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その日の午後二時頃に彼は着いた。生姜色の短いカールした髪に胡桃色の瞳の彼の名はフィリップ・ホーキンス。ハンサムではないが誰にでも好かれる、人懐こい笑顔の持ち主だ。ピシッとアイロンの掛かった白いシャツにベージュのチノパンとジャケットといういかにも優等生的なスタイルは前と変わらない。
フィルはすぐにレイのシャツを脱がせて身体を調べた。相変らず殴られた痕が紫色に変色したままで、俺はその痛々しさに思わず目を逸らした。
「これは酷い。骨は十数箇所も折れているし、内臓も破裂しています。普通の人間ならとっくに死んでいますよ」
そう言いながら、フィルはレイの左腕を指差した。
「見てください。注射針のようなものが刺さった痕があります。何らかの毒が彼の身体に入れられたに違いありません」
「毒だって? じゃあ、彼の傷が治らないのも、熱を出しているのもその為か?」
「たぶん。この毒はヴァンパイアの再生治癒能力を奪ってしまうんでしょう。すぐにでも解毒しないと大変なことになります」
「大変なことって……レイはどうなるんだ?」
フィルは一瞬言葉を詰まらせて、レイを悲しそうな顔で見詰める。
「人間と同じですよ。このままでは死んでしまいます」
「死ぬ?」
そんな馬鹿な。レイがこんなことで死んでしまうなんて。俺はもうレイが存在しない生活なんて想像も出来ない。
「フィル、お願いだ。なんとか彼の命を助けてくれ」
「僕もなんとかして助けたいです。ああ、解毒剤さえあれば……」
フィルはそう言いながら、俺がタオルで縛ってあったレイの腕の傷を手早く消毒し、添え木を当てて包帯を巻いた。
「いや……ちょっと待ってください。確か、最近こういう毒についての記事を読んだような気がするんですよ。ネットで調べてみましょう」
彼は持ってきたバッグからパソコンを取り出した。
「……あった。ほら、見てください」
それは薬物関係の情報を集めたサイトだった。
「一週間前の記事です」
『ポール・J・K・ファーマー研究所において癌特効薬の研究の過程で生み出された薬品がヴァンパイア撲滅に有効なことが明らかになり、数ヵ月後に販売されることとなった。この薬品は『ヴァンプ・キラー』と名づけられ、ヴァンパイアの動きを封じ、再生能力を消すことができる。またヴァンパイアを使っての実験段階での絶大な効果で俄かにハンター達の注目を集めている。ただし、この薬品は人間に対する毒性も強いため、解毒剤も同時に販売される予定』
「ということは、まだ販売はされていないはずだ。ちくしょう。なんであの男がその薬を……」
「ええ、この薬だとしたら、おそらく横流しされているんでしょうね。でも別の薬なのかもしれません」
「そうか。でも一か八か、賭けてみるしかない。この薬だったら解毒剤はあるんだな。よし、じゃあ、あの男を探し出して……」
「いや、たぶんそいつは解毒剤までは持っていないでしょう。必要ないですから」
「そうか。だったらその研究所を探し出すしかないな。何処にあるんだ?」
「ちょっと待ってください」
フィルがキーボードを叩く音を聞きながら、俺はレイの毛布を掛け直す。弱々しい息遣いが胸を締め付けてくる。
「ええと、この製薬会社のHPとかいろいろ調べてみましたが詳しい住所は載っていないですね。シルバー・ウルフの森としか。……ああ、でも、この森だったら車で四時間くらいです。運がいい。でも」
「でも、何だ?」
「ここはかなり広い森です。すぐに見つかるかどうか。ああ、そうだ!」
フィルは目を瞑り、じっとしている。
「今、僕の使い魔を呼びました。カーミラは物凄く鼻が利くんです。彼女はちょっと南部訛りが酷いんですが」
十五分くらい待っただろうか。窓の外から微かに羽音が聞こえた。窓を開けると銀色に翼を輝かせた蝙蝠が飛び込んできてフィルの肩に止まった。猫ほどの大きさのその蝙蝠は琥珀色の大きな目で俺をじっと観察している。なかなかの美人だ。
「さあ、カーミラ。彼に注射された毒の臭いを覚えるんだ」
カーミラは、すぐにレイの胸に止まり、口に鼻を近づけて臭いを嗅いだ。
『覚えただ。フィル』
「よし。これから森に行くから、その臭いのする場所を探して欲しい」
『分ったべ』
フィルはカーミラの頭を指で優しく撫でた。カーミラは目を瞑ってうっとりとしている。今にも喉を鳴らしそうだ。
「さあ、それじゃあ、すぐに行きましょう。外に車を止めてありますから。デビィ、まずレイに服を着せましょう」
レイの身体をそっと起こすと彼は苦しそうに咳き込み、口から大量の血を吐いた。俺は何故か無性に悔しくなった。
「馬鹿野郎! こんなくだらないことで死ぬな!」
俺の声が届いたのだろうか。レイは突然、顔を顰め、首を動かしてゆっくりと目を開けた。ペールブルーの瞳には力がなく、何か言おうとして開いた唇からは呻き声しか出てこない。
「レイ! 頑張るんだ! 今、解毒剤を取りに行くから!」
その時、喉の奥から搾り出すようなか細い声でレイが呟いたのだ。
「……今までありがとう。デビィ」
そしてレイは、幕が下りるように瞼を閉じ、口を閉じてしまった。俺は思わず、レイの肩を掴んで揺さぶっていた。
「気持ち悪いこというな! いつもと同じように憎まれ口叩けよ! こら!」
溢れてくる涙をどうすることも出来なかった。フィルは俺の肩に手を置いてこう言った。
「デビィ、落ち着いて。僕は彼に命を助けられました。今度は僕が命を助ける番です。大丈夫ですよ」
俺達はレイに水色のパジャマ(レイの私物で何と絹のパジャマだ)を着せ、身体を毛布で包むとアパートの入り口まで運び、フィルの車、黒のジープチェロキーの後部座席にそっと乗せた。
「いい車だな。フィル」
「ああ、これは中古なんです。まだローンが残ってるんですよ」
午後三時。まだ日は高い。助手席に乗り込もうとして、ふと見ると座席の上に小さなウィスキーの瓶が転がっているのに気付いた。
「フィル。お前、酒は飲めなかったんじゃないのか?」
「ああ、そうなんですけれど……。あれからちょっと気がついたことがあって。いざという時の為に持ってるんですよ」
フィルはウィスキーをジャケットのポケットに押し込んでエンジンをかけた。カーミラは彼の肩の上でじっと前を見詰めている。
後部座席を覗くと、レイはただでさえ白い肌が透き通ったように白さを増していて、今にも消えてしまいそうに思えた。
走行中、俺はレイのことが気になって仕方なかった。途中、渋滞に巻き込まれ、四時間どころか目的地に近づいた頃にはすでに午後九時を回っていた。
前方に鬱蒼とした森が見えてきた時、フィルの肩の上のカーミラがすっと翼を広げた。
「よし。頼んだぞ、カーミラ」
フィルが窓を開けると、カーミラは外に飛び出し、車の前を飛び始めた。全速力で森の道を走りぬける。どんよりとした雲に覆われた冬の夜空。森の木々の影が俺達を飲み込もうとするかのように車の上に圧し掛かってくる。俺はただレイがまだ死なないようにと神に願うしかなかった。果たして神が願いを聞いてくれるかさえ疑問ではあったが。
チェロキーはやがて脇道に入り、更に細い道へと駆け抜けていく。車一台がやっと通れるほどの悪路だ。やがて森が途切れ、開けた場所に出た。前方に背の高い鉄製の門扉が見えてきた。その向こうに横長の建物があるのが分かる。フィルは門から離れた位置に車を停めた。時刻は午後十時四十分。
「……着きましたよ、デビィ。これからどうしますか?」
「忍び込むしかないだろう。ぐずぐずしてる暇はない」
「そうですね。でも防犯装置がついてることは間違いありません」
「分かってるさ。でも、ここまで人が来るにはかなりの時間が掛かるはずだ」
「でも、もし中に人がいたら……」
俺は思わず、フィルの襟元を掴んだ。
「てめえ! 何を今更ほざいてやがる! レイは死にかけてるんだぞ!」
「……すみません。急に怖くなってしまって」
フィルは大きく深呼吸をするとドアを開けた。
俺は外へ出ると後部座席のドアを開けた。レイの口元に手を当ててまだ微かに呼吸していることを確かめる。
カーミラが真っ先に塀の向こうへ消えていく。俺は鉄の門扉に近づき、よじ登ろうと手を掛けたが、どういうわけか門扉には鍵が掛かっていなかった。少し力を入れると門扉は内側へゆっくりと開いた。
「変ですね。誰か中にいるんじゃないでしょうか?」
「構うもんか。脅かして解毒剤のありかを聞き出してやる」
俺達は外灯に照らされていない芝生の上を走り、玄関の前に立った。塀に掲げられたプレートの社名を確かめる。
『ポール・J・K・ファーマー研究所』。
ここだ。間違いない。ガラスの自動ドアは動かず、中のロビーも真っ暗だ。
「フィル、裏口があるのかもしれない。行ってみよう」
俺達は中から見えないように身をかがめながら壁に沿って右に進んだ。角を曲がると、前方の地面に光が漏れているのが見える。やはり誰かいるようだ。そっと近づいてみると案の定、小さなドアがあった。ドアから15フィートくらい先の窓に明かりが見えた。そっとドアノブを回してみる。鍵は掛かっていない。俺とフィルはドアを開け、中に入った。中は暗い。正体の分からないダンボール箱が棚や床に所狭しと置かれている。どうやら倉庫のようだ。俺達は灯りが漏れてくるドアに近付いた。いきなり、ドアの向こうから何かを割る音が聞え始めた。ガシャン、ガシャンと激しい音が続く中、俺はドアを少し開けて中を覗いた。そこにいたのは若い女だった。ジーンズに黒いTシャツを着たブラウンの髪のその女はダンボール箱から薬瓶を取り出しては床に叩きつけている。箱には『ヴァンプ・キラー』の文字。俺は勢いよくドアを開いた。




