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玄関を開けると、いつもどおり好野が出迎えてくれた。
「お帰り、おにぃ……って、ずぶ濡れじゃない! どうしたの?」
「ただいま。ん……いや、なんでもないよ」
「風邪ひくよ?」
「そうだね。すぐシャワー浴びるよ」
「まったく、ぼーっとしてるんだから。梅雨のじめじめのせいで、頭にキノコでも生えてるんじゃない? ぴょこっ!」
おどけた感じでそう言いながら、好野はリビングへと戻っていく。
僕は部屋へと駆け上がり、素早く着替えを用意してシャワーを浴びた。
リビングで好野やお母さんとゆっくり話す気にはどうしてもなれず、シャワーのあと、僕は眠いからと言ってすぐに部屋へと戻った。
ドアを閉め、ひとりきりになると、そっと近寄ってくる気配がする。同時に、花のような香りが僕を包み込んだ。
「お帰りなさい」
「うん、ただいま」
軽く挨拶だけ交わし、僕はベッドに腰かける。
ラナンさんは、じっと僕に視線を向けている。
いろいろと尋ねたいことはあるだろう。だけど、僕から話し出すのを待ってくれているようだった。
「紫輝がね、浮気してるみたいなんだ」
僕は昼休みに笹百合さんから聞いた話を、ラナンさんの前で繰り返す。
それは、自分の頭の中でもまだ整理しきれていない事柄を口に出して話すことで認識する、といった意味合いもあった。
「友達としては放ってはおけないと思うんだけど、余計なお世話かもしれないし、どうしたらいいのかわからなくて……」
悩みを打ち明ける僕を、ラナンさんはただ黙って見つめている。
彼女が聞きたいのは、こんな話ではないだろう。それは僕にだってわかっている。
ただ、鶯とのことはなにも進展していない。だから後ろめたさもあり、どうしても後回しにしたいという気持ちが先行してしまったのだ。
それに、紫輝と笹百合さんのことも、僕にとって大きな心配事のひとつなのは間違いない。
紫輝も、そして今では笹百合さんだって、僕の大切な友達なのだから。
自分自身のことよりも、まず友達のことを解決したい。そう思うのは、単なる自己満足でしかないのかもしれない。
それでも放ってはおけない。
そんな思いを乗せて、ラナンさんに今の気持ちを打ち明けたのだけど。
「そうなんですの……」
一旦は僕の思いを理解してくれているような表情を見せたラナンさんではあったものの、続けてきっぱりと、こう言い放った。
「ですが、紫輝さんは紫輝さん。所詮は他人ですわ」
「え……?」
僕は驚いて、まともな言葉も発せなかった。
いつも優しく僕の心を温めてくれるラナンさん。だから今回だって、穏やかな笑顔で僕の話を聞いてくれるものだと思っていた。
そりゃあ、ラナンさんはずっとこの部屋にいるだけの身で、もちろん紫輝との面識もない。
恋花の妖精で、僕の恋心を応援してくれている存在なのだから、当たり前といえば当たり前なのかもしれないけど……。
「染衣さんは染衣さんで、ご自分のことをお考えくださいませ」
「でも……」
「でもじゃありません。その様子では、告白もできていないのでしょう?」
「う……それは……」
僕は言葉に詰まる。
「恋花も随分と色づいてきました。それはわたくしとしても嬉しい限りです。とはいえ、このまま恋花の成長が止まってしまっては、やがては枯れてしまいます。もう少しなのですから、染衣さんは鶯さんとのことだけを考えるようにしてください」
いつもの穏やかで包み込むような優しいラナンさんではない。
口調こそあまり変わりないものの、言葉の端々に苛立ちを含んでいるのが、痛いほどに感じられた。
僕は今まで、ラナンさんの温かな雰囲気に、すべてを包んでくれる優しいお母さんとかお姉さんとか、そういった印象を勝手に持ってしまっていた。
だけど恋花の妖精であるラナンさんとしてみれば、目的はひとつだけ。
僕と鶯の恋が成就して恋花が完全に色づき、熟して実となり種となること、それだけなのだ。
「頑張ってくださいね」
にこっ。
その微笑みは、いつもどおりのラナンさんだった。でも、素直に包み込まれる気にはなれない。
僕の顔が若干こわばっているのを、ラナンさんも感じ取ってしまったのだろう。笑顔は崩さずに、そっと僕のそばまで寄ってくる。
そのままベッドに座っている状態の僕の頭を抱え込むように、ラナンさんはぎゅっと抱きしめてくれた。
爽やかな花の香りと大きなふたつの膨らみに挟まれると、意思とは無関係に鼓動が高まってしまう。
「大丈夫、わたくしがついていますわ。次こそは告白できます。鶯さんだって、待ってくれているはずですわよ」
「うん……」
こうやって抱きしめられていると、なんだか頭がぼやけてくる。
「おまじない……ほしいですか……?」
「うん……」
肯定の返事をすると同時に、包み込んでくれていた胸の温もりが消える。
代わりに、ラナンさんの整ったシミやホクロのひとつもない美しい顔が、僕の目の前に迫る。
吐息が直接感じられる至近距離。唇同士の距離は、ほんの数センチしかない。
微かに潤んだようなキラキラの瞳が大きく僕の視界に映り込み、ラナンさんもまっすぐ僕を見つめる。
「ちちんぷいぷい梅松桜」
小さくささやくようにおまじないを唱える吐息が、唇や鼻先にかかる。
そして、
「ん……」
僕とラナンさんの唇の距離は、ゼロになった。