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しお

 潮の香りが鼻腔に拡がった。広大な水面、打ちあげる波、燦燦と降り注ぐ太陽光、その全てが海水浴への歓迎ムードを醸し出している。

 季節は夏、俺はあいつと一緒に海水浴に来ていた。いつもなら乗らない電車を乗り継ぎ、バスに長時間揺られてやっと着いたこの海水浴場は、毎年変わらぬ姿を保っている。海水浴場とは言っても一般に開放された騒がしいビーチなどではなく、ごつごつした岩場しかない俺とあいつだけのプライベートビーチ、崖の下の海岸でしかない。         

 それでも俺たちは毎年決まってこの場所に来ていた。理由がある訳ではない。付けようと思えば、昔を忘れたくなかったからだとか、ここが二人の原点だからだとかいくらでも理由は付けられるが、それでもやっぱりそういうことではない気がした。ただ何となく、それだけだ。

 そんな毎年の恒例行事、岩場での海水浴は決まって俺とあいつの二人だけだ。ここは地元の人間も寄り付かないような特徴の無い場所で、俺たち以外の人間がここに足を踏み入れたことはない。だからこそ、今俺は胸の高鳴りを抑えることが出来ずに居た。なぜならここには泳ぐという目的のために来ているわけで、なおかつこの天然の海水浴場には更衣室なんていう文明の産物は存在しないからである。つまり俺の後ろの岩陰で着替えているあいつは無防備だと言って差し支えない。きっとそれは信頼の証なのだろうが、信頼される方としては荷が重い。時折聞えてくる衣擦れを聞かされ続けるなど、もはや拷問だ。毎年行われると言ったって慣れることなんて出来やしない。もちろん普段からあいつに欲情しているなんていう馬鹿げた事実はないが、このような環境では嫌でも異性だということを突きつけられる。所詮俺もオスなのだ。衝動を抑えられても感情を抑えることなどできはしない。抑え込んでいる衝動だって、雄大な水平線を凝視してやっと平静を保っているくらいだ。ここ数年のあいつにはそれだけの魅力があった。

 「着替え終わったよ~! 光は着替え終わった?」

 「俺はとっくに終わってるよ」

 俺はあいつの姿を確認するため、上半身を捻って振り返った。そこには去年と同じく神秘とも呼ぶべきあいつの風采があった。透き通った清水のような瞳に、ふっくらとした唇、黒の長髪を後ろで束ねてポニーテールにしているその容姿は、文句無しの美人だ。その体躯も劣る事無く、スレンダーでいて出るところは出る、高身長モデル体型の見本のような美しいプロポーションである。そんなこいつは布地の小さいビキニを身に着けていた。どういった心境の変化だろうか、去年まではワンピースタイプの水着だったのに、今年からビキニを着用することにしたらしい。こいつも高校一年生、背伸びをしたい御年頃なのだろう。健全な成長の過渡とはそういうものだ。やや年上のように言う俺も同い年なのだけれども。

 そんな個人的見解に満ち満ちた情景を反芻しながら、俺はこいつに「先に泳いでおいでよ」と促した。他でもない、自分が泳ぎたくなかったからだ。別に泳げないわけでもなく怪我をしているわけでもなく、泳ぎたくなかったからだ。いくら一緒にいても以心伝心なんて人間離れした行為は出来るはずもなく、そんな気持ちはこいつには伝わらないだろう。しかしこいつは何を聞くでもなく軽い足取りで波打つ海へと向っていった。気持ちの伝達は必要ない共通解釈が俺たちにはある。だから細かいことは気にせずただ正直に行動することが二人の自然の成り行きとなっている。それは今の俺にとってありがたいことだった。

 岩場に座り込み、あいつの姿を眺める。あいつは岩場から身体三つ分離れたところでクロールを駆使して前進していた。相変わらず不恰好なクロールだ。先程受けた印象から打って変わって無邪気さすら感じる。彼女の手から飛び散った海水は太陽光を周囲に拡散し、それはまるであいつを照らす水晶のミラーボールのようだ。水中の彼女は陸上の時とはまた別次元の美しさを体現している。正に自然体、それ以外の適切な表現は見当たらないだろう。しかしその自然体の姿は、あいつが決して強固ではない一人の女性であることを包み隠す事無く露呈していた。

そんなあいつの姿は、悩み事の深刻さを突きつけてくる。ここに来れば答えが出るような気がしていたのだが、そのような甘えた幻想を打ち砕くかのように、母なる海は俺に教授する兆しを見せることはない。いや、答えは既に出ているのだ。ただそれを喉元で引き留めている俺のエゴさえなければいい。だが、問題を先送りにしてずるずるとこの時まで来てしまう軟弱な俺になぞ、エゴイズムを撲滅できるはずもなかった。そもそも俺は聖人君子でも傍若無人でもないのだから、問題をきっぱりと解決することなんて出来るわけがない。出来るのはただ自分が相手の人生を傷つけない結論を意思表示することだけ。例えそれが自分のエゴに反することであってもだ。そしてその結果は自分ではなく他人に降りかかってくる。

 汚らわしい、全くもって汚らわしい世のシステムだ。他人の行方を定めるのはいつだって他人だ。世間には自分の未来は自分で決めるなんていう上昇志向の台詞があるのにも関わらず、結局人の行く末を決めるのはいつだって他人が多数を占める。馬鹿げている、神でもない人間が同じ人間の運命を紡ぐなど。でも、それに反抗することは社会に溶け込んだ人間に出来ない。今の俺のようにね。

 だから俺は悩んだ末に結論を出すことにした。それが現実となるのはまだ先だが、当人には俺の胸中を伝えておいた方が良いだろう。そんな一連の思考を終えると、丁度あいつが岩場に着いて休んでいた。どうやら俺が考え事をしている間ずっと遊泳していたようで、腕をぐったりと投げ出している。そんなこいつに俺は先程決意したばかりの事柄を述べる。

「俺、決めたよ」

 あいつは不意を突かれた様子で俺を見た。

 「何を?」

 「やっぱり許嫁の件は取り下げてもらう」

 瞬間、こいつは顔をしかめた。今朝から上機嫌であったのに、今は不愉快な感情を全身に漂わせている。まるで拗ねているかのようだ。

 「無理だよ。そんなことは分かってるでしょ?」

 声も変わった。電車内で出していたあの高揚と焦燥を混ぜた声ではなく、抑揚のないマイナス感情の声だ。

 「やってみなくちゃ分からない。きっと成功する。おじさんの会社だって潰させやしない」

 根拠のない言葉を列挙した。それでもこいつには気休めくらいの効果は発揮するはずだったのだ。そんな俺のちんけな予想は簡単に覆される。

こいつは何も答えなかった。それどころか身動ぎひとつしなかった。しばらく経っても動かないので時が止まったのかと思ったが、波音が途絶えていないということは違うのだろう。じっと待ち続けていると、ただ一言を発した。

「やっぱり光は分かってない」

 そういうと、あいつは半身海水に浸かっていた身体を反転させてまた泳いでいってしまった。

 やっぱり分かってない、そんな俗な言葉が俺に突き刺さった。俺は自分の我儘を口にしたつもりだったのに、あいつの言葉がそれを否定したように思えたからだ。そうだ、俺はきっと自分に嘘を吐いていた。俺の我儘はあいつが幸せであることなのに、あいつが何を幸せに思うかは考えたこともない。なのに俺は自分の結論をあいつの幸せだと考えてしまっている。俺は馬鹿だ。自分が出した結論は全てエゴイズムに決まっているじゃないか。あいつの望みは客観ではなく主観に依るものなのだ。俺があいつの幸せを俺が量れるわけがない。

 なら俺はそれを聞き出すまでだ。聞き出す方法は決まっている。近くの道端にあるあの茶屋、そこのカキ氷を奢ればあいつは答えてくれるだろう。御互いに言いにくいことは全てあそこでぶつけ合ってきた。俺に察するなんて芸当は出来ないことはあいつだって承知のはずだ。きっとこんな不恰好な行動も、笑って許してくれるだろう。あいつもそれを待っているのかもしれない。ちゃっかり俺に奢らせるつもりで。

 それなら、待ってやるさ。あいつが気持ちを落ち着けるまでは待ってやるつもりだ。逃げることは許されない。俺は女を傷つけて逃げるなんていう外道にまで落ちぶれたつもりはない。だから待たねばなるまい。

 去り際に見せた彼女の涙は、水のように透き通っていながら塩化ナトリウムの結晶のように濁って見えた。


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