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「お~に~ぃ~!」
妹、好野の少々のんびりめな声が響く。
こうやって「に」にアクセントをつけ、ちょっと甘ったるい感じの声でゆっくりと呼ぶ場合は、決まってなにか頼みごとするときだと、これまでの経験上で僕は悟っていた。
「ん~、なんだ~?」
子供部屋のある二階から階段を下りてきた僕は、素直に返事の声を上げる。
……自分の返事で気づく。
のんびりめな口調は妹に限ったことではなくて、どうやら僕も一緒のようだ。
それはともかく、なにか頼みごとをされるだろうとわかっていようとも、僕はべつに妹を無視したりなんかはしない。
頼られるのは嫌なことでもないし、それ以前にうちの家族はみんな、基本的に頼まれたら嫌とは言えない性格だからだ。
……断れないだけ、と言い換えることもできるけど。
「おにぃ、えっとね、これ」
そう言いながら僕に手渡そうとしてきたのは、小型の鍋。
手袋タイプの大きめな鍋つかみをはめた両手で持っていたその鍋を、僕にそのまま渡そうとして――、
「あっ、でも熱いし、どうしよう……?」
わたわたと慌てふためき、おろおろきょろきょろする我が妹。
桜井好野、十四歳、中学二年生。
学校での成績はそれなりに優秀。クラス委員も任されていて、しっかり者と評判なのだそうな。
今僕の目の前でおろおろわたわたしているのを見る限り、そんなふうには全然見えないのだけど。
「ん~、一旦、床に置くとか?」
「あ~、そうね! おにぃ、あったまいい~!」
僕の提案に従い、好野は鍋を床に置く。エプロン姿であるところを見ると、好野は夕食作りの手伝いをしていたのだろう。
キッチンからはラジカセのスピーカーが響かせる古い曲とお母さんの鼻歌が聴こえてくる。
お母さんはそうやって、鼻歌まじりに家事をすることが多い。
「お母さん、また歌ってるね」
「そりゃそうだよ~、いつものことだもん」
今どきカセットテープもないでしょ、と思わなくもないものの、お母さんが学生時代から聴いているシロモノらしいから、思い出もいっぱい詰まっているに違いない。
そのせいで僕は、まだ高校生だというのに、二十年以上も昔の曲をたくさん知っていたりする。これは果たして、いかがなものか。
最新の曲も聴くには聴くのだけど、それよりも脳髄に染みついた古い歌のほうが好きなくらいだし……。
うちの両親は高校の同級生で、お互い初恋の相手だったとか。
初恋は実らないなんてよく言われるけど、一番近い場所にその反例が存在していることになるのだから、そんなの迷信でしかないと言わざるを得ないだろう。
学生時代からつき合っていた両親だけど、結婚したのはかなり遅く、三十も後半になってからだったらしい。
そんなわけで、僕たちの両親は同級生と比べると、少々年上の場合が多い。
にもかかわらず、お母さんは今でも二十代に見られることもあるという、不可思議生物(と言ったら泣かれそうだけど)だったりする。
お前のお母さんって若いよな、と言われて実際の年齢を伝えると、ほぼ確実に驚かれてしまう。
妖怪の血かなにかでも流れているのではなかろうか。そんなふうに思ったりしなくもないけど、まさかそんなオカルトチックなことがあるはずもない。
単純に、のんびりとした性格だからお肌の老化もゆっくり進行している、といった感じだろうか。
……僕と好野は、どうやらお母さんののんびり屋な性質をばっちり受け継いでいるようだ。
できればお父さんの少々後退し始めている髪の毛の性質だけは、断固として受け継ぎたくないと思うのだけど。
思考が完全に逸れてしまい、ぼーっとしていた僕を、好野は首をかしげながらじっと見つめていた。
「おにぃ、どうしたの?」
「ん、いや、なんでもないよ。それで、この鍋がなに?」
ようやく本題に軌道修正された兄と妹の会話。
いやまぁ、勝手に軌道を逸れたのは僕自身なのだけど。
「えっとね、トン汁作ったの。だから、鶯ちゃんのところに持っていってあげて。鶯ちゃんのお母さん、まだ出張中でしょ?」
「あ……そっか」
僕は納得し、床に置かれた鍋を持とうとして、
「熱っ!」
と短い叫び声を上げつつ、すぐに手を引っ込める。
「あはは、バカだなぁ、おにぃ! よしのがどうしてわざわざ鍋つかみを使ってると思うの~?」
そう言いながら、腰に両手を当ててころころ笑う好野。
好野は自分のことを「よしの」と名前で言う女の子だ。
中学生にもなったのだから、直せばいいのにと思わなくもない。
普通の家だったら、お母さんが指摘するなどして直させるものだと思うけど、うちの場合、そのお母さんからして自分のことを「智絵理」と名前で言う人だから……。
しかもうちのお母さんの場合、他の人にも「智絵理ちゃん」と、名前にちゃんづけで呼ばせている。おばさん、と呼ばれるのが心底嫌なのだろう。
ただ、僕や好野にまでそう呼ばせようとするのは、納得できないところ。
好野は素直に従って智絵理ちゃんと呼んでいるけど、僕にはどうしても抵抗があるため、普通にお母さんと呼ぶようにしている。
と、再び脱線しかける思考を、慌ててもとに戻す。
「でもさ、好野。そうやって鍋つかみをつけたまま腰に手を当ててる好野こそ、なにか忘れてると思わない?」
「……はっ! そ、そうだよね! 鍋つかみ、渡さないと!」
好野はそそくさと鍋つかみを自分の手から外し、僕に手渡してくれた。
瞬間、そっとお互いの指先が触れる。
相手が好きな女の子だったらときめく場面だけど、妹相手じゃなんのトキメキもない。
……もっとも僕の場合は、好きな女の子が相手だったとしても、トキメキになるかどうか微妙かもしれないけど。
ともかく、僕は受け取った鍋つかみを自分の手にはめる。
ピンク色なのがちょっと恥ずかしいものの、贅沢は言っていられないだろう。
「それじゃあ、行ってくるね」
「うん、行ってらっしゃい!」
僕は素早く鍋を持ち上げると、ぱたぱたと手を振って見送る好野の笑顔を玄関に残して家を出た。