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魔獣の咆哮が、大気を引き裂く衝撃波となって吹き荒れた。雪原を埋め尽くしていた白陽花が舞い上がる。
その清烈な花弁が毒影の殻に触れた瞬間──じゅう、と肉を焼く禍々しい音が響き、異形の外殻を溶かし始めた。意味のない絶叫が、鼓膜を激しく震わせた。
「おい、解毒剤を出せッ!」
片腕で耳を押さえ、軽々と澪を横抱きにしたガルドが、護衛たちへ叫ぶ。
はっとした護衛が、震える手で解毒剤を溶かし込んだ竹筒を差し出した。
「お嬢さん、恨まないでくれよ?」
ガルドは竹筒の蓋を歯で跳ね飛ばすと、一気に中身を口に含んだ。すぐさま蒼白な澪の唇に己の口を寄せる。
礼節も、純潔も、今は捨てて。一刻を争う死の淵で、彼はただ「生かす」ことだけを選択した。
こくん、と澪の喉が微かに動く。
ガルドは二度、三度と同じことを繰り返した。
(……ったく、聖女の力が本人に効かねえなんて、どこの資料にもねえぞ。)
今は目の前の「毒」を追い出すことだけがすべてだ。
澪の瞼が、微かに震えた。
それを見たガルドが顔を離した瞬間、彼女は弾かれたように身を捩り、激しく嘔吐した。
「お嬢さん……!」
吐き出されたのは、死の臭いを孕んだドス黒い粘液。
それがガルドの衣服を汚そうとした刹那、パシッ、と空気が爆ぜ、粘液は虚空に弾かれて霧散した。
聖なる加護──そのはずだ。
「……おい、お嬢さん、しっかりしな!」
毒の核を吐き出したものの、澪の顔色は未だに紙のように白い。
背後では、毒影の悲鳴が光の中に消えていく。狂おしいほどの焦燥を瞳に宿し、雪を蹴立ててこちらへ駆けてくるのはレオンハルトだ。
その白銀の剣先には、たった今、毒影の眉間を貫き決着をつけた証である黒い血が滴っている。
ふいっと、魔獣が背を向けた。──救われたはずの背中は、振り返らない。そのまま深い森の奥へと淡々と歩み去っていく。
「……ミオ!」
レオンハルトが二人のもとへ崩れ落ちるように膝をついた。ガルドの腕から奪い取るようにして、ぐったりとした澪を抱き寄せる。
「おい、レオン。最悪の事態は逃れた。だが……」
ガルドが言い淀み、自身の汚れていない袖を見つめる。レオンハルトの視線もまた、澪の口元から霧散していった黒い残滓の「跡」に注がれた。
レオンハルトの眉が、険しく寄る。
「……どういうことだ。何が起きた、ガルド。」
「……分からねえ。弾けたんだよ、パシッとな。」
聖なる加護とは、慈しみ、包み込む光のはずだ。だが──それとは明らかに違う。目の前にあるのは、冷徹で無機質な「断絶」。
「レオン、様……」
意識の混濁した澪が、力なく彼の手を握り返す。その温もりは確かに人間のものであったが、彼女の周囲には、近寄る雪のひとひらさえも無慈悲に弾き飛ばす「遮断」が渦巻いていた。
(……聖女の力だと? 冗談じゃねえ。こんな、触れるものすべてを拒むような力が、救いなわけがあるか。)
ガルドは自身の指先に残る、微かな痺れを不快そうに振り払った。
「……とにかく、急いで城へ戻るぞ。」
レオンハルトは不安を圧し殺し、澪を強く抱きしめた。だが、その腕には救出の喜びよりも、いつか届かなくなる気がした。
────第一章 完。
ここまでお読みいただきありがとうございます。次章からは、王都の使節団と、澪を巡るレオンハルトの決断が描かれます。彼女の力が、何をもたらすのか。引き続きお楽しみください。




