第4話 《聖印》の巫女と月下の影
夜のセフィルの町は、昼とは打って変わって静かだった。
人の声も途絶え、灯りはまばら。
街の外れにある宿の窓からは、かすかに風に揺れる木々の音だけが聞こえてくる。
黎はその窓辺に座り、月を見上げていた。
二千年前と変わらない夜空。
だが、ここに生きる人々も、町並みも、歴史もすべてが別物になっていた。
(……二千年)
目を閉じれば、かつて共に戦った仲間たちの顔が浮かぶ。
剣士、魔導具使い、拳闘士、そして癒し手。
(……リーネ)
ふと、今のリーネと昔の彼女が重なる。
面差しや立ち居振る舞いは違うはずなのに、なぜかふとした瞬間に“同じ匂い”を感じる。
(記憶や魂の転生――そんな話は信じるつもりはない。けど、もしも……)
考えかけて、黎は自分を笑った。
「何を、未練がましく」
彼は過去を切り捨てたはずだった。
この世界に戻ってきた理由もわからないまま、ただ目の前にあるものを斬るようにして生きている。
それでも、再会してしまったのだ。
かつての面影に、似た存在に。
そしてその夜、黎の元を静かに訪れたのは――
◇
「こんな時間に……?」
扉を叩く音がした。
開けると、神殿服の上にマントを羽織ったリーネが立っていた。
「悪い、起こしたか?」
「起きてました。というより……眠れなくて」
彼女の顔には少し疲れがにじんでいた。
昼間の森での出来事が、想像以上に精神にこたえていたのかもしれない。
「入っていい?」
「もちろんです。……その、あまり人に聞かれたくない話があって」
リーネが腰を下ろすと、部屋に静けさが戻る。
彼女は、少しの間ためらってから口を開いた。
「実は、最近神殿の《聖印石》が、少しずつ濁ってきているんです」
「……聖印?」
「神聖属性の結晶で、結界の核になるものです。瘴気や魔族の影響を受けると、色が濁るんですけど……」
「つまり、この街の“聖域”が、侵されつつある?」
「はい。魔族が完全に消滅した今、ありえないはずのことなんです。でも、現実に起きている」
黎は黙って聞いていた。
瘴気と聖印の異変――そして歪んだ森。全てがつながっている。
「……誰かが、意図的に何かをしていると考えた方が自然かもしれない」
「私も、そう思っています」
「他に、この件を知っている者は?」
「高位神官に報告しましたが、“気のせいだ”と取り合ってもらえませんでした。……むしろ、それ以来妙な視線を感じます」
「神殿の中に、敵がいる可能性もあるってことか」
リーネはこくりと頷いた。
「だから……あなたに相談しようと思ったんです。きっと、あなたなら何か知ってるかもしれないって」
「買いかぶりすぎだな」
「そうでしょうか? あなたが黙っていても……私には、わかります。普通の人じゃないって」
黎は軽く目を伏せた。
「……夜風が冷たいな」
話題を変えるようにそうつぶやき、窓を開けた。
そして、次の瞬間だった。
――す、と空気が変わる。
「伏せろ!」
黎の声が響いた瞬間、リーネは身をかがめた。
直後、窓を破って何かが飛び込んできた。
それは黒いローブをまとった細身の影。手には短剣が握られている。
「刺客……!」
黎が剣を抜くより早く、相手の刃が彼の喉元を狙う。
だが、その瞬間――空気がひとつ、切り裂かれた。
「遅い」
黎の手の中に、既に《虚ろなる剣》があった。
目にも止まらぬ速さで振るわれたその一撃は、刺客の腕ごと短剣を“断ち切った”。
呻き声と共に倒れ込む影。
血は出ない。というより、そこに“腕がなかったことになった”ように、空間がねじれていた。
「リーネ、下がってろ。こいつは……ただの刺客じゃない」
倒れた者の顔から、ローブのフードがずれる。
現れたのは、異形の顔。
人ではない。――魔族の気配を帯びていた。
「……やっぱりな。魔族の残滓どころじゃない。復活の兆しか」
黎は、剣を静かに振り払った。
そのとき、倒れた刺客の体が突如として黒い瘴気に包まれ、ぐずぐずと崩れていった。
「……自壊」
「そんな……!」
リーネが思わず口元を押さえる。
「情報を渡さないための仕込みか。連中の手口は昔と変わらんな」
「……本当に、何が起きてるんですか? この街に……世界に」
「わからない。ただ、今の一件で確信した」
黎は静かに、けれどはっきりと告げた。
「これは、偶然じゃない。何者かが動いてる」
「……戦い、が始まる?」
「始まりか、再来か。いずれにしても、これはもう“ただの旅”じゃ済まないかもしれないな」
リーネは、そっと彼の横顔を見つめた。
月明かりに照らされたその横顔は、どこか寂しげで、それでいて――強かった。
「もし……この街に、もっと危険が迫るのなら」
「?」
「私も、戦います。癒し手として、できることはあります」
「……無茶はするなよ。癒し手ってのは、本来そういう役目じゃない」
「でも、守りたいものがあるんです。私、この街が好きだから」
その言葉を聞いて、黎は微かに目を細めた。
(昔も、そう言ってたな)
仲間の中にいた一人の少女。
戦いを嫌いながらも、誰よりも前に出て仲間を癒していた少女。
(やはり……お前に、少し似ている)
けれど、名前を口にすることはなかった。
今の彼女は、今を生きる人間だ。過去とは違う。
それでも――彼の中の、何かが少しだけ動き始めていた。