魔が差す
常日頃からそう思っていたわけではない。たった今、突然、ふと浮かんだのだ。ソファに深く座り、背もたれ部分に頭を乗せて目を閉じている葛城を見て。
そんな所で寝ると風邪引きますよ、と軽く声を掛けてみると「ああ」とだけ返ってくる。最近遅くまで仕事続いてて先輩お疲れだもんなあ、と思いつつ、どうしても浮かんだ考えを振り払う事ができない。
どうしてもしてみたいわけではないけれど。
でも今ならできると思うとやらずにいるのは惜しい気がする。だってこれはある意味千載一遇のチャンスというやつではなかろうか。
シャワーを浴びたばかりの髪はまだ濡れており、頭からタオルを被ったまま晴香はそっと葛城の背後に回る。
「ちゃんと髪乾かせよ。お前の方こそ風邪引くぞ」
瞳は閉じたままなのにこちらの様子は丸わかりだ。晴香はそれに返事をする代わりに葛城の両頬に手を添える。
葛城が目を開く寸前、掠める様に口付けた。
珍しく葛城が目を丸くして驚いている。この人でもこんな顔をする時があるんだなあ、と晴香は暢気にそう思っていたが、驚いたままの葛城の口から「晴香?」と名を呼ばれた瞬間ドン、と心臓が大きく跳ねた。
「ぅ……あ……」
「おい」
「あああああああっ!!」
「待て待て待てこら逃げるな!」
「うわあああああちがっ、あの、今のは」
「だから逃げんなって!」
全身朱に染めて、頭の上のタオルを床に落としたまま玄関まで逃げようとする晴香であるが、それより先に葛城に腕を掴まれあげく腰から抱き上げられてソファの上に押さえ付けられる。
「お前」
「あーっ!!」
「うるせえな?」
ひとまず落ち着け、と葛城は晴香の鼻先を摘まんだ。ぐえ、と可愛げからほど遠い声が上がるがお互いそれを気にするどころではない。
「あのですね先輩!」
「おう」
「今のはなんて言うか――魔が差しました!」
「……おう?」
両手で顔を覆ってそう叫ぶ晴香に、葛城はポカンとしたまま言葉を失う。
「いつも上から見下ろされてるのにソファに頭乗せてる先輩なら逆の立ち位置だしこれだったらキスも自由にできるなってなんかそんなーっ!!」
「お前、俺とキスしたかったのか?」
「違いますけど!?」
「してきたじゃねえか」
「それは普段の報復です!」
キスを仕掛けてくるのは葛城からばかりだ。晴香からは恥ずかしくて出来ない、というのが一番だけれども、単純に身長差がありすぎるからと言うのもある。
「ただでさえ見下ろされて見下される感があるのにいっつも先輩のタイミングでされるのが悔しいからたまにはですね!? わたしからやり返してもいいんじゃないかなっておもったりしてしまったわけですよ馬鹿じゃないのーっ!? わたし、の、馬鹿ーっ!!」
そんな考えを抱いてしまった事も、それを軽率に実行してしまった事も。どちらも本当に馬鹿すぎる、と晴香は悶絶する。一方葛城の方と言えば、笑いを堪えるのに必死だ。可愛らしい理由というか何というか、と愛しさは当然あるけれどもそれ以上に可笑しくて堪らない。
「悔しがる意味がわかんねえな」
「先輩が無駄に大きいから……!」
「言ってくれたら俺はいつでも喜んで屈んだのに」
ぐ、と晴香は押し黙る。素直に言えるくらいならこんな状況に陥りはしない。
「とりあえずやり直しを要求する」
「え」
「あんなのキスに入るか」
「は?」
「あれはただの野生動物と人間の触れ合いだろ」
「まがりなりにもお付き合いしている相手を野生動物扱いは失礼の極みでは?」
「だからやり直しだっつってんだろうが。ほら起きろ」
そう言って葛城は晴香の体を引き起こすと自分の膝の上に跨がらせる。
「これなら身長差も問題にならないだろ?」
「……先輩の顔が近すぎなんですが……」
「顔近付けずにどうやってキスするんだよ」
「ええええとこれはどうしてもやる流れですか?」
「そのままヤってもいいけど」
「ううんなんだか意味合いが違いますね!?」
「こういう時だけ勘がいい」
いいからホラ、と葛城の掌が晴香の背を撫でる。
「お付き合いしている人間同士のキスの仕方は教えてやってるだろ?」
「言い方が卑猥です」
「調教してやっただろうが」
「よけいにひどい!」
うう、と半分涙目になりながらも、晴香は日頃教えられた通りのキスを葛城に仕掛けた。




