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食事を終えた僕は、自分の部屋に戻ってきた。
美味しい夕飯を食べたことで、鶯に関する不安も薄れていったように思えた。
おなかが膨れたら不安も消える。なんとも単純なものだ。
もっとも、女性陣から様々なからかいの言葉を受け、ある意味疲れる食卓だったとも言えるのだけど。
お母さんと好野のおかげで、帰り際に感じていた不安こそ薄れてはいたものの、僕は勉強机に両ひじをつき、いろいろと考え込んでいた。
もちろん、鶯のことについてだ。
「まったく、紫輝は……」
休み時間に起こった出来事を振り返る。
教科書を借りに来た鶯の目の前に立った途端、紫輝がわざと背中にぶつかってきて、勢い余った僕は鶯にくっついてしまった。
抱きついたというほどの状況ではないにしても、それに近いくらいの密着度で、鶯の匂いまでもがしっかりと感じられてドキドキした。
虫好きな鶯だから、虫みたいに異性を惹きつける匂いを出していたりして……。
でもそれだと、紫輝や他の男子も惹きつけてしまうことになるよね。それはちょっと、というか、かなり嫌だな。
だけど、よく言われるフェロモンとかって異性を惹きつける匂いみたいなものだよね。正確には匂いとは違うのかもしれないけど。
そうすると、人間も虫と似たようなものなのかもしれない。
実際には、異性を惹きつける目的以外のフェロモンもあるみたいだし、やっぱり違うかな……?
取りとめのない思考がぐるぐると頭の中を駆け巡る。
ふと思い出されるのは、やっぱり鶯の笑顔。
どうしてこうも、女の子の笑顔っていうのは心を惹きつけるものなのか。
とはいえ、誰の笑顔でもいいというわけではない。僕にとっては、鶯の笑顔が特別なのだ。
笑顔と一緒に鶯の匂いも思い出し、休み時間のことを再び考え、顔を赤く染める。
そんなことを繰り返す僕は、きっと百面相をしていたに違いない。
自分の部屋だから、誰に見られるわけでもないけど、もし見られていたら恥ずかしいことこの上ない。
僕は鶯が好きだ。この気持ちに嘘はない。
じゃあ、鶯は僕のことを好きなのか?
それは僕にはわからない。
幼馴染みでずっと一緒にいたからこそ、そばにいるのが当たり前すぎて、恋愛感情なんて持てない。そういった可能性もありえるだろう。
普通の女の子ならまだしも、相手は鶯なのだから、なにを考えているかなんて読めるはずがない。
読めるようなら鶯じゃないとも言えるし、そんな鶯だからこそ好きなのかもしれないけど。
僕のこと、好き?
素直に訊くことができればいいのだけど、それもまた、難しい。
もし、否、という答えが帰ってきたら……。
どういう顔をして接していいのかわからなくなってしまうだろう。
幼馴染みでお隣さんで同じ高校に通う鶯。なまじ距離が近いからこそ、思いきって踏み出すことができない。
それに……。
「幼馴染みだし、今さらって感じもするよね」
目の前では、机から直に生える透明の花が風もないはずなのに微かに揺れている。
僕はその花をじっと見つめ、問いかけるようにつぶやいていた。
不意に漏れた、無意識のつぶやき。
自分しかいない部屋の中に、ただ小さく響いただけのはずだった。
にもかかわらず、反応が返ってくる。
「あら、いいじゃないですか、幼馴染みだって」
「……え?」
突然、澄んだ綺麗な声が響く。
これは、昨日と同じように、この花が答えてくれた?
もしかして、昨日の声も気のせいなんかじゃなかった?
驚きを隠せない僕は、まじまじと透明な花を見つめていた。
よく見ると、完全な透明ではない。花びらがほのかに色づいていることに、僕はこのときになってようやく気づいた。
ほとんど透明なのは確かだけど、ほんのちょこっとだけ淡いピンク色に染まっているようにも思える。
気になって指先で触れようとしてみてたものの、やっぱり触ることはできなかった。
「幼馴染みの恋、とても素晴らしいと思いますわ」
声は、背後から聞こえてきた。
僕は反射的に振り返る。
そこには、上品な薄桃色をした綺麗なストレートの髪の毛を微かに揺らめかせる、とても美しい女性が立っていた。
ただ……普通の女性でないことは明らかだった。
黒髪じゃないから日本人ではなさそうだ、というだけではなく、それ以上の違いがある。
その女性の姿は、見事に半透明だったのだ。
優雅な雰囲気を漂わせる彼女の背後には、僕の部屋のドアや壁なんかが、しっかりと透けて見えていた。
「ゆ……幽霊!?」
驚く僕に、女性は微笑む。
「いいえ、わたくしはラナンキュラス。恋花の妖精です」
「恋花……? 妖精……??」
オウム返しの僕の疑問に、その半透明の女性――ラナンキュラスさんは、素直に答えてくれた。
「ええ、恋花――机の上に咲いているその花です。人の恋心で育つ、幻の花……。その人が一番落ち着く場所に生えて、その人にしか見ることのできない花です。わたくしはその恋花に宿った妖精。あなたの恋を見守るのが、わたくしの役目ですわ」
その女性はゆったりと優雅な雰囲気を漂わせている。
長いもみあげを花飾りでまとめているのと、頭頂部付近から二本――というか二房ほど重力に逆らっているかのように伸びる髪の毛、いわゆるアホ毛が、その優雅な雰囲気とはミスマッチで逆に印象的。
落ち着いていて仕草も女性らしく、なにやら花のような甘い香りもほのかに漂い、顔立ちも整っていて、ひと言で表すならば絶対に
『美人』となるようなそんな女性が、妖精とはいえ、僕のすぐ目の前に立っている。
美人にあまり免疫のない僕は、ただ話しかけるだけでも、ついドギマギしてしまっていた。
「ラナン……さん、あなたも他の人には見えないの……?」
実際どうなのかはわからないけど、雰囲気的に年上っぽく感じた僕は、彼女をさんづけで呼び、質問を投げかけてみる。
他にもいろいろな疑問が頭の中を渦巻いてはいたけど、最初に飛び出したのはそんな質問だった。
「わたくし自身は他の人にも見えてしまいますけれど、姿を消すこともできますので安心してください」
「へぇ~、そうなんだ……」
普通に会話は成立している。
だけど、半透明で恋花の妖精だと自称していて、美しい女性の姿で……。
脳の処理能力を遥かに超えた異様な事態に、僕は静かにパニックを起こしかけていた。
昨日に引き続き、疲れているだけなのかな?
でも、目の前に静かにたたずむラナンさんは、文字どおり花のような甘い香りを漂わせながら、間違いなくすぐそこにいて……。
無意識に手を伸ばす。
パニックになりすぎていて、相手が女性の姿だというのに、僕の伸ばした手は胸の膨らみの辺りへと向かっていた。
断じていやらしい気持ちがあったわけではなく、無意識に伸ばしたらたまたまそこに伸びていたという感じだったのだけど。
結果として、僕の手は柔らかな感触にたどり着くことはなかった。
見た目では完全に触れている。というよりも、埋まっている、と言ってもいいような位置。
それでも、なにも感じることはなかった。そこにはただ空気があるだけ。
思わず手のひらを動かし、胸を揉むような動作をしてしまう。これも断じて無意識の行動であって、いやらしい気持ちがあったわけではないのだけど。
「……いくら触れられないからといっても、さすがにこれはちょっと、わたくしとしても恥ずかしいですわ」
「あっ、すみません!」
僕は慌てて手を引っ込めた。
「ふふ。恋花の妖精は、ただ黙って見守るだけじゃないんです。わたくしも応援しますので、頑張ってくださいね、染衣さん」
そう言って、ラナンさんはにこっと微笑みかけてくれる。
「うん……。僕、頑張るよ」
僕の答えに、ラナンさんは笑顔のまま頷いてくれた。
☆☆☆☆☆
ラナンさんは僕に応援の言葉を残したあと、すぐにすーっとその姿を薄れさせ、消えてしまったけど。
僕は勉強机の椅子に座り直し、目の前の恋花をぼんやりと見つめ続けていた。
鶯とのこと……頑張らないと。ラナンさんも、応援してくれているんだし。
……だけどラナンさん、すごく綺麗な人だったな……。
ああいう人を理想的な女性って言うんだろうな。……普通の人間じゃなくて、妖精だけど。
そんなことを考えていたからか、僕は部屋のドアが開かれたことに気づかなかった。
「おにぃ~、お風呂沸いてるから、冷めないうちに入っちゃいな~。……って、おにぃ? おにぃってば!」
好野が何度も呼びかけるまで、僕はまったく気づかず、勉強机に向かったまま。
しかもその机の上には、教科書もノートもなにも広げられていない状態で……。
「あっ、ごめん、聞いてなかった!」
慌てて振り返り、好野に答える僕。好野はなにやら、ニヤニヤ顔を見せていた。
「ありゃ、もしかして、入ってきたらマズいタイミングだった~?」
「な……なに言ってるのさ! そんなんじゃないから! 変な気遣いするなっての!」
どもりまくって焦り声を響かせるも、それは逆効果でしかなく。
勘違いした好野のいやらしい笑みが向けられる中、僕はパジャマと替えの下着をタンスから素早く引っ張り出し、部屋を飛び出した。