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北の果て──灰色の大地の端で、澪は湿った落ち葉の上に横たわっていた。


背中に触れる土は冷たく、体は鉛のように重い。息を吸うたびに胸がかすかに軋み、意識はまだ霧の中を漂っている。


周囲を取り囲むのは深い森、太い幹を持つ木々が密集し枝葉は幾重にも重なり合って空を覆う。昼間であるはずなのに、森の奥は薄暗く、光はわずかな隙間からですらも見える気配はほとんどない。


ただ時折気まぐれな風が枝を揺らす。そうして葉と葉が擦れ合う乾いた音が静かな森に響く。


鳥の声や小動物の気配は全くといっていいほど希薄でただ、土と腐葉土の匂い、湿った空気、そしてどこか遠くで流れるような森の息遣いだけが、澪の耳と肌に伝わっていた。


澪が倒れている目と鼻の先には倒木が横たわり、苔むした岩が点在する。地面には太い木の根が複雑に絡み、まるで森そのものが大地を掴んでいるかのようだった。


澪はまぶたを閉じたまま、ゆっくりと息を吸う。吐息すらも凍てつかせる様な冷たさにハッキリとしなかった意識が揺さぶられる気すら感じる。このまま寝ていたい気持ちと目を開けることでさえ億劫に思える──


だがそのとき、胸の奥に奇妙な感覚が広がった。

誰かに見られている。


はっきりとした視線ではない。森の奥、木々の影の向こうから、何かが静かにこちらを見守っているような気配。冷たい恐怖と、説明のつかない懐かしさが同時に胸を満たす。


その感覚に意識を向けた瞬間。


「……大丈夫か。」


低く落ち着いた声が、森の静けさを破った。人など来るはずもないと考えていた予想を裏切って聞こえた人の声に澪のまぶたがわずかに震える。霧の中に差し込む光のように、声だけがはっきりと耳に届いた。


ゆっくりとゆっくりと目を開く。

視界に飛び込んできたのは銀灰色の髪を肩まで伸ばした男だった。整った鎧を身につけ、均整の取れた体格をしている。暗灰色の瞳をした彼が膝をつき、静かに澪を見つめていた。


威圧感はない。だが、どこか揺るがない強さを感じさせる存在。本能的に敵ではなさそうだと理解するにそう時間は掛からなかった。


「……だ、大丈夫……」


声を出そうとすると、喉がひどく乾いていることに気づく。かすれた声がわずかに漏れる。男は小さく息を吐き、穏やかに微笑んだ。


「無理をするな。」


そう言って、ゆっくりと手を差し伸べる。反射的に握手でもするかの如く恐る恐る握った手はとても暖かい手だった。


森の冷たい空気とは対照的に、確かな体温が澪の指先へ伝わる。


「ゆっくりでいい。焦らなくていい。」


低い声が耳に染み込み、胸の奥で小さな波紋を広げる。指先に力を込めると、男の腕がしっかりと支えてくれて体を起こすと、視界がゆっくりと広がっていった。


湿った落ち葉。苔むした岩。倒木の影。そして、どこまでも続く深い森。枝葉の隙間から差し込む光が、地面にまだらな影を落としている。


「……ここ……どこ……?」


声はまだ弱かった。男は澪の腕を支えながら立ち上がらせる。


「立てるか。」


澪は小さくうなずく。


足に力を入れると、体がわずかにふらついた。だが男の腕がしっかりと支えてくれる。二人は倒木を避けながら、ゆっくりと森の中を歩き始めた。


雪と落ち葉を踏むたび、柔らかな音が足元で鳴る。絡み合う木の根を踏まないよう、慎重に歩を進める。


冷たい空気が肺に流れ込み、少しだけ咳き込んでしまったがその分不思議と僅かに楽に感じながら、スカートから露出した肌に触れる雪がそれほど冷たくはないことを気にしていると不意に。


「名前は?」


歩きながら男が尋ねた。澪は少し迷ったあと、答える。


「……澪。」


男はその名前を静かに繰り返した。違和感はなくそれが自分の名前であることを確信したものの本来あるはずの苗字など思い出せない。


「ミオか。」


音の響きが聞き慣れないとばかりに何度か小さく呟いた後で男は穏やかに名乗る。


「私はレオンハルト・ヴァルク。ヴェルディア王国における北の森を含めた領地を拝領している」


その名は森の静寂の中で不思議とよく響いた。聞き覚えのない国名と、耳に馴染む北の森という名称に澪の胸の奥がちくりと痛みを伴うことに違和感を感じて首を小さく傾げるものの思い当たる節がない。


森は相変わらず静かだ。だが先ほど感じた不気味さは、いつの間にか薄れむしろ、どこか優しく包まれているような感覚がある。


太い幹の影。苔むした地面。倒木の上。森のあちこちに、目には見えない気配が潜んでいる。それでも恐怖は湧かなかった。


まるで森そのものが、静かに見守っているようだった。


澪は深く息を吸う。

自分がなぜここにいるのか──まだ思い出せない。だが、不思議と恐ろしくはなかった。


隣にはレオンハルトがいる。

手慣れた様子で真っ直ぐどこかへ向かっている様子とと領地を管理しているような口ぶりからして、森には慣れているという印象を受ける。


そして何よりもその腕の温もりが、現実へと繋ぎ止めてくれている。澪は小さく息を吐き、もう一歩前へ踏み出した。


北の森の奥深く。

誰も知らぬ深い緑の闇の中で──

澪の新しい歩みが、静かに始まろうとしていた。


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