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「…………」
うつむいたままだったラナンさんが、ハッとなにかに気づいたように顔を上げる。
視線の先は、僕の勉強机。
いや、その上から直接伸びる、鮮やかに色づいた恋花。
その恋花の色が、みるみるうちに落ちていく。
それこそ、空気に溶け出して流れていくかのように――。
「あああ……」
声にならない声を上げ、その様子を成すすべもなく凝視するラナンさん。
前方に伸ばされ宙を泳ぐ綺麗な白い指先が、どうにかしたいけどできないもどかしさを僕たちにも伝えてくれる。
恋花の色は徐々に薄くなり、最初の頃のような透明になった。
そこからさらに、花はしぼみ、茎もしおしおと力なく垂れ、葉っぱも机の上にしなだれる。
「実にならずに、枯れてしまいました……。わたくしの役目は、失敗ですわ……」
力ない言葉をこぼすラナンさんは、ゆっくりと僕たちのほうへと体の向きを変える。
うつむき加減だからか長い前髪が両方の目にかかり、上目遣いで視線を向ける様子は、妖精というよりは、むしろ幽霊といった雰囲気だった。
「役目は終わった。だからもう諦めて、自分の世界に帰るんだ」
紫輝が、穏やかな上にも力強さを含んだような声で、ラナンさんを諭しにかかる。
だけど……。
「わっ!?」
ラナンさんは突然飛びかかってきた。
紫輝目がけて!
「う……!」
微かなうめき声を上げて飛びすさったのは、しかし、ラナンさんのほうだった。
身構えたまま鋭い視線を向ける先には、同属であるポインセチアの姿。
とっさに自らの身を滑り込ませ、紫輝につかみかかろうとするラナンさんを弾き返したのだ!
「そんなことをしても、なんの意味もないわよ?」
「うるさいですわ! ストレス発散ですわよ!」
そう叫びながらも、ラナンさんは様子をうかがう。
隙があればすぐにでも紫輝に襲いかかるつもりなのだろう。
とはいえ、その紫輝をかばうように、ポインセチアが立ちはだかっている。
同属である彼女を押しのけ背後の紫輝を襲撃するのは、ラナンさんといえども難しいようだ。
激しく火花を散らせながら対峙する恋花の妖精ふたり。
その様子を、僕は少し離れた位置から眺めていたわけだけど。
チラリ。
一瞬ラナンさんと目が合う。
こっちに、目を向けた?
と思った次の瞬間、ラナンさんは目標を変え、僕のほうへと一直線に飛びかかってきた。
「…………っ!!」
声も出せない。
とっさに動くこともままならない。
ただじっと目を見開くのみ。
ラナンさんの整った綺麗な顔が――今は怒りで歪みまくった、眉間にはシワが寄り、睨みつけるような視線を向け、ギリギリと歯を強く噛みしめている、そこまでしても美しいと思えてしまうような顔が、一瞬のうちに数倍にも膨れ上がって僕の視界いっぱいに映り込む。
もちろんそれは、ラナンさんが近づいてきたから。
時間としては一秒にも満たなかったはずだ。
されど、スローモーションのようにも感じた、一瞬の光景。
前方に突き出された両手の指先からは、長い鋭いツメが伸びていた。
僕はあのツメで八つ裂きにされてしまうのだろうか。
「シャアァァァァァァァ!」
ラナンさんは小さめの口を裂けるほどに大きく開け、なにやら言葉にならない叫び声を発しながら突っ込んでくる。
薄桃色の唇の中には、輝くほどの白い歯が並んでいた。
上下に二本ずつ、尖っている歯がある。
キバまであるんだ、ラナンさんって。
綺麗な花にはトゲがあるっていうけど、綺麗な花にはツメとキバもあるんだね。
この期に及んで、なんだか不思議なほど落ち着いていた。
僕はそっと両腕を前方に差し出す。
そして突撃してきたラナンさんの軽い体をしっかりと受け止め、抱きしめた。
勢いがついていたはずなのに、驚くほど衝撃は少なかった。
それはラナンさんの存在意義がなくなり、消えかけているからだったのだろうか。
部屋の時間が、ピタリと止まったように感じた。
様子を見ていたはずの紫輝もポインセチアも、立ちすくんだまま声を出せない。
ラナンさんも完全にその動きを止めている。
僕の、腕の中で。
「ごめんね……」
ぎゅっ。
ラナンさんの折れてしまいそうな細い体をしっかりと抱きしめて、僕は心からの言葉を送る。
「ど……どうして謝っているんですの……?」
わけがわからないといった様子の、ラナンさんの困惑の声が耳もとに響く。
「恋花だって、生き残るために必死なんだよね。だけど、これだけは譲れないんだ」
ラナンさんを抱きしめたまま、素直な想いを綴る。
「僕は鶯が大好きだから……」
再び、沈黙の時が訪れる。
やがて、ゆっくりとラナンさんは口を開いた。
「……はぁ、なんだかバカらしくなってきました。もう、いいですわ。染衣さん、それに紫輝さんも、ごめんなさいね。わたくしは潔く妖精の国に帰ることにしますわ」
そう言って、ラナンさんは感情のなくなってしまったかのような気色のない顔のまま、すーっとその姿を薄れてさせていった。
「待って!」
「……え?」
自ら消えゆくラナンさんを、僕はとっさに呼び止めた。