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玄関を出ると、薄暗くまではないものの、空は曇っていた。
でも、おまじないもしてもらったんだし、頑張らないと!
気合いを入れ直し、隣の家まで鶯を迎えに行ったわけだけど。そんな気合いは、空回りとなってしまう。
チャイムを押して待っていると、出てきたのは鶯のお母さんだった。
「お久しぶりです、春香さん」
春香というのが、鶯のお母さんの名前だ。おばさんと呼ばれるのを嫌うため、僕も好野も小さい頃から名前で呼んでいる。
なんというか、うちのお母さんと似た者同士って感じなのかもしれない。もっとも、性格的には正反対と言ってもいいくらいなのだけど。
仕事が忙しいようで、春香さんと会うのも随分と久しぶりだ。
「あら、染衣くん、おはよう。鶯ならもう学校に行ったわよ? 聞いてなかったの?」
ピシッとしたスーツ姿の春香さんは、笑顔で対応してくれた。どうやら今日は機嫌が悪くないらしい。
「そうなんですか」
逆に、鶯の機嫌はやっぱり悪いままのようだ。
文芸部に朝練なんてないだろうし、僕と顔を合わせたくなくて先に行ったのだろう。
失敗したな。あらかじめメールくらい入れておくべきだった。
「まったく、ほんとダメな子よね、鶯は」
告白すると意気込んでいたこともあり、ついつい沈んだ表情をしてしまっていた僕を見て、春香さんはそんなことをつぶやく。
「あっ、いえ、べつに今日は、約束してたわけじゃないですし……」
「それでも毎日一緒に行ってたんでしょ? だったら、用事があるなら連絡すべきよね。もし社会人になってからもこんなにいい加減だったら、世の中やっていけないわ」
「はぁ……」
生返事の僕。
春香さんはキャリアウーマンだ。すごく有能で、会社での信頼も厚いらしい。
様々な実績を上げ、女性ながらに次期社長の呼び声も高いのだとか。
反面、真面目すぎるきらいがある。頭が固いからなのか、のほほんとしすぎな僕のお母さんとは、よく口ゲンカをしているようだった。
とはいえ、しつけとして鶯に口うるさく言うわけではない。
それどころか、まったく口出しをしない、完全放任主義的な状態になっている。
それもこれも、仕事が忙しすぎて家庭にまで手が回っていないことが原因だ。
自分ひとりの力で鶯を育ててきたのは尊敬に値する部分ではあるけど、幼い鶯としてはもっと一緒にいる時間がほしかったに違いない。
鶯の家に遊びに行くと、ひとりで寂しそうにしていることが多かった。
ただ鶯自身は、このお母さんを自慢の母親だと思っているようだ。
いつだっただろう、僕が「鶯のお母さんってひどいよね」と文句を口にしたら、鶯は「そんなことない! お母さんのこと、あたしは大好き!」と満面の笑みで言っていた。
本当は寂しかったに違いない。構ってもらいたかったに違いない。
それでも、お母さんを困らせるわけにはいかないと思ったのだろう。
そんな健気な姿を見ていたからこそ、僕は鶯に惹かれていったのかもしれない。
「あ……それじゃあ、僕、もう行きます」
「そうね。遅刻しないうちに行きなさい」
思わず昔を懐かしむ僕だったけど、そんな時間はないことに気づき、頭を下げながらそう伝える。
春香さんも腕時計を確認して、僕を急かすように早口気味な言葉で送り出してくれた。
だけど……。
駆け出した背中に、春香さんが漏らした微かな声が届く。
「ふぅ……。朝は準備で忙しいんだから、余計な手間をかけさせないでほしいわね、まったく……」
つい口からこぼれ落ちてしまっただけなのだろうけど、そんな文句の言葉を、僕の耳はしっかりと聞き取ってしまっていた。
☆☆☆☆☆
春香さんのことは、べつに嫌いなわけじゃない。
シングルマザーだということもあり、ものすごく頑張っていて、忙しいから時間的に余裕がないのもわかっている。
にもかかわらず、聞くともなしに聞いてしまった本音は、僕の心を締めつけた。
さっきの春香さんの言葉は、僕に対してというよりも、おそらくは鶯に対して向けられたものだろう。
だからこそ余計に、僕の胸を締めつけてくる。
大好きなお母さんから、愛されているとはとても考えられない、鬱陶しくすら思われているような言葉を間接的に向けられる鶯……。
直接言われるならまだマシだろう。
鶯は、変わった部分はあるけど、はっきりと自分の意見を言える女の子だ。
お母さんから直接文句を言われれば、自分が悪いと思うなら素直に謝るし、自分が間違っていないと思うなら徹底的に言い合うはずだ。
そんな言い争いだって、家族にとっては必要なもの。
反抗期と呼ばれる親に反発する時期があるのも、子供が成長していく上で必要な課程だというし。
一般的な家庭に比べて、なにやらやけに平和な感のある僕の家でも、近所迷惑かと思うくらいの怒鳴り合いなんかを経験している。
うちのお母さんはほのぼのとしている上、僕も好野もあまり反抗するような性格ではない。
そんな家庭であっても、言い争いをすることはある。自分の考えを声に出して主張するのは、とても大切なことなのだ。
それなのに、そもそも鶯の家では、そんな言い争いすらない。
顔を合わせる時間が極端に短いのだから、ある程度は仕方がないかもしれないけど、それにしたって、もう少しどうにかならなかったものかと思ってしまう。
鶯が意外にも健気に我慢してしまう性格の持ち主だとはいえ、もっと鶯のことを気にかけてあげてもいいのに……。
いや、気にかけていないというわけでもないのだろう。
忙しすぎてすれ違い、そしてそのすれ違いが当たり前になりすぎて、普通の家庭のようには戻れなくなっているに違いない。
そんな状況を少しでも改善しようと、うちのお母さんはいろいろと世話を焼いている、という部分もあるようだけど。
春香さんの場合、再婚でもして仕事を辞めるとか、望むべきことではないけど体調を崩して入院してしまうとか、そういった大きな変化でもないと、なかなか変わってはいかなそうだ。
……僕が鶯に告白して恋人になる、というのは、もしかしたら春香さんにとっても、大きな変化となってくれるだろうか?
そんなことをぼんやり考えながら歩く。
……それ以前の問題だよね。鶯に会えてすらいないんだから。
せっかくラナンさんからおまじないを貰ったのに、僕はまたしても告白できなかった。
朝に会えないとなると、クラスも違うからなかなか難しくなってくる。
休み時間にでも会いに行けばいいのだけど、僕から行くのはなんだか気まずい。
告白するつもりなのだから、メールでどこかに呼び出して来てもらう、というやり方だってあるだろうけど……。
携帯電話を取り出し、液晶画面に目を向ける。鶯からのメールや電話の着信はない。
やっぱり、僕のほうから行動を起こさないとダメだよね……。
そうは思ったものの、恥ずかしさもあり踏ん切りがつかない僕は、結局、携帯電話を閉じてカバンの中に仕舞い込んでしまった。