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「ふ~、サッパリした」
お風呂から上がり、僕は自分の部屋へと戻った。
電気を点けると、机の上に伸びる恋花が目に飛び込んでくる。
恋花はかなり色づいてきている。
最初の頃は薄っすらと色づいているのが見える程度だったのに、今でははっきりとピンク色の花びらが確認でき、茎や葉の緑色もくっきりと浮かび上がっている。
半透明で、背後に立てられた教科書や参考書類が透けて見えてはいるものの、じっくり見なければそれもわからないほどだった。
僕にだけ見えるというから問題ないけど、もし他の人にも見えるようだったら、お母さんが部屋の掃除をするために入ってきたら引っこ抜かれてしまいそうだ。
……触ることもできないのだから、引っこ抜くのも無理か。
すっと手を伸ばし、やっぱり感触がないことを再確認しながら、僕は椅子に座る。
これだけはっきりと見えているのに触れられないというのは、なかなか不思議な感覚だ。
「いい感じですわね」
「……うん」
背後から澄んだ綺麗な声がかけられる。
こうやって恋花の妖精であるラナンさんに話しかけられることにも、随分と慣れてきた。
「ですが、最近はどちらかというと、ご友人の応援にばかり気が行ってしまっていませんか?」
「そうだね。紫輝と笹百合さん、結構仲よくなってきてるよ」
僕はこうやって、紫輝と笹百合さんのことも含め、学校であった出来事なんかをラナンさんに話すようになっていた。
普段、リビングで好野やお母さんとずっと話しているから、以前の僕は、自分の部屋に入るといきなり静かになりすぎて落ち着かないくらいに感じていた。
ひと言で表すなら、寂しかったのだ。
だけど今は、ラナンさんがこうして出迎えて、話し相手になってくれる。それがとても嬉しく思えるようになっていた。
当然ながら、声はなるべく潜める。
隣は壁一枚隔てて好野の部屋になっているわけだし、ノックをする習慣もないから、好野やお母さんがいつ急にドアを開けて部屋に入ってくるかもわからない。
ラナンさんは姿を消すことができるようだし、見られてしまう心配はないと思うけど、声がしていたら不審に思われるのは間違いないだろう。
僕が独り言を大声で喋っていただけ、ということになれば、精神に異常をきたし始めているんじゃないかと心配されかねない。
うちの家族は仲がいい、というか、よすぎるくらいだと自分でも思っているし、お母さんはかなりの過保護だ。
自分の子供だけでなく、お隣さんの子供である鶯までもを気にかけているくらいだから、相当なものだろう。
僕が風邪でもひこうものなら、つきっきりで看病すると言い出すし、好野までもが学校を休んで看病すると駄々をこねる始末。
かくいう僕も、好野やお母さんが風邪をひいたら、おかゆを作ったり濡れタオルを頻繁に換えたりと、進んで看病するのは間違いないのだけど。
ともかく、家族に余計な心配をかけないためにも、声を聞かれないように気をつける必要があるのだ。
……いやまぁ、単に見えないなにかと会話をしているおかしなやつと思われたくないから、というのが正直なところではあるのだけど。
「ご友人の面倒を見るのも、とてもよいことだとは思います。ですが、もっとご自分のことを優先すべきかと思いますわ」
笑顔のままではあったけど、ラナンさんはそう提言する。
「そうかな。でも、恋花も随分と色づいてるみたいだから、僕と鶯もかなり親しくなれてるんじゃないかと思うけど」
「ええ、もちろん悪くはないですわ。ですが、せっかくここまで色づいてきているのですから、一気に進展されてもいいのではないかと、わたくしは思いますの」
確かに、ラナンさんにしてみれば、まどろっこしいかもしれない。
恋花が机の上に見えるようになってから、もう一週間以上経つ。
それなのに僕と鶯の関係は、もっとずっと昔からほとんど変わっていないのだから。
僕が鶯のことを異性として意識するようになったのがいつ頃かは、はっきりと覚えていないけど。
少なくとも中学に上がるときには、鶯のことをひとりの女の子として好きになっていたと思う。
その頃と比べれば少しは進展しているはずだし、友人の恋を応援することで鶯のほうも意識し始めているようには思えるものの、あまりにも遅い、のろのろ牛歩戦術。
ラナンさんがキレやすい性格だったら、とっくに爆発しているかもしれない。
……爆発して怒鳴り散らすラナンさんっていうのも、ちょっと見てみたいけど。
そんなずれた感想を思い浮かべ、ついつい軽く吹き出してしまう。
「染衣さん、笑いごとではありませんよ? まぁ、急いては事を仕損じると言いますし、あまり急かすつもりはありませんが……。染衣さんだって、鶯さんともっと親密になりたいでしょう?」
「……うん、そうだね」
幼馴染みでずっと近い距離にいる鶯。近すぎてどうしても家族同然という感覚になってしまう。
異性として意識している僕でもそうなのだから、あまり意識していなさそうな鶯なら、なおさらだろう。
どうすればもっと親密になれるのか。僕はしっかり考えて、実行に移さないといけない時期に来ているのかもしれない。
そうしないと、ただの幼馴染みのままで終わってしまう可能性だってある。
鶯が僕のことを単なる幼馴染みという認識でいるうちに、もし誰かが鶯のことを好きになって告白してしまったら……。
変わり者の鶯だから、あまり現実味はないけど、万にひとつ、そんなことがあったとしたら……。
そして、もし相手がとっても虫好きで、本を読むのも大好きな男だったら……。
幼い頃からずっと見てきた僕は知っている。鶯はこれまでの人生で、異性とつき合ったことなんてない。それは僕も同じだけど。
男性に免疫のない鶯は、僕なんかと違って積極的な男に言い寄られたら、コロッとなびいてしまうかもしれない。
さすがに誰でもいいとは思っていないだろうけど、それがもし虫好きで本好きな男だったとしたら、喜んでイエスと返事をするのではなかろうか。
もしそうなったら……もし鶯が他の誰かと恋仲になってしまったら……。
そのとき僕はどうするのだろう。
「……悩んでおりますね」
「う……」
つい、ラナンさんの存在も忘れて、悪い方向へのシミュレーションに思いふけってしまっていた。
「ふふ、大丈夫です。染衣さんは鶯さんと、きっと恋人同士になれますわ」
「そうかな……?」
「ええ」
にっこりと明るく微笑んでくれるラナンさんに、僕はそれでも、曖昧な表情しか返すことができなかった。
「不安ですのね。それではわたくしが、おまじないをかけて差し上げます」
そう言ったかと思うと、ラナンさんは右手をすっと僕の目の前まで掲げる。
続いて、袖を振り乱しながら人差し指をくるくると回し、なにやらおまじないの言葉を唱え始めた。
ラナンさんの袖口から、心地よい花の香りが漂ってくる。
「ちちんぷいぷい、猪鹿蝶!」
唱え終わると同時に、人差し指をとんと僕の額の上に止める。
どうやらそれで、おまじないとやらは終了のようだ。
と、そんなことより。
「い……猪鹿蝶?」
「ええ。花札の役ですわ」
「えっと、それは一応知ってるんだけど、なぜに花札……?」
「ふふっ。恋花の妖精は自分の出番が来るまで、妖精の国で待っていますの」
「へぇ~、そうなんだ……」
それにしても、妖精の国だなんて、なんだかメルヘンだ。
「わたくしたち恋花の妖精は、その待ち時間を使って、花札で遊んだりしているのですが」
……途端にメルヘンじゃなくなった!
「あっ、もちろん、お金を賭けたりなんて、しておりませんよ?」
そういう問題ではない。
だいたい、恋花の妖精にお金なんて必要ないのでは……。
「先ほどのおまじないは、そのときに思いついたものですの。花札には『こいこい』というルールがあるのですけれど、『恋来い』という掛け言葉になっていますのよ」
……ダジャレ?
「あはは、なんだよ、それ!」
「ふふっ、笑っていただけましたね。不安は吹き飛びましたか?」
「あ……」
そう言われて、確かに気持ちが軽くなっていることに気づく。
「笑う門には福来たる、ですわよ」
「……そうだね、ありがとう。僕、頑張ってみるよ!」
「その意気ですわ。猪鹿蝶パワーです!」
「それはどうかと思うけどね」
「え~? どうしてですの~? わたくしの心を込めた誠心誠意、一世一代のおまじないでしたのにぃ~!」
「あははは、大げさだって!」
「ふふっ」
夜の静かな部屋の中に、そんな僕たちの笑い声がこだまする。
翌朝。
僕は好野から、「おにぃ、夜中に笑い声が聞こえてきたけど、頭大丈夫?」と、不名誉な心配をかけられる結果になってしまった。