第10話-1 故郷からの旅立ち
旅立ちの日は、思っていたほど特別ではなかった。
朝の空気はいつもと同じで、工房の前の通りも普段と変わらない。
それでも、工房の戸を閉め、荷を馬車に積み込むという動作ひとつひとつが、妙にゆっくりになってしまう。
馬車の荷台に置いた鞄を、コーデはもう一度整えた。
何度も確かめたはずなのに手が離れない。
「……」
視線が自然と工房へ戻る。
作業台の角。壁際の棚。使い込んだ修復用のランプ。
特別な場所ではない。けれど、気づけば毎日ここにいた。
「忘れ物はないか?」
馬の手綱を握りながらアルスが振り返る。
「大丈夫です。……多分」
「“多分”は、あとで困るやつだね」
「そう言われると思って、三回確認しました」
「それで“多分”なのか」
ため息交じりに言われ、もう一度鞄を開ける羽目になる。
帳面。琥珀色のペン。簡易修復具。替えの衣類。
問題はない――はずだ。
一方で、アルスの荷は拍子抜けするほど少なかった。
小さな鞄がひとつ、それだけ。
「……その荷物で、本気ですか」
「本気だよ」
「王都に行くんですよね?」
「行くとも」
「……途中で何か必要になったら?」
「現地で買えばいい」
即答だった。
「足りなければ借りる。借りられなければ作る。作れなければ諦める」
「最後の選択肢、急に投げやりじゃないですか」
「案外どうにかなる」
肩をすくめる。
「生きるのに必要なものは、思ってるより少ない」
そう言い切ってから、少し考える素振りを見せて付け足した。
「君の分は多めに持っておくといい。最初は失くすからな」
「そんなに信用ないですか」
「経験談だ」
自信満々に言われると反論できない。
工房の前には、フリオと何人かの修復係が集まっていた。
仕事前の時間を割いて来てくれているのだろう。
「行ってきます」
コーデが頭を下げると、フリオは軽く手を振った。
「街は任せておけ。土産話を気長に待っているさ」
フリオの気のいい笑顔を見ていると、胸にのしかかっていた重しが取れる
これは戻る前提の短期仕事ではない。
一年半、あるいは二年。
「それじゃあ」
アルスが馬を促す。
馬車が動き出すと、工房は少しずつ遠ざかっていった。
⸻
街を出る前に、孤児院へ立ち寄った。
川沿いに建つその建物は、いつもと変わらない。
洗濯物が風に揺れ、開け放たれた窓から子どもたちの声が聞こえる。
「コーデ!」
気づいた誰かが声を上げ、あっという間に囲まれた。
「ほんとに行っちゃうの?」
「いつ戻るの?」
質問が止まらない。
「遠いけど、ちゃんと帰ってくるよ」
一人ひとりの目を見て答える。
「一年……長くて二年くらい」
その言葉に空気が少しだけ静まった。
院長は最初から事情を理解していたらしく、騒ぎには加わらず見守っていた。
「体だけは、大事にしなさい」
「はい」
「食事と睡眠を疎かにしないこと」
「……気をつけます」
「アルス様」
「うん?」
「この子を、よろしくお願いします」
「命までは保証しない」
一瞬の間。
「……冗談だ。たぶん」
院長は小さく笑った。
このやり取りに慣れているのだ。
孤児院を離れるとき、コーデは何度も振り返った。
建物も人も街全体が遠ざかっていく。
胸の奥に、静かな穴があいたようだった。
⸻
最初の宿泊地は、街道沿いの交易宿場町――ハルヴァ市。
城壁を越えた瞬間、空気が変わる。
露店の呼び声。馬車の軋む音。人の足音。
工房の街とは、音の量がまるで違った。
「保存契約付き! 三日もつ!」
「灯りの呪文、夜まで保証!」
呪文の詠唱が飛び交い、微かな魔力の波が広がる。
「……細かいですね」
思わず口をついて出た。
「そうだな」
アルスは平然と答える。
「食事用、保存用、照明用、暖房用。用途ごとに全部別だ」
「覚えるだけでも大変そうです」
「使う分だけ覚えればいい」
「それでも、管理は大変ですよね」
「だが誰でも使える」
アルスは露店の奥を指差す。
年端もいかない子どもが、簡単な呪文で灯りを点けていた。
「契約があるから……」
「そう。契約が“やり方”を肩代わりする」
アルスは歩きながら続ける。
「イメージ力も制御力もいらない。
その代わり、契約外のことはできない」
「火を灯す契約で、鍋は温められない。その逆も然りだよ」
コーデは、周囲の空気に意識を向ける。
「……この街、魔力が多い」
「溜まっている」
「工房の街とは、全然違います」
アルスは少しだけ口角を上げた。
「気づいたか」
「向こうは……魔法が少なすぎました」
「正確には、魔力が溜まらない」
魔力が多い土地では、契約が勝手に反応する。
古文書の修復では、それが致命的になる。
「だから、あの街に工房を作った」
「あの静けさは、意図的だったんですね」
読んでいただいてありがとうございます!
初投稿なので、投稿設定など至らぬところがあるかもしれません…。
ファンタジーファンの一人として、面白い物語を書いていきたいので、ご愛読いただけると嬉しいです!
週に1話は投稿していきたいと思います!




