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森の入り口と思われる方へ進むにつれ、空気がわずかに変わっていくのを感じる。
湿り気を含んだ冷たい風が木々の間を抜け、枝葉が擦れ合う低い音が森の奥から響いてくる。馬の背に揺られながら、澪は静かに前を見つめていた。
蹄が雪を踏むたび、柔らかな音が続く。だがその音さえ、どこか遠くに吸い込まれていくようだった。
「レオンハルト様。」
彼の護衛だろうか、同じような鎧を着た騎士と思われる数人が栗毛の馬に乗って現れる。合流したことに緊張が緩んだのか手綱を持つレオンハルトの腕から力が僅かに抜けたように見えた。
騎士の1人がレオンハルトの馬に乗る澪に気付いて顔を訝しむ様に一瞬曇らせ、すぐに括り付けてあった荷物から外套を差し出してきた。
確かに今の澪といえばやや濡れた濃紺のブレザーの制服に襟元には緑と紺色のチェック柄のリボン、そして深い紺色を基調としたプリーツスカートと森に入るにはおおよそ似つかわしくない格好。
レオンハルトからは何も特に言われなかったけれど、そういえば馬に乗ってからは風などあまり感じなかったことを思えば彼が気を遣ってくれていたのかもしれないと澪はレオンハルトを見た。
彼の視線は森の奥へ向けられていた。
鋭く、周囲を見渡している。澪は外套を受け取り頭からすっぽりと身体を隠す様に包まる。
「……団長。」
前方を進んでいた騎士の一人が小さく声をかけた。
「どうした。」
低い声でレオンハルトが答える。騎士は馬を少し寄せ、道の脇を指さした。
「花です。」
澪もそちらを見る。
苔むした地面の隙間に、小さな花が咲いていた。その少し先には白い花。さらに進むと桃色の花が揺れている。
先程から見掛ける花は雪の残る大地において、森の奥の薄暗い空間で、淡く光を受けて精一杯咲いていた。
「こんな場所に……?」
別の騎士が眉をひそめる。
「森に花は咲くが……。」
「この並び方は妙だな。」
確かに先程から花は道沿いに続いているように見受けられる。点々と、まるで道を示す印のように。
レオンハルトは一瞬だけその花を見つめた。
森の中で花が咲くこと自体は珍しくない。だが、雪の残る道に沿ってこうして現れるのは不自然だった。
誰かの意図を感じる。
だが今は立ち止まっている余裕はない。
「警戒を怠るな、隊列を維持しろ。」
レオンハルトの短い命令に騎士たちは即座に返事をした。馬列はそのまま森の道を進もうとしたとき──
森の奥から、低いうなり声が響く。
空気が震え枝葉がざわめき、太い幹がきしむ音が続いた。まるで気をつけて、と警戒を促すように一気に静かだった森が騒がしくなる。
騎士たちの動きが何事かと僅かに止まる。
次の瞬間──
木々の奥で、赤い光が揺れたと思いよく見ると二つの目だった。燃える炭のように赤く、暗闇の中で不気味に輝いている。
「……魔獣!」
騎士の一人が声を上げた。
直後、森の奥から黒い巨体が姿を現す。
太い木の幹を押し曲げ、枝をへし折りながら突き進んでくる。重い足音が大地を揺らした。
「全員、速度を上げろ!」
レオンハルトの声が森に響く。
同時に手綱を引き馬を走らせた。馬が力強く地面を蹴る。蹄が泥を跳ね上げ、雪と落ち葉が激しく舞い上がる。続けとばかりに騎士たちも一斉に馬を駆けさせた。
森の静寂は一瞬で破れた。
枝が折れる音、蹄の振動。騎士たちの怒号。振り落とされないように澪は体勢を低くして馬にしがみつくように身を寄せる。
そして背後から迫る、魔獣の咆哮。
黒い巨体が木々の間を突き進んでいた。赤い目が、まっすぐこちらを追っている。
「振り落とされるな!」
レオンハルトが叫ぶ声に返事を返す余裕はなく。
馬は倒木を飛び越え、ぬかるみを踏み抜きながら進む。絡み合う木の根が足元に迫るが、器用に避けていく。
それでも魔獣は迫っていた。
「城まであと少しだ!」
前方を走る騎士が叫んだ。その言葉に、澪も顔を上げると木々の隙間の向こう。遠くに石の壁が見えた。
城門と思しき頑丈そうな建物、一目で町があるのだろうとわかる程に伸びた城壁。
けれどすぐ後ろから魔獣の咆哮が再び森に響く。
赤い目がますます強く輝いた。レオンハルトたち騎士団がいるとはいえ澪を守りながら森の中で戦うのは不利との判断なのだろう、身の安全を優先に森の中を駆け抜けていく。
森の出口が近づいていた。その瞬間、まるで何かに阻まれたように魔獣の動きが僅かに鈍った。
木々が途切れ、空が開けている。ひょっとして魔獣は陽の光に弱いのかもしれないと澪は頭の片隅でちらり考える。
城の外壁がはっきりと見えた。騎士たちはそのまま駆け抜けていき森の境界を越えた瞬間、空気が変わった。暖かな陽の光が燦々と降り注ぐ。
背後に聞こえていた魔獣の足音が突然に止んだ。森の影の中で、魔獣が立ち止まっていた。
赤い目だけがこちらを悔しいとばかりに睨んでいるがそれ以上近づこうとはしない。まるで見えない壁に阻まれているかのようだった。
騎士の一人が驚いた声を上げる。
「……止まった?」
魔獣はそのまま森の奥へとゆっくり後退していく。やがて黒い巨体は木々の影に飲み込まれ、完全に姿を消した。
森は再び静寂を取り戻す。澪は胸の奥に残る鼓動を感じながら、遠ざかる森を見つめていた。
あの花。そして、魔獣が止まった理由。
どれも説明がつかなかったけれどこれで一先ずは安心できると大きく息を吐き出す。
「城門まで行くぞ。」
レオンハルトが短く命じる。騎士たちはそのまま馬を走らせた。石畳の道に蹄の音が響く。
城門をくぐると、森の冷たい風は遮られた。次第に馬の速度を緩やかに落としていくことで恐怖と緊張で強張った体からも少しずつ力が抜けていくようだった。
そして目の前に広がる景色に思わず目を見張る程城壁に守られたこの場所は、まるで別の世界に足を踏み入れたかのよう。
道沿いに並ぶ石畳の街路はきちんと整備されており、踏みしめるたびに心地よい音が響く。その先に目を向けると、家々の屋根が赤や茶色で統一されており、煙突からはふわりと煙が立ち上っている。
道の両脇には、大小さまざまな店が軒を連ねていた。木製の看板には手描きで店名が書かれており、その一つ一つが温かみを感じさせる。果物や野菜、肉やパン、そして香辛料が並ぶ店先からは、様々な香りが漂ってきた。
商人たちの元気な声や、買い物をする人々の笑い声が混ざり合い、町全体に生気が満ちている。
澪はふと、通りを行き交う人々に目を向けた。彼らはどこか余裕を持って歩いており、騎士団の姿を見ると軽く頭を下げる者もいた。




