宙から堕つるは猫と餌
我が家の三毛猫はお喋り猫だ。信じ難い話に思えるかもしれないが、それが真実なのだから仕方が無い。現に喋っている。
現在、陽光が眩しく降り注ぐ中、我が家の飼い猫であるミケは俺の隣を歩きながら欠伸をする。
「とても暇ね。手持無沙汰だわ」
「お前に手は無いぞ。あるのは前足と後足だけだ」
「それもそうね」
ミケは塀の上でまたも欠伸をした。近所での散歩は実につまらないものだ。大体、高校生にもなって近所の散歩だなんて面白い筈も無い。しかも道連れが飼い猫だけなのだから尚更だ。俺は汗で背中に張り付いたTシャツを引き離しながら、ミケに話しかけた。
「お前、人間になれたりしないのか?」
ミケは尻尾を左右にゆっくりと振りながら、猫らしからぬ否定の表情を浮かべた。
「なれないわ。以前にも言っている筈だけれど?」
そう呆れたように言い、何回目とも分からぬ欠伸をした。ざらざらとした舌が鋭い牙の間から覗く。
「覚えているよ。ただ聞いてみただけだ」
「そう」
あぁ、ただ聞いてみただけさ。寂れた住宅街を猫と一緒に歩いても楽しくないのでね。実現すれば少しだけ華やかになるかと思っただけだよ。
夏だけに外気温は通常人類の耐久限界を突破していた。時々感じる風でさえ生温い。日光は正午に近付くにつれさらに勢いを増し、水分を蒸発させるべく懸命に地表を照らしている。こりゃ、早く家に帰らないと干からびるな。早く目的地へ急がないと。
「で、お前の目標はまだなのかよ?」
「あと少しで目的地に着くわ」
ミケは少々高めの塀へと飛び移った。俺は歩き続けた。
*
「居たわよ」
あれから暫く歩いた後、やっと目標を見つけた。何があと少しだ。結局1kmも離れた神社まで来てしまったではないか。話が違う。
しかし、そんな不平を洩らしている場合ではなさそうだ。目の前の生物を見れば誰だって考えを改める。蛸のように八本の足、それが繋がってる胴体は人型のように見えるが、体中を緑の粘液が覆っているため定かではない。悪寒の奔る未確認生命物体だった。それが神社敷地内の茂みから姿を現している。
瞬間、ミケは俺の足元からそれに飛び掛った。蛸のような生物は触手で応じるが、ミケはそれをことごとく避ける。僅かな隙間を縫うように避ける。どんな高さも軽々避ける。それもそのはず、ミケは空中を駆けているのだ。まるでそこには足場があるかのようにミケは跳躍し、あれに接近する。目と鼻の先にまで近付くと、それの頭部に噛み付いた。相手も必死に抵抗するが、振りほどかれる気配は微塵も無い。やがて相手の動きが鈍くなり、骨を噛み砕く嫌な音が聞こえた。決着、だろう。それからミケの捕食が始まった。相手の肉を、臓物を、骨すらも喰らう。目を背けたくなる光景は、まさに食物連鎖の具現化、弱肉強食。
食事を終えたミケは、そっぽを向いていた俺の足元へと寄ってきた。
「終わったのか?」
「ええ、美味しかったわ」
ミケは舌なめずりしながら俺の横を通り過ぎて後方へ歩く。俺は後を追いながら問いかけた。
「全く、猫缶じゃ我慢出来ないのか?」
「言ったでしょう? 私はエイリアンが大好物なの」
だからと言ってこんなことが続いては堪らないぞ。俺は普通の人間なんだからな。精神も身体も適度に脆い。精神汚染も致命傷もごめんだ。戒めとして少し意地悪でもしておくか。
「じゃあこれから行くペットショップにいる、ペルシャ猫のレオン君もどうでもいいよな」
「それとこれとは話が別よ。もちろん行くわ」
ミケは身体をくねらせて俺の方を振り向き抗議した。どうやら異性への好意と食欲は別のようだ。
その刹那、ミケの姿が揺らぐ。まるで空間が歪んだような景色が目に一瞬映ったかと思うと、ミケが居たはずの場所には一人の女性が立っていた。肌は白く、身体の線は細い。顔には大人びた印象を貼り付け、黒い長髪が生えた頭には猫耳が覗いている。
「……えーと、ミケか?」
「あら、よく分かったわね」
自称ミケは悪戯に微笑む。いつも流されてしまう俺だが、今回ばかりは納得がいかない。
「人間にはなれないんじゃなかったのか?」
「そんなこと言ったかしら?」
人間になっても減らず口は相変わらずのようで、俺の言及もひらりと避けるミケなのだった。ミケは後ろ手を組み、前かがみになって微笑みを絶やさない。
「それに人間の方が良かったんでしょう?」
「あんまり俺を騙すと、もう付き合ってやらんぞ?」
「あら、そう」
俺が苛立ちを明らかに示すと、人差し指を唇に当てつつまたも悪戯な笑顔を浮かべ始めた。
「私はあなたの血肉でも一向に構わないのだけれど?」
ミケは俺の下腹部に指を置き、肝臓をなぞるように輪郭を描く。これが冗談に聞えればどれだけ良かったことか。先程宇宙外生命体を食殺したメスに脅されれば、背筋が凍りつくのも無理からぬことだ。「わかったわね?」と一言忠告したミケは、満足そうにペットショップへ向かう道に向かう。そんな後ろ姿に、俺は何度と繰り返した問いをぶつけた。
「なぁ、お前は一体何者なんだ?」
ミケは振り返ることなく立ち止まった。
「同じ質問には同じ答えしか返ってこないわよ?」
再び歩き始める。だよな……。俺はおとなしくミケの後を追った。
暑い夏の日だった。その暑さは猫の気分をも高揚させるのか、それとも別の要因かどうかは分からない。ミケは振り向く事無く、こう言った。
「私は空よりずっと高い所から来たの。あなたよりずっと前にね」
ミケが初めて正体について語った瞬間だったが、俺は訳が分からず首を傾げた。
「どういう意味だ?」
「さぁ、どういう意味かしらね?」
ミケはそれきり語ろうとしなかった。