快楽至上主義のあなたへ
その人が口を開くと、部屋の空気はいつも一段階だけ冷える。
エアコンの設定温度の話じゃない。
誰もが背筋を伸ばし、無意識に言葉を選び始める、あの感じだ。
彼は指摘が好きだった。
正確には、指摘している自分が好きだった。
資料の些細な言い回し、数字の並び、結論の置き方。
「ここが甘い」「考えが浅い」「その程度か」
言葉は滑らかで、切れ味もある。
ただし、その先はない。
若手が勇気を振り絞って聞く。
「では、どう直せばいいでしょうか」
その瞬間、彼の目がわずかに曇る。
そして決まって、答えにならない答えが返ってくる。
「自分で考えろ」
「それを考えるのが仕事だろう」
「そんなことも分からないのか」
部屋に沈黙が落ちる。
ノートを取る手が止まり、ペン先が宙で迷子になる。
学びは生まれない。
残るのは、上下関係の確認作業だけだ。
彼は忙しいのだと言う。
余裕がないのだと言う。
だから教える時間はないのだと。
だが実際は違う。
詰める時間は、いくらでも確保している。
声を荒げ、優位に立ち、相手が黙るまで続けるその時間だけは、なぜか捻出できる。
若手は夜、デスクに戻って資料を開く。
どこが悪かったのかは分かる。
だが、どう良くすればいいのかは分からない。
成長のための失敗ではなく、
怒られるためだけの失敗が積み上がっていく。
彼はそれを「鍛えている」と呼ぶ。
だが実態は、ストレスのはけ口を人に預けているだけだ。
自分の不安、焦り、満たされなさを、
立場の弱い相手に流し込んで軽くなっている。
組織は静かに歪む。
質問は減り、挑戦は消え、
無難で何も生まないアウトプットだけが量産される。
それを見て彼は言う。
「最近の若いのは主体性がない」
誰も教えず、誰も導かず、
それでも自分は上に立っているつもりでいる。
人を育てられない者が権力だけを握ったとき、
そこに残るのは空洞だ。
やがて優秀な人間から去っていく。
何も言わず、静かに。
彼の周りには、反論しない人間だけが残る。
それを忠誠と勘違いしたまま、
彼は今日もまた誰かを詰める。
気持ちよくなるために。
何も生み出さない、その一瞬の快楽のために。




