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部屋に戻ると、ラナンさんが優しい声で出迎えてくれた。
「お帰りなさい」
「……ただいま」
僕が帰宅してカバンを置きに来るときには、ラナンさんは姿を隠していることが多い。
すぐにリビングへと下りていくことがわかっているからだろう。
同じように、お風呂に入るためパジャマと替えの下着を取りに来るときも、ラナンさんは姿を見せない。
部屋の中にはいるのかもしれないけど、声をかけて僕の行動を妨げたりしないようにしてくれているのだと思われる。
だから僕とラナンさんが会話するのは、お風呂上がりからベッドに入るまでの時間と、朝起きてからの時間だけなのだ。
お風呂上がりでも、宿題や予習復習をする必要がある場合には、ラナンさんは静かにしていてくれる。
僕の部屋で、いわば同居しているような状態ではあるものの、生活の邪魔は絶対にしてこない。
とても思慮深いところがあると言える。
今日もそうだった。
夕飯を食べ終え、お風呂に入って戻ってきたところで、こうしてラナンさんは僕に声をかけてきてくれた。
僕はお風呂場で、ずっと考えていた。
鶯のことを。
朝、告白するつもりで意気揚々と部屋を出た。
ラナンさんからは、勇気の出るおまじないとして、手の甲にキスまでしてもらった。
でも結果は、告白もできず、鶯を怒らせただけ。
そのあとは鶯と顔を合わせることなく、今日一日が終わった。
文芸部の活動が終わって、今はもう家に帰ってきている時間だろう。そっとカーテンを開け、窓から隣の家を見てみれば、鶯の部屋には電気が点いていた。
鶯のお母さんは、これくらいの時間だとまだ帰ってきていないはずだ。
それどころか、泊り込みで帰ってこない可能性もある。その場合、鶯はあの家でひとりきりとなる。
今までどおりなら、夜に鶯がひとりきりのときは、うちのお母さんが気を遣ってなにか軽く食べられるものなどを作って、僕が持っていく役目を負うことが多かった。
そうやってなにか持っていけば、大抵は家に上げてもらって、鶯の話し相手になることができた。
僕自身もそれが楽しくて嬉しかったし、鶯としてもひとりで寂しくなくていいと思ってくれていただろう。
もし僕に用事があって行けなかったとしても、代わりに好野が遊びに行く。そうやって、なるべく鶯が孤独を感じないようにしていた。
だけどそれは、鶯のお母さんがいないときだけだ。
鶯がひとりきりなのかどうか、それを聞いてくるのは、いつも一緒に学校に行く僕の役割となっている。
つまり、僕からお母さんや好野に伝えなければ、口実を作って鶯の家に行くようなこともほとんどない。
鶯は今、ひとりで寂しく思っていないだろうか?
そんなことを考えながら、カーテンのすき間から鶯の部屋を見つめる。
鶯の部屋の窓もカーテンが閉められているため、中が見えるはずもない。
ただ、たまにカーテンに映り込む鶯の影が見える。帰宅しているのは確かめられ、動き回っていることもわかり、元気そうだと安堵する。
「……あはは、これじゃあ、ストーカーみたいだ……」
独り言をつぶやいて、僕はカーテンのすき間を完全に閉めた。
「気になりますのね」
僕は独り言のつもりだったけど、聞いている人がいた。
もちろんそれはラナンさんだった。
正確に言えば人ではなく、恋花の妖精。優しく温かな、爽やかな花の香りを漂わせる女性の姿をした、特殊な存在――。
「うん……」
ベッドに腰かけながら頷く僕に、ラナンさんはそっと近づいてくる。
ほのかに感じていた花のような香りは、彼女の姿が至近距離まで迫ると、よりはっきりと僕の鼻腔を刺激する。
ラナンさんは僕の目の前まで来ても止まることなく、そのまま僕を自らの胸に抱きしめてくれた。
ベッドに座った状態の僕を、少し屈んで抱きしめる形のラナンさん。彼女の大きな胸が僕の頬を両側から包み込む。
温かく、柔らかく、僕の体だけでなく心をも包み込んでくれる、ラナンさんの香り。
この上ない安心感が湧き上がってくる。
それと同時に、自然と涙までもが溢れ出す。
「う……うぅ……」
僕の涙が、ラナンさんのふくよかな胸もとを濡らす。
大粒の雫が、僕の両目から止め処なく流れゆく。
声は無意識に押し殺していた。
こんなに泣いたのはいったい、いつ以来だろう。
小さな子供のように、すがりついて泣き続ける。
ラナンさんはそんな僕を、強く、深く、しっかりと抱きしめてくれた。
時が止まったように、ずっと、ずっと……。
やがて、僕の心も少しは落ち着きを取り戻した。
「僕、どうすればいいのかな……?」
まだ涙まじりの声で、僕は問いかける。
「大丈夫です、わたくしがついていますわ」
優しく頭を撫でながら、ラナンさんは僕の耳もとでささやいてくれた。
「告白は、まだなさってないのですね?」
「うん……」
「でしたら……リベンジすべきです」
「リベンジ……?」
「ええ。もう一度会って、今度こそ告白するのですわ」
頭を撫でられながら、そしてラナンさんの胸に顔をうずめながら、僕は会話を続ける。
「でも……どんな顔して会えばいいのか、わからないよ……。それに、鶯のほうだって会ってくれないと思うし……」
沈み込む心をそのまま口にする。
言葉にすることで、不安が余計に重くのしかかってくるかのようだった。
それに従って、僕の顔も柔らかなラナンさんの胸の谷間に深く沈み込んでいく。
「そんなに沈み込まないでください、染衣さん……。さすがに少々、わたくしも恥ずかしいですわ……」
ラナンさんがもじもじと体をくねらせながら、恥じらいの吐息を漏らす。
彼女の言っている沈み込むというのは、僕の心のことではなく、胸にうずめている顔のことだったみたいだ。
「あ……ご、ごめん……!」
ぼんやりしすぎていた僕は、ようやくその恥ずかしい状況に気づき、胸の谷間から飛び起きた。
「うふふ、染衣さんの心を落ち着かせることができたみたいですから、構いませんわ。もしよろしければ、いつでもわたくしの胸をお使いください。ちょっと恥ずかしいですけれど……」
頬を染めながら、ラナンさんはそんなことを言い始める。
「いや、あの、ごめんなさい! 僕、ぼーっとしてて……!」
「ふふっ、謝らなくていいですわ」
にこっと、まだ微かに頬を染めながらではあったけど、ラナンさんはいつもと同じ、穏やかな笑顔を向けてくれた。
僕のほうは、さすがに恥ずかしくなって、それ以上言葉を続けられなかった。
ラナンさんも頬の赤味が取れないまま、じっと僕を見つめている。
「あっ、そうですわ! おまじない、しますわね!」
沈黙に耐えきれなくなったのか、ラナンさんがパチンと両手を合わせ、そんなことを提案してきた。
おまじない……。それってもしかして、キス……?
手の甲へのキスとはいえ、ラナンさんの柔らかな唇を意識してしまい、僕の顔はさらに熱くなっていたのだけど。
「ちちんぷいぷい花見酒!」
ラナンさんがしてくれたおまじないは、人差し指を伸ばしてくるくると回し、最後に額の辺りをツンと軽くつつく、そんなおまじないだった。
そっか、そっちのほうの種類の、おまじない……。
ちょっと残念に思いつつ、僕はツッコミを入れる。
「また花札の役だし。それに、未成年なのにお酒なんて……」
「いいえ、恋に酔うのですわ。それに、花見の桜は、桜井の桜。染衣さん、あなたの名字ですわよ?」
「……なるほど」
「ですから、今度こそ勇気を持ってください。大丈夫、わたくしがついていますわ。明日こそ、鶯さんに告白してくださいませ」
「……うん」
僕の答えに、ラナンさんは笑顔で頷きを残し、すーっと姿を消していった。
こうやってある程度の時間になると姿を消すのもまた、いつもどおりだった。
「さて、寝よう……」
優しく心を温めてくれたラナンさんのおかげで、僕は今日も気分よく眠りに就けそうだ。