36話、神童の予言と、冷や汗の見送り。
ーー翌朝の朝六時、遠藤領の境界。
すっかり病気が治って全盛期のムキムキな肉体に戻った武田信玄公が、多くの馬を引き連れて、甲府に帰るための身支度を整えていた。
頼重「お館様、数ヶ月に及ぶ当領での湯治、本当にお疲れ様にございました。遠藤家一同、お館様の完全復活を心よりお祝い申し上げます!」
作左衛門「(涙を拭いながら)躑躅ヶ崎館へ戻られても、朝のハブラシの儀式はお忘れなきように……!」
信玄「がはは! 分かっておるわ、作左衛門。頼重もよく儂を支えてくれた。よし、これより甲府へ戻り、ただちに織田・徳川を討つために西上作戦(上洛)の軍を興す! ーーではな、松千代!」
松千代「おじさん! お体ピカピカになって、よかったねえ! バイバイなのぉ!」
信玄「(馬の上から身を乗り出し、満面のデレデレ顔で手を振りながら)うむ! 達者でな、松千代! 次に会う時は、織田信長の首をはねて天下を統一した時じゃ!」
松千代「うん! あっ、ねぇねぇ、おじさん。あのね、ぼくの頭の中のちえが、ちょっとだけ心配お耳(忠告)をしているのぉ」
信玄「むっ? 心配お耳? なんじゃ、儂への予言か?」
松千代「あのね、尾張ののぶなが(織田信長)っていうおじさんね、すっごくずるいのぉ。鉄砲をね、いーっぱい、三千丁もならべてね、さんだんうち(三段撃ち)っていうので、じゅんばんに、ばんばんばん! って撃ってくるんだよぉ」
信玄「…………なっ!? (一瞬で笑顔が消え、落馬しそうになるほど身を乗り出す)」
隠密「(テラスの影から飛び出してきて)な、なんと申されましたか松千代様!? 鉄砲を三千丁並べて、順番に絶え間なく撃つと……!?」
松千代「うん! いちばん目のひとがバン! って撃ったら、うしろに下がって弾をごしごし(装填)してね、その間に二番目のひとがバン! って撃つのぉ。だからね、武田の自慢のお馬さん(騎馬隊)で突撃すると、みんなばんばんされて、全滅しちゃうんだよぉ? だから、気をつけてねぇ!」
信玄「(額から滝のような冷や汗をダラダラと流し、あまりの恐怖にガタガタと震えながら)て、鉄砲の弱点である『次弾装填の隙』を……兵を三列に並べることで完全に無くすというのか……!? ば、馬鹿な……信長め、そこまで恐ろしい新戦術を考えておったのか……っ!」
遠藤領の男たちも、信玄の変わりように生唾を呑んで固まる。
もし松千代のこの言葉がなければ、武田軍は史実の『長篠の戦い』のように、信長の鉄砲三段撃ちの前に自慢の騎馬隊を蜂の巣にされ、壊滅していたかもしれない。それを3歳児が無邪気に暴いてみせたのだ。
信玄「(青ざめた顔で馬の手綱をぎゅっと握りしめ、冷や汗を拭いながら)お、隠密……! 今すぐ甲府へ早馬を飛ばせ! 長大な馬防柵への対策と、織田の鉄砲隊を無力化するために雨天決戦の陣形、および夜戦の支度をただちに整えよ! 騎馬の正面突撃は厳禁じゃ!」
隠密「ははっ! ただちに!」
信玄「(震える手で松千代を見つめ、拝むように一礼して)松千代……お主は本当に、武田家を滅亡から救ってくれた勝利の女神、いや神童じゃ……。信長の罠は完全に破った。儂は冷や汗が止まらぬゆえ、大急ぎで城に戻る! 頼重、後日また銭(小遣い)をたっぷり送るからな!」
ーーヒヒーンッ! と馬を猛烈なスピードで走らせ、武田信玄公は冷や汗を撒き散らしながら、大慌てで甲府へと風のように去って行くのだった。
頼重「……松千代。お前、本当にとんでもない事をお館様に教えたな……」
松千代「ふぇ? まつちよ、おじさんにお馬さんばんばんしないでねって、言っただけだよぉ?」
松千代のちっちゃな一言が、戦国時代の歴史(長篠の戦いの未来)を完全にひっくり返した瞬間だった。




