第1話 書庫の朝
書庫の朝は静かだが、完全な無音というわけではない。
人の声より紙や革が擦れる音のほうがよく響き、外の通りを歩く足音も、厚い壁に遮られてここまでは届かない。
机に向かい、古い写本を開く。
背表紙は割れ糸も弱っていて、このまま扱えば崩れてしまいそうだったので、まずは綴じ直しから始めることにした。
「……これはだいぶきてますね」
独り言のように呟きながら道具を揃え、針を通して糸を締める。
紙が裂けないよう力は入れすぎず、指先に伝わる紙の繊維の感触を確かめながら、少しずつ進めていく。
この作業だけでかなり時間を使う。
それでも嫌いではなく、同じことを落ち着くまで繰り返していると、頭の中まで静かになっていく。
「それ、今日中で大丈夫か?」
声をかけられて顔を上げると、同じ修復係の先輩が棚から本を下ろしながらこちらを見ていた。
「乾かす時間を含めるとぎりぎりですね。でも、半日あれば」
「相変わらず、見積もりが正確だな」
そう言って少し笑われる。
「無理そうなら言えよ。別日に回す」
「いえ、大丈夫です。糸も紙も、まだ素直なので」
「その言い方、好きだな。本を人みたいに扱う」
そう言われてほんの少しだけ口元が緩んだ。
修復係の仕事は地味だ。
破れた紙を繕い、外れた背を直し、焼き付けで文字を定着させる。
魔法は糊を早く乾かしたり、湿気を飛ばしたりする補助に使う程度で、ほとんどは手作業になる。
見た目が整えば、それで十分なことも多い。
文字自体に問題がなくても、魔力の巡りだけが乱れている場合もあるが、
そういう違いを気にする人は、ほとんどいなかった。
「先にこっちも見てもらえるか」
先輩が差し出したのは、別の写本だった。
「村の祝福契約だ。畑のやつ」
「……ああ、これですか」
受け取ってページをめくる。
畑の実りを安定させるための魔法で、昔は確かに効果があったらしいが、今ではもうほとんど効いていない。
「魔力切れ、ですよね」
「だろうな。術者もいない」
「それでも直すんですね」
「直すさ。効くかどうかは別だ」
先輩は当然のことのように言った。
祝福が戻ることは、誰も期待していない。
それでも契約文は直す。
こうした文書を放置した国が過去に滅びたという話だけは、誰もが知っているからだ。
ページをめくると、紙の状態は悪くなく、文字もきちんと読める。
それなのに読み進めるうちに、途中で手が止まった。
意味は分かるし、文章としても成立している。
ただ、行と行のつながりが、ほんの少しだけ落ち着かない。
「……ここ、後から足されてますね」
「どれ?」
余白に書き足された一文を指さす。
「更新の条文か」
「たぶん。でも、位置が少しだけずれてます。本来はここにあるはずなので」
「まあ、任せるよ」
それだけ言って、先輩は別の棚へ向かった。
写本を固定し、綴じ直しを終えてから紙を落ち着かせ、問題のページに戻る。
インク壺を手に取り、そっと魔力を流すと、インクがわずかに応えた。
音もなく文字が紙から浮き上がる。
誰かに教わった方法ではなく、昔から自然にやってきただけのことだった。
余白の条文を以前あったはずの位置へ戻すと、文字は静かに収まる。
読み直すと、引っかかりはもうなかった。
数日後、村から知らせが来た。
今年は作物の育ちが揃っているらしい。
「いい知らせだな。収穫の時期が楽しみだ」
「天気のおかげですかね」
「そうだろうな」
先輩は深く考えなかったし、自分もそれでいいと思った。
文字の位置を少し直しただけで、現実が変わるとは思っていない。
読みづらかったから直し、落ち着かなかったから整えただけだ。
それだけだと、思っている。
読んでいただいてありがとうございます!
初投稿なので、投稿設定など至らぬところがあるかもしれません…。
ファンタジーファンの一人として、面白い物語を書いていきたいので、ご愛読いただけると嬉しいです!
週に1話は投稿していきたいと思います!




