは、何度も自身を複製し続け、もうどの世代のバイオの感情と情報なのかも曖昧になるのに、ひたすらにマスターを慕いながら、人類を憎みながら同じことを繰り返す。
静かなるテロを。
ささやかな人類への貢献を。
「お父さんは、ずるいです。僕に全部押し付けて世界から逃げてしまった」
助けての声が届かない。誰に届ければいいのか解らない。
白んだ空から、太陽がまばゆい光を漏らし始める。それを表の扉に備え付けたミラーが反射で地下へ届け、地下にあるバイオの居室をほんのりと照らした。
銀の髪が、小刻みに揺れる。嗚咽がしめった居室の空気を揺らす。
バイオは人を滅するたびに、罪の意識と創造主への非難と、自己否定にさいなまれた。
それでも、陽はまた昇り、人は生活動を変わりなく続け、そしてバイオは今日も依頼を受けた物件をこなしてゆく。
少しずつ人類を削るために。
わずかばかりの救いを人類へ施すために。
声を殺して泣くバイオを残し、創造主のホログラムは朝の陽射しに解けて消えていった。