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気がつくと、翌日の朝になっていた。
ぼーっとした頭を持ち上げ、昨日のことを考える。
僕はラナンさんと……。
唇にそっと指を当てる。
あれは、もしかして、夢……? でも、柔らかい唇の感触や温もりは、リアルに残っているように思えるけど……。
周囲に視線を向けてみるものの、ラナンさんはいない。
のそのそと着替えを終え、カバンを手につかむと、ようやくラナンさんは姿を現した。
「……行ってらっしゃい」
「行ってきます」
ほのかに頬を染めながら、控えめに挨拶だけを口にするラナンさんに、僕もひと言だけ答えて部屋を出る。
いろいろと聞きたかったけど、余計なことはなにも言わなかった。
頬を染めて恥ずかしそうに立つラナンさんが、なんだかとても可愛らしく思えたから。
ラナンさんでも、あんな表情をするんだな……。
僕、もしかして、ラナンさんのことを……。
ぼやけたままの頭でそんなことを考えた瞬間、不意にビクッと電流が走るような衝撃を受けた。
いや、単にポケットの中の携帯電話が振動しただけだ。着信音も流れている。
階段を下りながら確認してみると、それは鶯からのメールだった。
『おはよう。今日も先に行くね。萌香ちゃんが心配だから』
家も隣だし、直接話せば済むことが多く、鶯からメールが来ることは少ない。
仮に来ても簡潔な短いメールだけ。
今日のメールも短めではあるけど、これでも鶯にしては長いほうだ。
『うん、わかった』
僕も簡潔に返信する。
まだ仲直りできてはいないけど、こうやってメールしてくれたのだから、致命的な状況ではないと言えるだろう。
メールで謝って、それで済ますという気には、僕にはなれない。だから直接会って話すつもりだ。
さらには、告白も……。
朝に告白する機会は失ってしまったけど、昼休みや放課後にでも会えれば、チャンスはまだある。
今日中にどうにかしなければならない、というわけでもないけど、なるべく早くしないと、温厚なラナンさんでも怒ってしまうかもしれない。
そこまで思い至って、あれ? と首をかしげる。
さっきまで、僕、なにを考えていたんだっけ?
よく思い出せない。
昨日の夜のこともなんだかおぼろげで、ラナンさんと話したような記憶はあるものの、どんな話をしたのかすら忘れてしまっていた。
ん~? 僕って、確かにぼんやりしていることも多いけど、ここまで忘れっぽかったっけ……?
好野や鶯なら、即座に肯定してくるだろうけど。
「ちょっと、おにぃ、なに階段の途中で止まってんの? 下りれないじゃん」
「あっ、ごめん」
珍しく僕より遅れて部屋を出てきた好野の文句で、はっと我に返る。
そそくさと一階に下り朝食を済ませると、僕はなんだか釈然としない気持ちを抱えながらも学校へと足を向けた。
☆☆☆☆☆
教室に入ると、紫輝の姿が目に留まる。
そうだ。笹百合さんとのことを、問い詰めないと。
「おはよう、紫輝」
「ああ、おはよう」
挨拶には答えが返ってきた。
「もう風邪は治ったの?」
「まあな」
短いものではあったものの、質問にも答えが返ってきた。
会話と呼べる段階ではないけど、紫輝と言葉を交わすのもかなり久しぶりな気がする。
これなら、ちゃんと話を聞いて答えてくれるかもしれない。そんな僕の考えは、やっぱり甘かった。
「笹百合さんと、仲よくやってる?」
いきなり核心を突くのはさすがに気が引けたので、若干遠回りな場所から攻めていくことにしたのだけど。
「…………」
笹百合さんの話を出した途端、紫輝は視線を窓の外に向け、だんまりを決め込む。
「あれから、進展はあったの?」
「…………」
答える気配がない。だったら、バシッと訊くまでだ。
「紫輝、浮気してるの?」
ピクッ。
一瞬体が反応したようには見えた。だけど、答えは返ってこない。紫輝はただ外を眺め続けるのみ。
「そりゃあ、正確には告白もしてなかったわけだし、浮気とは言わないのかもしれないけど。でも紫輝、あんなに嬉しそうに話してくれたじゃん。それなのに、どうして? 笹百合さんのこと、嫌いになっちゃったの?」
あまり大声で言うと周囲の人にまで聞こえてしまうから、さすがに小声に抑えてはいたけど、これ以上感情が抑えきれるかどうかは、自分でもわからなかった。
そんな僕の葛藤には気づいていないのだろう、紫輝はずっと押し黙ったまま。答えるつもりは、これっぽっちもなさそうだった。
やがてチャイムの音が響き、僕の質問タイムは終わりを告げる。
休み時間のたびに問い詰めるのは、さすがにしつこすぎるだろうか。そう考えた僕は、昼休みを待った。
☆☆☆☆☆
昨日来てくれたから、今日も来てくれるかもしれない。と思っていたのだけど、鶯と笹百合さんは、今日は現れなかった。
紫輝も教室内に残ったままだったから、もしかしたら気まずくて入ってこられなかったのかもしれない。
しばらく待ちの体勢に入っていたため、昼休みにも結局、紫輝とは話せずじまい。
なにも状況が変わらないまま、放課後になった。
「おい、紫輝……」
チャイムが鳴った瞬間に素早く席を立ち、話しかけようと近寄ると、紫輝は逃げるように教室から走り去ってしまった。
僕も慌てて席に戻り、カバンをつかんで教室を飛び出す。
下駄箱へと向かうまでのあいだには、紫輝の姿を見つけることができなかった。
もう昇降口を出て、正門を抜けている頃かもしれない。急がないと。
こんなときに限って、余計な障害が立ちはだかってくるもので。
「こら、廊下を走るな!」
学年主任の先生に見つかり、お叱りを受ける。
「あっ、すみません」
素直に立ち止まり、謝罪する僕。
「おっと、そうだ。お前のクラスの委員長は、まだ教室にいるか?」
「え? はい、いると思いますけど……」
「今日のクラス委員会の資料を頼んであってな」
「はぁ……」
そんなの、僕には関係ないのに。心の中で文句をぶつける。
「少々荷物を運んでもらう必要もあるんだよ。……おお、そうだ。もし暇なようなら、君も……」
「僕、用事がありますので、これで!」
なにやら雲行きが怪しいことを察知した僕は、素早く先生の横をすり抜け、下駄箱へと駆け込む。
「あっ、おい!」
という声は背後から聞こえてきたけど、そんなことに構ってはいられない。
僕は急いで靴に履き替え、昇降口を飛び出した。
余計な時間を食ってしまったため、近くに紫輝の姿はもうなかった。
全速力で駅まで走ってはみたものの、それでも紫輝の姿を見つけることはできなかった。