お針子の仕立てるドレスは、呪われた王子の『死に装束』
王都の華やかな中心街から遠く離れた、裏路地のさらに奥。
石畳の隙間から雑草が顔を出すような寂れた通りに、私の働く小さな仕立て屋はある。
「ふぅ……」
ランプの灯りだけが頼りの薄暗い作業台で、私は小さく息を吐きながら針から手を離した。
古い木製のトルソー(マネキン)に着せられているのは、深い藍色のベルベット生地で作られた紳士用のコートだ。
見習いから初めて一人前のお針子として店を任されるようになって、もう三年になる。しかし、私――リディアの店には、貴族や裕福な商人が訪れることは滅多にない。
私自身が、地味で、不器用で、口下手なせいもあるだろう。流行のドレスを華やかにデザインするような才能は私にはない。ただ、誰かが長く着続けられるように、一針一針、頑丈に、丁寧に縫い合わせることしかできないのだ。
「でも、この糸……今日もやっぱり、不思議なくらい切れないわね」
私は、手元にある木製の糸巻きを不思議な思いで見つめた。
私が仕立てに使う糸は、特別な絹や魔石の繊維を練り込んだような高級品ではない。問屋から安く仕入れた、ごく普通の木綿糸だ。
しかし、私が針にその糸を通し、布を縫い合わせ始めると、糸はまるで細い鋼のように強靭になり、ハサミで渾身の力を込めなければ切れないほどになる。
おかげで、私が仕立てた服は「何年着ても絶対にほつれない」と、近所の肉体労働者や貧しい町の人々からはそれなりに重宝されていた。
(私には、こんな風に服を頑丈にすることしかできないけれど。それでも、誰かの生活を支える服を作れるなら、それでいい)
私は糸切りバサミを置き、冷え切った両手を擦り合わせた。
外は、夕方から降り始めた冷たい秋の雨が、窓ガラスをパラパラと打ち据えている。
こんな酷い雨の日に、こんな裏路地の寂れた仕立て屋に客が来るはずもない。そろそろ店の看板を下ろして、奥の部屋で温かいスープでも作ろう。
そう思い、私が立ち上がろうとした、その時だった。
カラン、カラン……。
雨音に混じって、店の入り口のアンティークベルが、ひどく重々しい音を立てて鳴った。
「いらっしゃいま……」
来客を迎えようと顔を上げた私の言葉は、途中でピタリと止まってしまった。
店の入り口に立っていたのは、この貧民街にはおよそ似つかわしくない、異様な気配を纏った長身の青年だった。
黒い乗馬用の厚手の外套をすっぽりと被り、雨の滴を床に落としている。
しかし、何よりも私の目を引いたのは、彼の顔の半分を覆い隠している、冷たい銀色に輝く精巧な仮面だった。
仮面の隙間から覗く片目は、まるで凍てつくような氷の青色をしている。銀糸のような美しい髪が雨に濡れ、彼の青白い頬に張り付いていた。
(……綺麗な人。でも、どうしてこんなに……怖いんだろう)
彼が店に足を踏み入れた瞬間、店内の空気が一気に数度下がったような気がした。
暖炉の火がヒュッと小さく縮こまり、窓辺に飾ってあった小さな鉢植えの白い花が、まるで何かの毒気にあてられたように、ポロリと花弁を落とした。
息が詰まるような、圧倒的で、そしてひどく『冷たい』重圧。
「あの……お客様? 何か、お直しでしょうか。それとも……」
私が恐る恐る声をかけると、銀色の仮面をつけた青年は、ゆっくりと私の方へその氷のような視線を向けた。
「……君が、この店の仕立て職人か」
声は、低く、かすれていた。
まるで、声を発することすら苦痛であるかのように、ひどく疲労しきった響きだった。
「はい。私が店主のリディアと申します。どのようなご用件でしょうか」
「……」
青年は私の顔をじっと見つめ、それから店内をぐるりと見渡した。
華やかなドレスの並んでいない、地味で質素な、しかし丈夫さだけが取り柄の服たちが並ぶ私の店を。
「……噂で聞いた。この裏路地に、絶対にほつれない、永遠に形を保ち続ける服を仕立てるお針子がいると。それは、君のことか」
「永遠に、だなんて大げさなものではありません。ただ、少し糸を丈夫に縫うのが得意なだけで……」
「なら、いい」
青年は私の言葉を遮り、懐から重そうな革袋を取り出して、作業台の上にドンッと置いた。
中から、ジャラリと鈍い金属音が響く。チラリと見えたのは、私が一生かかっても稼げないような枚数の、王家の紋章が刻まれた金貨だった。
「俺に、服を仕立ててほしい」
「これほどの金額……! どのような服でしょうか。夜会用の豪奢なドレスコートですか? それなら、表通りの高級店の方が、間違いなく素晴らしい刺繍を……」
「いや。夜会に着ていくような服はいらない」
青年は、外套のフードを深く被り直し、その氷のような瞳で私を真っ直ぐに射抜いた。
「俺に、最高の『死に装束』を仕立ててくれ」
「……え?」
私は、自分の耳を疑った。
「死に装束、ですか……?」
「ああ。俺は近いうちに死ぬ。いや、死ななければならない。……だから、俺の最期を看取るための、絶対にほつれず、俺の身体を永遠に包み隠すような、分厚く頑丈なコートが必要なんだ」
彼の言葉には、微塵の冗談も混ざっていなかった。
若く、どこか高貴な雰囲気を漂わせたこの青年が、自らの死を切望している。それも、ひどく切羽詰まった、絶望的な響きで。
「あの……失礼ですが、お怪我をされているとか、ご病気なのですか? もしそうなら、服を仕立てるよりも先に、お医者様に……」
「医者になど治せない。これは、そういう類のものではないからだ」
青年は一歩、私の方へ近づいた。
それだけで、私は本能的な恐怖で後ずさりそうになった。彼から発せられる『冷たさ』は、ただの気温の低さではない。命そのものを削り取ろうとするような、恐ろしい死の気配だった。
「俺は、呪われている」
青年は、自嘲するように低く笑った。
「俺の周囲にいる人間は、皆、理由もなく衰弱し、命を落としていく。……俺が息をしているだけで、俺がそこに存在するだけで、周囲の命を無差別に喰らい尽くしてしまう呪いだ。俺は今まで、城の地下深くに幽閉されていたが……呪いは強くなる一方で、もはや分厚い石の壁すら貫通して、城の人間たちを殺し始めている」
「命を、喰らう……」
私は息を呑んだ。
窓辺の鉢植えの花が散ったのは、偶然ではなかったのだ。彼から無意識に漏れ出している『呪い』が、あの小さな花の命を奪ったのだ。
「だから俺は、城を抜け出してきた。誰もいない、遠くの雪山の奥深くで、一人で餓死するために。……だが、俺の死後、俺の死体から呪いが漏れ出さない保証はない。俺の呪われた肉体を、骨の髄まで永遠に閉じ込め、この世界から隔離するための『棺』が必要なんだ。……絶対にほつれない、君の仕立てた頑丈な服という名の棺が」
青年の声は、どこまでも冷たく、そしてどこまでも悲しかった。
彼は、自分自身の命を終わらせるためだけでなく、残される世界の人々を守るために、孤独な死を選ぼうとしているのだ。
(そんな……そんな悲しい服のご依頼なんて、受けられないわ)
私は、仕立て屋だ。
服というのは、本来、着る人の人生を彩り、寒さから守り、その人の魅力を引き出すためのものだ。
死ぬための服。世界から自分を呪いごと隔離するための服。
そんなものを作るために、私は針を握ってきたわけではない。
しかし、私が断りの言葉を口にする前に、青年は突然、激しく咳き込んだ。
「ゲホッ……! ァ、ぐ……ッ」
彼は胸を押さえ、その場に膝をついた。
「お客様!?」
私は咄嗟に駆け寄り、彼の背中を支えようと手を伸ばした。
「触るなッ!!」
鋭い怒号が飛び、青年は私の手を乱暴に弾き飛ばした。
「……俺に、近づくな……っ。君まで、俺の呪いに当てられて死にたいのか……!」
彼は荒い息を吐きながら、壁に背を預けて私から距離を取った。
弾き飛ばされた手首がジーンと痺れていた。
しかし、私が驚いたのは痛みのせいではない。ほんの一瞬だけ触れた彼の腕の感触が、まるで氷の彫刻のように冷たかったからだ。
生きている人間の体温ではなかった。彼は、自分の命さえも、その呪いに喰われかけている。
「……失礼した。だが、本当に俺に触れないでくれ。……金はいくらでも払う。だから、お願いだ。俺を、この呪いごと包み込んで殺してくれる服を……君の手で、作ってくれないか」
銀色の仮面の奥の瞳が、すがるように私を見つめていた。
それは、恐ろしい化け物の目などではない。
誰かを傷つけることを極端に恐れ、自分の存在そのものを呪い、孤独の中でただ一人震えている、傷ついた少年の目だった。
私は、弾かれた自分の手をゆっくりと胸の前で握りしめた。
怖い。彼から漏れ出す呪いの冷気が、私の肌を刺してくる。
でも、このまま彼を追い返せば、彼は本当に、この雨の中をたった一人で雪山へ向かい、凍えながら死んでいくのだろう。ボロボロの心と身体を引きずって。
(……私に、何ができる?)
私には、彼の呪いを解く魔法なんて使えない。
ただの、不器用なお針子だ。
でも。
「……分かりました。そのご依頼、お引き受けいたします」
私が静かに告げると、青年は目を見張った。
「ただし」
私は、作業台からメジャー(採寸用の巻尺)を手に取り、彼に向かって真っ直ぐに歩み寄った。
「私は仕立て屋です。お客様の身体にぴたりと合う、最高の服をお作りするのが私の仕事です。……ですから、今からあなたの身体の採寸をさせていただきます。逃げないでくださいね」
「なっ……馬鹿な! 近づくなと言っているだろう! 俺の呪いは、物理的な距離が近いほど強く命を削るんだぞ!」
青年が壁際に後ずさろうとしたが、私は構わず距離を詰め、彼の広い肩にサッとメジャーを回した。
「ッ……!」
青年が息を呑み、全身を硬直させる。
私は、彼から発せられる強烈な冷気と、命を削られるような息苦しさに耐えながら、必死に平常心を装ってメジャーの目盛りを読み上げた。
「肩幅、四十五センチ。……少し、お痩せになっていますね。もっとたくさんお食事を召し上がらないと、せっかくのコートが似合いませんよ」
「君は……正気か……? なぜ、平気な顔をしている……」
「平気ではありません。すごく寒いです」
私は、震える手で彼の胸囲を測るために、彼の背中に腕を回した。
まるで、彼を抱きしめるような姿勢になる。
彼の心臓の鼓動が、分厚い外套越しに伝わってくる。ゆっくりと、弱々しく、それでも確かに生きようと脈打っている音。
「でも、お仕立てを引き受けた以上、妥協はできません。……それに、私、昔からすごく頑丈なタチなんです。少しくらいの呪いなんて、跳ね返してみせますから」
強がりだった。
本当は、立っているのもやっとなくらい、手足の先から感覚が失われていくような恐ろしさがあった。
でも、不思議なことに、私が彼に触れ、服を仕立てるための寸法を測るという『仕事』に集中している間だけは、私の指先から微かな熱が生まれ、彼の冷たい呪いを中和してくれているような気がしたのだ。
「……袖丈、六十二センチ。はい、これで採寸は終わりました」
私はサッと彼から離れ、メモ帳に数値を書き込んだ。
ホッと息を吐くと、ドッと凄まじい疲労感が襲ってきたが、気取られないように背筋を伸ばした。
青年は、まるで信じられないものを見るような目で、私を呆然と見つめていた。
「君は……本当に、死なないんだな。俺にこれほど近づいて、無事だった人間は……幼い頃以来だ」
「だから言ったでしょう。私は頑丈なんです」
私はメモ帳をパタンと閉じ、彼に向かって微笑んでみせた。
「さて、お仕立てには、一ヶ月ほどお時間をいただきます。……その間、あなたはどこに滞在されるおつもりですか?」
「……決めていない。人里離れた森の中にでも身を隠すつもりだ」
「雨の森で野宿なんて、服が完成する前に風邪を引いて死んでしまいます。死に装束の意味がないじゃありませんか」
私は、店の奥の扉を指差した。
「私の店の二階に、使っていない屋根裏部屋があります。埃っぽいですが、雨風はしのげますし、ベッドもあります。……服が完成するまでの間、そこで待機していませんか?」
「俺を、この店に置くというのか!? 君は俺の呪いの恐ろしさを分かっていない! 長期間そばにいれば、いくら君でも確実に命を削られて……!」
「仮縫いの時に、いちいち森まで探しに行くのは手間ですから。それに……」
私は、彼の銀色の仮面の奥の、寂しそうな瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「あなたが、自分の呪いで私を殺してしまうのではないかと恐れてくれている。その優しいお心がある限り、私は絶対に死にません。……お針子の勘です」
何の根拠もない出まかせだった。
でも、私は彼をこのまま一人で雨の中に追い返すことなど、絶対にできなかったのだ。
青年は、私の言葉にしばらく押し黙り、やがて、深く、重い溜息を吐いた。
「……君は、恐ろしいほどにお人好しか、あるいは生粋の狂人だな」
「よく言われます」
「……シラスだ」
青年は、ポツリと呟いた。
「俺の名前だ。……一ヶ月。君が仕立てる棺が完成するまで、厄介になる。だが、少しでも君の体調に異変が出たら、俺はすぐにここを出て行く。……いいな?」
「はい、シラス様。最高のコートをお仕立ていたしますわ」
こうして、私と、自らの死を切望する呪われた青年シラス様との、奇妙な共同生活が始まったのだった。
*****
翌朝。
屋根裏部屋へと続く細い階段を、私は湯気を立てるお盆を持って慎重に上っていた。
お盆に乗せているのは、焼き立ての黒パンと、たっぷりの野菜とベーコンを煮込んだ熱いスープ、それに淹れたての紅茶だ。
「シラス様、朝食をお持ちしました。入ってもよろしいですか?」
ノックをして声をかけるが、返事はない。
そっとドアノブを回すと、鍵はかかっていなかった。
「失礼します……」
部屋に入った瞬間、私は思わず身震いをした。
昨夜から雨は上がっているというのに、屋根裏部屋の中は、まるで真冬の雪山のように凍てついていたのだ。
窓は全開にされ、冷たい秋の風が容赦なく吹き込んでいる。シラス様は、部屋の隅の暗がりで、昨夜と同じ分厚い外套を被ったまま、膝を抱えて丸くなっていた。
「シラス様! どうして窓を全開になんて……風邪を引いてしまいます!」
私が慌てて窓を閉めようとすると、彼は鋭い声で私を制止した。
「開けておけ……! 閉め切れば、この狭い部屋の中に俺の呪いが充満する。……階下にいる君の命を削らないためには、常に換気して、呪いを外へ逃がすしかないんだ」
その言葉に、私はハッとした。
彼は一晩中、私が呪いに当てられないよう、一睡もせずに冷たい風に吹かれながら耐えていたのだ。
自分の命を終わらせるための服を依頼しに来たというのに、どこまでも他人の命を気遣う、不器用で優しい人。
「……お気遣いは感謝します。でも、窓は閉めます」
私はバタンと窓を閉め、鍵をかけた。
「おい、何を……ッ」
「言ったはずです、私は頑丈だと。それに、お客様に風邪を引かれて、せっかく採寸したサイズが変わってしまっては、仕立て屋としての名折れですから」
私は強引に彼をベッドの端に座らせ、小さなサイドテーブルに朝食のお盆を置いた。
「温かいうちに召し上がってください。スープには、滋養のつく香草を少し混ぜてあります」
「……俺は、食事など必要ない。どうせ死ぬ命だ、腹を満たす意味がない」
シラス様は頑なに顔を背けようとしたが、ふわりと漂ってきたベーコンと香草の匂いに、微かにお腹がキュッと鳴る音が聞こえた。
銀色の仮面の奥で、彼がわずかに動揺したのが分かった。
「……これは、呪いのせいだ。俺の意志ではない」
「はいはい、そういうことにしておきます。でも、食べなければ服の完成まで持ちませんよ。……毒は入っていませんから、どうぞ」
私がスプーンを手渡すと、彼は戸惑いながらもそれを受け取り、ゆっくりとスープを口に運んだ。
一口、また一口。
凍えきっていた彼の青白い頬に、ほんのりと赤みが差していく。
「……温かい」
彼は、信じられないものを見るように、スープの入った木の器を見つめた。
「誰かが作った温かい食事を口にするなど……いつ以来だろうか。城の地下牢では、扉の隙間から冷たい保存食が投げ込まれるだけだったからな」
「美味しいですか?」
「……ああ。ひどく、美味い」
彼は、ポロリとこぼれ落ちそうになった涙を隠すように、また深くフードを被り、黙々とスープとパンを平らげた。
その姿を見て、私は胸の奥がギュッと締め付けられるような気がした。
彼がどんな過去を背負い、どれほどの孤独の中で生きてきたのか、私には想像もつかない。でも、今はただ、彼に温かい服を作ってあげたいと、心の底から思った。
*****
それから、私の本格的な仕立て作業が始まった。
一階の作業場で、私はシラス様のために選んだ布地を広げた。
色は、彼の瞳の色を引き立たせるような、深い夜空のような藍色。
素材は、最高級のウールを極限まで打ち込んで織り上げた、特別に分厚く、そしてひどく重いメルトン生地だ。普通のハサミでは裁断するのも一苦労なほどの厚みがある。
彼が望んだ「絶対にほつれない、呪いを閉じ込める棺」としての要件を満たすため、私が問屋の奥底から見つけ出してきた、とっておきの布地だった。
(さあ、始めるわよ)
私は、作業台のランプの火を少しだけ大きくし、針に木綿糸を通した。
布を合わせ、一針目を刺し貫く。
チクッ、プスッ。
厚い生地を貫く確かな手応え。
「……私の糸は、絶対に切れない」
私は、呪文のようにその言葉を口の中で繰り返し、一心不乱に針を進めた。
不思議なことだった。
シラス様が二階にいるせいで、店全体には常に薄暗く冷たい『呪い』の気配が漂っている。花瓶の水は凍りつき、壁の木材は少しずつ腐食を始めている。
しかし、私が針と糸を持って服を縫い合わせている『この作業台の上』だけは、その呪いの影響を一切受けていなかったのだ。
私が糸を引くたびに、木綿糸は目に見えない淡い光を帯び、布と布を『運命』のように固く結びつけていく。
それは、ただの物理的な縫製ではなかった。
私は意識していなかったが、私が「服を丈夫にしたい」「着る人を守りたい」と強く念じながら縫う時、私の指先からは特殊な『魔力』が糸に流れ込んでいたのだ。
数日が経過した。
私が仕立てている藍色のコートは、袖や襟のパーツが縫い合わされ、徐々にその形を成しつつあった。
しかし、作業を進めるにつれて、そのコートは異様な『重さ』を持つようになってきた。
物理的な重量ではない。持とうとすると、まるでズシリと巨大な岩でも持ち上げているかのような、重圧を感じるのだ。
(まるで、このコート自体が……この店に漂う『呪い』を、吸い込んでいるみたい)
シラス様から漏れ出た冷気や死の気配が、私が縫い合わせた糸の隙間に引き寄せられ、布の内側に封じ込められていく。
私が彼のために作っているのは、本当に『死に装束』なのだろうか。
私は、眠る間も惜しんで、何度も何度も糸を重ね、頑丈な縫い目を築き上げていった。
*****
シラス様が滞在するようになって、二週間が経ったある夜。
コートの『仮縫い(サイズの最終確認のために、しつけ糸で仮に縫い合わせた状態)』が完了した私は、二階の屋根裏部屋へと足を運んだ。
「シラス様、起きていらっしゃいますか。仮縫いができましたので、一度袖を通していただけますか」
声をかけると、しばらくしてギィとドアが開いた。
現れたシラス様は、ここに来た初日に比べて、わずかに顔色が良くなっていた。毎日私が無理やり食べさせている温かい食事の成果だろう。
「……もうできたのか。早いな」
「本縫いはこれからですから。さあ、こちらへ」
私は一階の作業場に彼を促し、木製トルソーから藍色のコートを外して、彼に差し出した。
シラス様は、躊躇いながらも、ずっと着ていた黒い外套を脱いだ。
その下に着ていた薄いシャツ越しに見える彼の身体は、痛ましいほどに痩せ細っていた。そして、首筋から鎖骨にかけて、まるで青黒い茨のタトゥーのような『呪いの痕』がびっしりと這い上がっているのが見えた。
「……見苦しいだろう。これが、俺の命を喰らっている呪いの本体だ。……さあ、早くその服を着せてくれ」
彼は自嘲気味に顔を背け、コートに腕を通した。
その瞬間だった。
「……っ!?」
シラス様が、大きく目を見開き、信じられないというように息を呑んだ。
店内に充満していた、あの凍てつくような冷気と死の重圧が。
彼がコートに袖を通した途端、嘘のようにピタリと収まり、暖炉の火が本来の温かさを取り戻して赤々と燃え上がったのだ。
「これは……一体、なんだ……?」
彼は、自らの両手を見つめ、震える声で呟いた。
「呪いが……俺の中から漏れ出さない。息が、苦しくない。……この服が、俺の呪いを完全に『内側』に封じ込めているのか……!?」
「サイズ感はいかがですか? 肩回りは窮屈ではありませんか?」
私は、彼の驚きにはあえて触れず、背中に回ってメジャーを当てながら尋ねた。
実は、私自身も驚いていた。私の服が、ここまで彼の呪いを完璧に抑え込む力を持っていたなんて。
私が縫い上げた糸が、彼の身体を覆う『結界』として機能しているのだ。
「サイズなど、どうでもいい! リディア、君は……魔法使いなのか? 城のどんな高位の魔道士が作った護符でも、俺の呪いをここまで完全に抑え込むことなどできなかったんだぞ!」
シラス様は振り返り、私の両肩をガシッと掴んだ。
その彼の手は、初めて出会った時の氷のような冷たさではなく、生きている人間の、確かな温もりに満ちていた。
「魔法使いだなんて、とんでもない。私はただのお針子です。ただ……あなたの服には、特別に頑丈な糸を使いましたから。呪いごときで、ほつれてたまるものですか」
私がふふっと笑うと、シラス様は銀色の仮面の奥で、大粒の涙をポロリとこぼした。
「……ありがとう。これで、俺は……誰にも迷惑をかけずに、一人で死ぬことができる」
その言葉に、私の笑顔は凍りついた。
呪いが抑え込まれ、身体が楽になったというのに。彼の望みは、変わっていなかったのだ。
「どうしてですか」
私は、気づけば彼の胸ぐらを掴んでいた。
「どうして、まだ死ぬなんて言うんですか! このコートを着ていれば、あなたは呪いを気にせずに、外の世界を歩けるかもしれないじゃないですか! 美味しいものを食べて、太陽の光を浴びて、生きていけるかもしれないのに!」
「無理なんだ……」
シラス様は、悲しげに首を横に振った。
「このコートは、呪いを『消し去る』わけではない。俺の体内に『閉じ込めている』だけだ。……外に出れない呪いは、いずれ俺の内部で飽和し、俺自身の命を完全に食い破る。……長く持って、あと半年の命だろう」
「そんな……」
「でも、それでいいんだ。俺が死んだ後も、君が仕立てたこの最強のコートが俺の死体を包み込み、呪いが世界に漏れ出すのを永遠に防いでくれる。……君は、俺の望んだ通りの、最高の『死に装束』を作ってくれたんだ」
彼は、私の手を優しく払い、安堵の笑みを浮かべた。
それが、あまりにも穏やかで、死を受け入れた人間の顔だったから。
私は、悔しさで唇を噛み締めることしかできなかった。
*****
仮縫いが終わり、最終的な『本縫い』の作業に入った。
シラス様は、呪いが抑え込まれたことで体調が良くなり、私が作業をしている間、よく一階に降りてきては、私の手元をじっと眺めるようになった。
「……君の縫い目は、本当に等間隔で美しいな。見ていると、心が落ち着く」
温かい紅茶を飲みながら、彼がふと言った。
「そうですか? お城のドレスを縫う職人さんに比べれば、無骨なものですよ」
「いや。君の縫う服には……祈りのようなものが込められている気がする。だから、こんなにも温かい」
彼の言葉に、私は針を動かす手を少しだけ止めた。
「シラス様は、どんな服が好きですか?」
「俺か?……考えたこともなかったな。物心ついた時から、呪いを抑えるための重い呪符を縫い付けられた、囚人のような服しか着せられなかったから」
「では、もし呪いがなかったら。どんな服を着て、どこへ行ってみたかったですか?」
私の問いに、彼は少しだけ視線を宙にさまよわせ、ポツリとこぼした。
「……海を、見てみたかったな。城の書物でしか見たことがないんだ。……あとは、そうだな。あまり重くない、風通しの良い白いリネンのシャツを着て……誰かと一緒に、街のパン屋で焼き立てのパンを買ってみたい」
それは、あまりにもささやかで、普通の青年の夢だった。
呪いさえなければ、彼もそんな当たり前の幸せを掴む権利があったはずなのに。
なぜ、こんなに優しい彼が、死の恐怖と孤独の中で、自らを犠牲にして世界を守ろうとしなければならないのか。
(私は……彼に、死に装束なんて着せたくない)
私は、手元にある藍色のコートを強く握りしめた。
このコートは、呪いを閉じ込めるための棺だ。彼が死んだ後、世界を守るための封印具。
でも、もし。
私の糸に、呪いを閉じ込めるだけでなく、呪いそのものを『解きほぐす』力が込められたなら。
「……シラス様。明日の夜には、このコートは完成します」
私は、決意を込めて彼に告げた。
「そうですか。……色々と、世話になったな」
「ええ。ですから……明日の夜、この服が完成したら、最後に一度だけ、私のお願いを聞いていただけませんか」
「お願い?」
「はい。……二人で、海を見に行きましょう」
私の突拍子もない提案に、シラス様は目を丸くした。
「馬鹿なことを言うな。俺はこれから雪山へ……それに、ここから一番近い海でも、馬車で数時間はかかるんだぞ」
「かまいません。馬車の手配は私がします。……あなたが死にに行くのは、海を見てからでも遅くないでしょう?」
私が強引に言い切ると、彼は困ったように笑い、そして「……分かった。君には敵わないな」と小さく頷いてくれた。
その夜。
私は一人、誰もいない作業場で、藍色のコートに向き合っていた。
私は、今まで縫い上げてきた糸を、ハサミでプツリ、プツリと切り始めたのだ。
仮縫いではない、本縫いの頑丈な糸を、自らの手で全てほどいていく。
「こんなもの……棺桶なんて、私が作るもんか」
私の指先から、今まで以上の強い熱と光が溢れ出す。
ただ呪いを封じ込めるだけの服じゃない。
彼と共に生き、彼の呪いを受け止め、そして彼を自由に世界へ羽ばたかせるための『翼』となる服を。
私は、自分の指先から血が滲むのも構わず、持てる全ての力と願いを込めて、一からコートを縫い直し始めたのだった。
*****
東の空が白み始め、窓ガラス越しに冷たい朝の光が作業場に差し込んできた。
「……できた」
私は、震える指先からそっと針を置いた。
一晩中、一睡もせずに縫い直し続けた藍色のコートが、木製トルソーの上で静かに完成の時を迎えていた。
何度も針を刺し間違え、指先からは血が滲み、魔力を限界まで使い果たしたせいで全身が鉛のように重い。立っているのもやっとの状態だったが、私の心は不思議なほどの達成感と、確かな希望に満ちていた。
昨日までの、あのズシリと重い『呪いの棺』とは違う。
新しく縫い上げられたコートは、布地こそ同じ分厚いメルトン生地であるにもかかわらず、まるで春の風を孕んだかのように、ふわりと軽く、そして柔らかく仕上がっていた。
私が込めたのは「封印」の祈りではない。
彼の背負う重荷を解きほぐし、彼を自由に羽ばたかせるための「解放」の祈りだ。
ギィ……と、二階への階段がきしむ音がした。
シラス様が降りてきたのだ。
彼は、私が徹夜で作業をしていたことに驚いたように目を見張った。
「リディア、君……まさか、一晩中寝ずに作業をしていたのか? 顔色が酷いぞ」
「お気になさらず。……それより、シラス様。約束通り、コートが完成いたしました。さあ、袖を通してみてください」
私はトルソーからコートを外し、彼に差し出した。
シラス様は、私の痛々しい指先を見て痛ましそうに顔を歪めたが、無言でそれを受け取り、ゆっくりと腕を通した。
「……ッ!」
コートを羽織った瞬間、シラス様は銀色の仮面の奥で、大きく目を見開いた。
「これは……軽い。昨日仮縫いで着た時とは、まるで別の服のようだ。……いや、それだけじゃない。身体の内側が……ひどく、温かい……」
彼は、自身の胸元に手を当て、信じられないものを見るようにコートを見つめた。
呪いを内側に無理やり封じ込めている、あの息苦しい重圧が完全に消え去っている。それどころか、彼の冷え切っていた身体の芯から、ぽかぽかとした陽だまりのような熱が湧き上がってきているのだ。
「不思議なコートでしょう?」
私は、フラフラする足で立ち上がり、彼に向かって微笑んだ。
「さあ、服は完成しました。……馬車はもう、表通りの辻に手配してあります。行きましょう、シラス様。海へ」
*****
王都を出発した辻馬車は、秋の澄んだ空気の中を、一路南の海岸へと向かってひた走っていた。
ガタゴトと揺れる車内で、シラス様は窓の外の景色から一瞬たりとも目を離そうとしなかった。
黄金色に色づいた麦畑、遠くに見える風車、すれ違う村人たちの笑い声。
城の地下牢に幽閉され、世界から隔離されて生きてきた彼にとって、その全てが眩しく、愛おしい景色なのだろう。
「……信じられない」
シラス様が、窓枠に手をついたままポツリとこぼした。
「馬車の中というこんなに狭い密室に君と一緒にいるのに、俺の呪いが、全く君を傷つけていない。……君の仕立ててくれたこの服は、本当に奇跡だ」
「だから言ったでしょう、お針子の腕を信じてくださいって」
私は向かいの席で、眠気をこらえながら笑った。
「シラス様。あなたのその呪いは、一体どこから来たものなのですか? ずっとお聞きしたかったのですが」
私の問いに、シラス様は窓から視線を外し、少しだけ寂しそうに伏し目がちになった。
「……俺の家系、王家の血筋に稀に現れる『業』のようなものだ。かつて、初代の王が国を興す際、魔神と契約して強大な力を得た。その代償として、数世代に一度、国中の負の感情や死の運命を一人で背負って生まれてくる『生贄』が必要になる。……それが、俺だ」
「生贄……」
「俺が周囲の命を喰らっているように見えるのは、俺の身体がブラックホールのように、世界の呪いや死を引き受けてしまっているからだ。……だから、俺が死ねば、この国に溜まった厄災の種は一度リセットされ、また数百年は平和が続く。俺は、死ぬために生まれてきた存在なんだよ」
だから彼は、誰を恨むでもなく、自分の運命を静かに受け入れていたのだ。
自分が死ぬことで、国が、世界が救われるのだと信じて。
なんて残酷で、悲しい王家だろう。
「……そんなの、間違っています」
私は、気づけばポロポロと涙をこぼしていた。
「リディア? なぜ君が泣くんだ」
「だって、あんまりです。シラス様が一体どんな悪いことをしたっていうんですか。……たまたまそういう星のもとに生まれたからって、たった一人で暗闇の中で死んでいかなきゃいけないなんて……そんなのおかしいわ!」
私は、膝の上でギュッと拳を握り締めた。
「私は、あなたに生きてほしい。美味しいパンを食べて、海を見て、普通の人間として生きていってほしいんです。……誰かの犠牲の上に成り立つ平和なんて、そんなもの、クソ食らえです!」
仕立て屋の娘らしからぬ汚い言葉を使ってしまったが、シラス様は怒るどころか、少しだけ驚いた後、ふっと優しく微笑んだ。
「……ありがとう、リディア。君にそう言ってもらえただけで、俺の人生には十分すぎる意味があったよ」
*****
馬車に揺られること数時間。
潮の香りが風に混じり始め、やがて視界が開けた。
「着きましたよ、シラス様」
私たちが降り立ったのは、王都から一番近い、小さな港町の外れにある白い砂浜だった。
見渡す限りに広がる、透き通った青い海。
太陽の光が水面に反射し、まるで無数の宝石を散りばめたようにキラキラと輝いている。ザザーッ、と打ち寄せる波の音が、心地よく響いていた。
「……これが、海」
シラス様は、砂浜に降り立ち、呆然とその圧倒的な景色を見つめていた。
彼は、波打ち際まで歩いていくと、足元に寄せては返す波の冷たさと、潮風の匂いを、全身で確かめるように深く深呼吸をした。
「綺麗だ……。本で読むより、ずっと広くて、青い」
「ええ。とても綺麗です」
私は、彼の隣に並んで立ち、海風に髪を揺らした。
しばらくの間、私たちは無言で海を眺めていた。
やがて、シラス様がゆっくりと振り返り、私に向かって深く、深く頭を下げた。
「リディア。俺の、人生最後のわがままを聞いてくれて、本当にありがとう。……君のおかげで、俺は最高の景色を胸に刻んで旅立つことができる」
彼は、私に別れを告げようとしていた。
ここから一人で、誰もいない北の雪山へと向かうために。
「さようなら、リディア。君の仕立ててくれたこのコートは、死んだ後も絶対に脱がないと誓おう。……君と過ごしたこの数週間は、俺の生涯で一番、温かい時間だった」
シラス様が、踵を返そうとした、その時だ。
「待ってください」
私は、彼の分厚いコートの袖を、ギュッと掴んで引き留めた。
「リディア……? 離してくれ。これ以上長居をしては、君に迷惑が……」
「シラス様。その銀色の仮面を、外してみてください」
「な、何を言っている。これは、俺の顔にまで広がった呪いの痕を隠すための……」
「いいから! 外してください!」
私の強い口調に押され、シラス様は戸惑いながらも、顔を覆っていた冷たい銀色の仮面に手をかけた。
カチャリと音を立てて、仮面が砂浜に落ちる。
現れた彼の素顔を見て、私は確信を持って微笑んだ。
「ほら。やっぱり」
「……え?」
シラス様は、私の言葉の意味が分からず、不思議そうに首を傾げた。
「ご自分の首筋や、頬を触ってみてください」
促されるまま、彼は自分の首筋に手を当てた。そして、大きく息を呑んだ。
「呪いの痕が……消えている……!?」
昨日まで、彼の首筋から鎖骨、そして頬にかけてびっしりと這い上がっていた、青黒い茨のような死の呪いの紋様。
それが今、まるで朝露が太陽に溶けるように、跡形もなく消え去っていたのだ。
呪いの痕だけではない。青白かった彼の肌には健康的な血の気が戻り、仮面の下から現れた素顔は、息を呑むほどに美しく、若々しい普通の青年の顔だった。
「どういうことだ!? なぜ……俺の中から、呪いが完全に消えている!?」
シラス様はパニックに陥ったように、自身の両手を、そして着ている藍色のコートを見つめた。
「昨日、私がコートを縫い直したと言いましたよね」
私は、彼が着ているコートの襟元にそっと触れた。
「昨日までのコートは、呪いを『封じ込める』ためのものでした。でも、私が昨夜縫い直したこのコートの糸は……あなたの内側にある呪いを吸い上げ、それを細かく解きほぐして、無害な『熱』や『光』に変換して外へ放出するように縫い上げてあるんです」
私がそう言ってコートを指差すと、シラス様はハッとして目を見開いた。
よく見ると、藍色のコートの表面、私が縫い合わせた糸の隙間から、極小の光の粒のようなものが、キラキラと海風に乗って空気中へと溶け出しているのが見えた。
「俺の呪いを、浄化して……逃がしているのか……?」
「はい。あなたの身体をブラックホールに例えるなら、このコートは、吸い込んだ呪いを安全な形に変えて外の世界へ還す『フィルター』です。……あなたが今まで一人で抱え込んできた国の呪いは、このコートを通して、海風と共に少しずつ、少しずつ世界へ還元されていきます。もう、誰も死にません。あなたも、死ぬ必要はありません」
私の指先から流し込んだ「彼を自由にしたい」という強烈な祈りの魔力。
それが、不器用なお針子の私にできる、最大の奇跡だった。
「……信じられない。俺は……死ななくて、いいのか……?」
シラス様は、震える両手で自分の顔を覆った。
「俺は、普通に息をして……誰かを傷つけることを恐れずに、生きていっていいのか……?」
「もちろんです」
私は、彼の冷たかった両手を、自分の温かい両手で包み込んだ。
「あなたは今日から、ただの『シラス』という一人の青年です。雪山になんて行かせません。美味しいパンを食べて、綺麗な景色を見て、誰かと一緒に笑って生きていくんです」
シラス様の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
彼は顔を覆っていた手を離し、まるで壊れやすい宝物を抱きしめるように、私をその腕の中に強く、強く抱きしめた。
「あ、あぁぁ……ッ! リディア……ッ、リディア……!」
彼の嗚咽が、波の音に混じって響く。
私を抱きしめる彼の腕は、もう氷のように冷たくはなかった。生きている人間の、力強く、温かい命の鼓動が、分厚い藍色のコート越しに私に伝わってくる。
「ありがとう……っ。俺を、呪いから……絶望から救い出してくれて。君は、俺の……運命の女神だ」
「女神だなんて、大げさです。私はただの、仕立て屋のお針子ですから」
私は、彼の広い背中に腕を回し、泣き笑いしながら答えた。
「でも、そのコートが少しでもほつれたら大変ですから。これからは一生、私に専属のメンテナンスをさせてくださいね」
「……ああ。喜んで」
シラス様は、涙に濡れた顔で、今までで一番美しい笑顔を浮かべた。
*****
その後、私たちは城には戻らず、王都の裏路地にある私の小さな仕立て屋へと帰った。
「いらっしゃいませ!」
「お預かりしていた上着、こちらでよろしいですか?」
カランカラン、と響く店のベルの音と共に、シラスの明るい声が店内に響く。
彼は王子の身分を捨て、素顔のまま、私の店の『看板店員』として働き始めたのだ。
呪いが消え、健康的な美しさを取り戻した彼の姿は、瞬く間に近所で噂となり、今では私の寂れた仕立て屋は、彼目当ての女性客や、噂を聞きつけた貴族の使いまでが訪れる繁盛店になってしまっていた。
「……ちょっと、シラス様。あのお嬢様たち、完全にあなたに見惚れてましたよ。服なんて見てなかったじゃないですか」
私が作業台から恨めしそうにジロリと睨むと、シラスは困ったように笑いながら私のもとへ歩み寄ってきた。
「シラス様、はやめてくれと言っているだろう? 今の俺はただの平民、君の助手だ」
彼はそう言って、私が縫っていた布の端を不器用な手つきで押さえてくれる。
彼が着ているのは、あの重厚な藍色のコートではない。彼がかつて夢見ていた通りの、風通しの良い白いリネンのシャツだ。
(藍色のコートは、夜寝る時や、外出する時のお守りとして大切に着てくれている)
「それに、俺が一番見惚れているのは、いつだって一生懸命に針を動かす君の横顔だよ、リディア」
「なっ……! ま、またそういう恥ずかしいことをサラッと言う!」
私が顔を真っ赤にして針で彼の手をツンと突こうとすると、彼はヒラリと避け、愛おしそうに私の目元にキスを落とした。
死を切望していた呪われた王子はもういない。
ここにいるのは、普通の幸せを噛み締め、私と共に生きていくことを選んでくれた、たった一人の大切な人。
「さあ、リディア。この仕事が終わったら、少し早めに店を閉めて、角のパン屋に行こう。君の好きなチェリーパイが売り切れる前に」
「もう、仕事中なのに……。でも、仕方ないですね。すぐ終わらせますから、待っていてください」
私はふんわりと笑い返し、再び針を動かし始めた。
私の糸は、今日も絶対に切れない。
私と彼の、温かく、永遠に続く幸せな運命を、固く縫い合わせているのだから。




