2-1
あれほど恐ろしかった森は、今は静まり返っている。
糸の壁は消え、城へと続く道だけが西日に赤く染まっていた。
だが——レオンハルトの腕の中の澪だけは、その光から切り離されていた。呼吸はある。温もりもある。
──それなのに、そこに「いない」。
力の代償。
そう結論づけることは、レオンハルトには容易かった。
だが、ガルドは目を逸らさなかった。
それは「失われた」ものではない。何かに留められているのだと──そう、思った。
森の入口で、馬に乗るために澪を護衛に預けようとした時だ。
「いたっ!」
彼女を受け取ろうとした騎士が、弾かれるように手を引いた。一行を守った結界が、今度は世界から彼女を遠ざけている。
変質する加護など聞いたことがない。力の暴走——そう考えるのが自然だろう。
けれど、何かがおかしい。
ガルドはさほど阻まれず、レオンハルトに至っては拒絶すらされていない。
(何が違うっていうんだ……?)
ガルドは、その問いを飲み下すように、わざとらしく明るい声を張り上げた。
「——ったく、鍛え方が足りないんじゃないか? 帰ったら特訓な。」
自分の手を見て呆然とする護衛の肩を軽く叩く。凍りついた空気を強引に動かす、いつもの調子だ。
そのままレオンハルトから澪を受け取ると、一瞬だけ指先に痺れに似た感覚が走った。騎士を弾き飛ばした暴力的な衝撃は、ガルドには牙を剥かなかった。
(……やっぱりな。)
「よっと……。ちゃんと食わせてたのかよ、レオン。」
軽口を叩きながら、ガルドは腕の中の澪を覗き込む。
「……ガルド。返せ。」
レオンハルトの声は、低く、地這うような響きを含んでいた。彼はガルドの腕から、奪い取るようにして再び澪を抱き寄せる。
その動作には、加護による抵抗など微塵もない。まるで最初から、彼女の魂がその場所を定位置と決めているかのように、しっくりと収まった。
それぞれが馬に跨る。
馬には、聖なる加護——もどきも、反応しない。
蹄の音だけが、沈み切った森に虚しく響く。
西日の赤に呑み込まれながら、一行は城へと帰路を急いだ。
澪を腕に抱いたままの騎行は一向に速度が落ちない。
護衛もガルドも、気を抜けば置いていかれそうなほどの速さだった。
(……おい、レオン。早すぎるだろ。)
ガルドは必死に馬を寄せながら、その背中を睨んだ。澪も休息は必要だが、容体は安定しているはずだ。そこまで急ぐ理由はなかった。
だが、レオンハルトの背中からは、刺すような殺気と、得体の知れない焦燥が立ち上っている。
それが、封じ込めていた記憶を鮮明に蘇らせた。
——見覚えがある。
それは、かつての二人にとって、唯一の陽だまりだった場所。レオンハルトの姉。
聖女として祭り上げられ、最後はこの森へ消えていった、その姿。
(……そうかよ、レオン。お前、今……アイツを重ねてやがるのか。)
目の前のレオンハルトは、腕の中の澪を抱きしめているのではない。かつて指の間からこぼれ落ちた「陽だまり」を、今度こそ離すまいとしている。
「……ハッ!」
さらに拍車をかける音が響く。
腕の中の澪を包む不可侵の障壁が、その焦燥に共鳴するかのように、吹き付ける風を無機質に切り裂いていく。
それは忠義でも慈愛でもない。
喪失を恐れる男の、身勝手で狂おしいほどの執着だった。
一行は、西日の赤に呑み込まれながら、城門へと続く最後の上り坂を、何かに追われるように駆け上がる。




