第5話 神殿の静謀
黎とリーネは、神殿の大扉前に立っていた。朝の光が石畳を白く照らし、厳かな静けさを漂わせる。
大扉には「聖印の間」と刻まれた文字がくっきりと彫り込まれ、周囲を固い石壁が囲んでいる。
「ここが、聖印石を保管する場所……」
リーネが小声で言う。彼女の手元には、昨夜の魔族の残滓を採取した小瓶が揺れている。
「高位神官以外は入れないはずだが……」
黎は警戒しながら扉に手をかけた。そこには簡単な符印が刻まれているだけで、魔法のように見えるが、実は神殿専用の起動式スキルロックだ。
「私が符印を解除しますね」
リーネは敬礼するように立ち、手のひらに小さな光を集めた。
それは魔法ではない。リーネのクラス「癒し手」のスキル《清浄の光》。瘴気を浄化し、不純物を弾く力を符印に送り込む。
――カチリ。
わずかな音と共に扉が開き、中へと誘った。
◇
空間はひんやりと冷え、薄暗い。
十字型に広がる廊下の中央には、祭壇のような台座があり、その上に大きな水晶が載っている。
それが神殿の核、「聖印石」だ。
「……これが、聖印石」
リーネの声には、緊張が混じる。
水晶は透明なはずなのに、中央部がうっすらと濁り、黒ずんだ線が走っていた。
「瘴気の染みだな」
黎が近づき、剣の柄の感触を確かめる。
「規模が大きい。これだけ汚れるには、強大な瘴気か、繰り返しの干渉が必要だ」
「実は昨夜、彷徨う瘴気に触れたとき――何かに見られている気がしたんです」
リーネが背後を振り返り、影を探すように目を走らせる。
「それが――魔族の刺客だったかもしれません」
「つまり、街の闇がここまで来ている」
黎は台座の周囲をぐるりと歩き、壁に刻まれた文様を指先でなぞった。
「この結界が完全に崩れる前に、原因を探さねばならない」
◇
廊下の奥、壁の奥まったアーチの下に、高位神官の執務室がある。
二人は互いに視線を交わし、足音を忍ばせて歩を進めた。
「ここからは――後悔するかもしれませんよ」
リーネが小声で囁く。
「後悔させるのは、あいつらだ」
扉を蹴り開け、黎は剣を帯に収めた。
中には高位神官・バイルドが、机に向かって背を向けていた。
彼はローブの縁についた聖印バッジに手を伸ばしている。
「その証拠を、ここで破棄したつもりか?」
黎の声に、バイルドは肩を震わせて振り返った。
リーネは小瓶を机に滑らせる。
「昨夜、森で採取した残滓です。魔族の刺客が襲来した証拠にほかなりません」
バイルドの目が一瞬、陰った。
「そんな……魔族は完全に滅んだはずだ。これは――痴れ者の戯言か?」
「いいえ、本物です。神殿の聖域が冒されつつあります」
リーネの声に力がこもる。
バイルドは拳を握りしめた。
「……汚れたか。いや、そなた――お前のせいではないのか?」
「私のせいではありません!」
リーネがついに声を荒げる。
「符印を守り、結界を保つのが私の仕事です! 壊れているのは、この神殿の内部、あなたの怠慢です!」
部屋に緊張が走った。
バイルドはまばたきし、頭を振った。
「……わかっておる。しかし、情報を外部に流すわけにはいかぬ。街に混乱が走る」
「混乱を恐れて見殺しにするのですか? この街の人々を!」
「それは……」
バイルドは言葉を切り、目を逸らす。
その瞬間、執務室の奥の壁に隠されていた扉が軋んだ。
「――気づかれたか」
低い、歪んだ声が響く。
そして、扉から現れたのは――刺客そのものだった。昨夜の魔族を思わせる、黒のローブに隠れた影。
バイルドは慌てて杖を手に立ち上がる。
「邪なる者よ……退け!」
だが、呪符を構えるより早く刺客は襲いかかった。
「バイルドさん!」
リーネが叫び、癒しの光を放った。
「《清浄の光》!」
符印が一瞬、澄み渡る。陰った聖印石にも光が差し込む。
刺客の動きがわずかに鈍る隙に、黎は前に躍り出る。
「《断界ノ理》」
一振りで刺客の腕を斬り落とし、続く斬撃で肩まで断ち切る。
血も音もなく、影だけが消えた。
室内に残されたのは、血の一滴もない静寂と、二人の動揺した視線。
バイルドは震えながら膝をついた。
「……なんたる……」
「何度も言うな」
黎は冷たく一言だけ吐き捨てた。
リーネは震える手をバイルドに差し伸べた。
「大丈夫ですか? 助かりましたね」
バイルドは呆然とそれを見つめる。
「……お前たちが、味方か?」
「私は神殿の者です。彼は……旅の剣士です」
リーネが答える。
バイルドは、かすかに目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
「……では頼もう。もう、隠し通せぬものを。そなたたちになら、すべてを託せる気がする」
リーネは黙って頷き、黎を見上げた。
黎も、初めて穏やかな目で神官を見守る。
(今夜から、本当の戦いが始まる)
黎は胸の内で呟いた。
夜明けの光の下、三人の影がひとつになり、神殿の奥へと進んでいった。