2 大学で
お昼時。
大学の構内はお腹を空かせた学生の群れが食堂へ向けて流れてていく時間帯だ。
沙希ももれなく、その流れに乗って友人たちと一緒に食堂へ向かう。
母の作ったお弁当持参だが。
「いつもいいよね~。沙希は。食事代ただだもん」
茶髪でピアスをした同級生、南真生は食券を手に沙希の手にぶら下がったお弁当袋を羨ましそうに見つめている。
「だったら自分でつくればいいじゃん」
同じく食券を手にして、真生を呆れ顔で見ているのが永居多喜子。長くのばした黒髪が少し羨ましい沙希の同級生だ。
「……ひどいなあ、多喜ちゃん。アタシが料理駄目なこと知って癖に」
「じゃあ、ひとり暮らしなんて無謀なことしなきゃいいじゃない。あんた好き嫌い激しいから栄養偏りまくってるでしょ」
「……多喜ちゃん容赦ない」
「あったりまえよ。それがわたしの取り柄」
胸を張って言うことでもないんじゃなかろうか。と沙希は思ったが、それを言うとこっちに矛先が向きそうなので黙っておく。
「じゃあ、あたし先に席をとっておくね」
そそくさとその場を去る直前、真生の恨めしそうな視線に気付くがとりあえず気付かないふりをした。
大学の食堂は結構広い。
優に百人以上は座れるスペースを有しているが、それでもお昼時は人がひしめき合って、へたをすると座れないこともある。
幸いなことに今日はまだいくらかスペースが空いていた。
厨房からはやや遠い場所ではあるが、座れないよりはいい。
そこに自分の荷物とお弁当を置く。
が、次の瞬間そこに陣取ったことを後悔する。
「よう。沙希」
意地の悪さが滲み出た男の声がしたのである。
ビデオを一時停止したかのように、沙希は体を硬直させた。
そしてスローモーション再生で首を動かした沙希の視界にその男がいる。
見た目はさわやかな笑顔を浮かべた好青年。
しかし、その中身は見た目ほど良くできてはいない。
「……響児?」
幼小中高、そして大学までもが同じという腐れ縁の男。
松岡響児。
沙希の恥ずかしい過去やら何やらを全て知り尽くし、なおかつそれを総動員して沙希をからかうことに日々意義を感じているらしい変態男だ。
「な、なんであんたがここにいるのよ……」
「同じ大学にいるんだから当然だろ。階段昇ってる途中でコケて先生のズボン引っ張り降ろしちゃった林田沙希さん」」
反射的に顔を引きつらせた沙希に響児はにやりと笑いかけた。
「っ……!!」
カッと一瞬で顔が赤くなる。
ちなみに今のは中学時代の失敗談。
学校でも一、二を争う嫌われ者だったその先生は、それ以後しばらく生徒に笑われていた。
故意ではないにしろ、それをしてしまった沙希は卒業までその先生に睨まれ続けたという記憶がある。
「響児ぃ」
思い出したくもない思い出をほじくり返されて沙希は泣きたくなった。
こんな公衆の面前で過去の恥を言うなんて。
が、響児を睨んでも残念なことに事態は好転しない。
ならば反撃すればいいと思うだろうが、この男。全くもって隙がないのだ。
つまり、反抗できるようなネタがない。
このエセ完璧男が!
などという皮肉しか思い浮かばない自分が悲しい。
「おや。反抗的な目。まだ昔のことをほじくりかえしてほしいか?」
「冗談言わないでよっ。今のでもう充分。これ以上学校中に妙な噂流れちゃ困るのよ!」
そう。これが日常茶飯事な光景なわけで、沙希と響児のやりとりは実は結構な噂になっている。
毎日のように得意げに話される沙希の過去はどうも大学に人間にとっては恰好の笑いのネタらしいのだ。
初めて「あれが例の噂の張本人よ」などと指をさしてまで言われたときはゆでだこになるかと思うぐらいに恥ずかしかった。
いや、今でも充分恥ずかしいのだけれども。
「そか。じゃあ、今日はここでやめといてやるよ」
響児はあっさり身を引いた。が、沙希を意味ありげな目で見て、それからにまりと笑う。
「……何よ。気持ち悪い」
この男にしては珍しい笑みだ。
頬が緩みだらしなくにやけている。
この感じからして、何か本人にいいことでもあったのだろう。
沙希には知ったことではないが、何やら本当に気味が悪い。
こちらを不安にさせる笑みをいつも浮かべている響児だが、今日は特に不安をかき立てられた。
まるで何かを企んでいるような。
そんな予感。
響児は嫌そうな顔で自分を見る沙希に気付いたのか、はっと我に返ったような顔になり。
「あ。やべ」
そう言って立ち上がると。
「じゃ、またな」
既にからになっていた食器を持って食器返却場へとそそくさと去っていった。
「へ……?」
なんだかよくわからないがあっけない。
ぽかんとその後ろ姿を見送った沙希の背後に。
「どーしたの?」
食券をお昼ご飯に変えた友人二人が声をかける。
「え、あ。別に」
呆気にとられていた自分に気付いて沙希は我に返った。
「今のって松岡くんよね。珍しいじゃない。わたしたちがくる前に行っちゃうなんて。いつもなら沙希の恥ずかしい思い出をおもしろおかしく語ってくれるのに」
二人のやりとりをしっかり見ていたらしい多喜子が首を傾げた。
実のところ、多喜子はそれを楽しんでいる節がある。
沙希にとっては迷惑極まりないのだが、他人の不幸ほど楽しいものはないらしい。
多喜子はそういう人間だ。
一方の真生はといえば。
「そーそー。こないだのなんか傑作だったよねえ。小学校の時好きな男の子に告白して、返事も聞かずに逃げだして。入った先が男子トイレだったって話~」
「わーっ。真生! 声が大きいっ!」
本人に決して悪気はないのだろうが、素直すぎる。
口を塞ぐも、遅すぎた。
周囲の何人かがくすくすと笑っているのが聞こえて恥ずかしさに泣きたくなる。
こんな調子だから、沙希の失態の噂は大学の大半の人間の耳に入っているのだ。
他人の不幸は密の味。
今さらもう諦め気味だが、それでも恥ずかしいことは恥ずかしい。
「でも。ホント。今日はどうしたんだろね、松岡くん。具合でも悪かったのかな。今日の古文の講義、休んでたみたいだったし?」
「え。古文。休んでたの? 沙希をからかう以外は真面目な松岡君が?」
一言余計な言葉が混じっていたが、沙希はそれを無視して首を傾げた。
「別に、具合悪そうでもなかったけど。むしろ気持ち悪いくらいに元気だった」
「えー。じゃあ、なんだろーね」
真生と多喜子のふたりが揃って沙希を見る。
見られても響児の理由を知っているわけでもないのだが。
なんだか、とてつもなく嫌な予感がした。