第3話 異形の森と過去の面影
「ここが……“歪樹の森”です」
リーネが足元の草を踏みながら、木々の合間を進んでいく。
空はまだ明るいが、森の中は薄暗く、常に何かが揺らめいているような空気が漂っていた。
この森は、セフィルの街から北東にある半日ほどの距離にある。
数年前までは狩人たちも入っていたが、ある時期から“異形の影”が目撃されるようになり、立ち入りが制限された。
「獣じゃない“何か”がいると、村人が……」
「魔族の残滓かもしれんな」
「魔族、ですか?」
黎の言葉に、リーネは目を見張った。
「滅んだはずの……あの、二千年前に?」
「残りカスが地脈に潜んでいたら、こういう形で現れることもある」
「まるで……知っているような口ぶりですね」
「まあ、似たような連中を見たことがある」
リーネはそれ以上深くは聞かなかった。
昨日の話で、“この人にはきっと、過去に何かがある”と察していたからだ。
それに、問い詰めても答えが返ってこないことも、直感的にわかっていた。
(でも……なんだろう、この感覚)
リーネの中には、不思議な感覚があった。
出会って間もないのに、懐かしいような、心が落ち着くような感覚。
まるで、ずっと昔から知っていたような、そんな錯覚。
(この感じ、前にも……?)
◇
森の奥は、空気が違っていた。
木の幹がねじれ、地面からは黒ずんだ苔のようなものが広がっている。
「空間が歪んでるな。スキル干渉……いや、これは瘴気か」
「……何かが、近づいてきます」
リーネが小さくつぶやいた直後、音もなく“それ”は現れた。
人の形をしていた。
だが、腕は異様に長く、顔は崩れた仮面のようにのっぺらだった。
それは言葉もなく、ただ“そこにある”だけの存在。
「魔族ではない。けど……似てる」
黎は剣に手をかける。
(剣を使うまでもない、か)
次の瞬間、影のような存在がリーネに向かって跳ねた。
「っ……!」
「動くな」
黎が踏み出す。
風が一閃、影を切り裂く。
透明な剣が空を走った瞬間、“異形”は音もなく崩れ、地面に溶けて消えた。
リーネは呆然とその場に立ち尽くしていた。
「大丈夫か」
「……はい。すみません、また……」
「無理して動くな。今のはまだ小物だが、数が多いと厄介になる」
リーネはこくりと頷いた。
そのとき、森の奥から複数の気配が同時に押し寄せてきた。
(……来るか)
十体、いや十五はいる。しかも同時に――
「後ろに下がってろ」
黎がそう言い、剣を抜く。
その瞬間、大気がぴんと張りつめた。
リーネの目に映るのは、風も空気も断ち切るような緊張感。
透明な剣の刃が、まるで“世界”そのものを裂こうとしているように見えた。
「《断界ノ理》――境、斬り裂くは一閃の理」
その言葉とともに、黎が剣を振る。
一拍遅れて、森に風が走る。
何もない空間が切り裂かれ、そこにいた異形たちがまとめて“消えた”。
「……終わりだ」
もはや、“倒した”というより“なかったことにした”という表現が近かった。
リーネは、ただ言葉もなくその光景を見つめていた。
◇
森を出た後、リーネは静かに言った。
「あなた、本当は何者なんですか?」
「言ったろ。旅の剣士だよ」
「……でも、あの技。世界が……切れていた」
「スキルにはそういうものもある。珍しいだけさ」
リーネはそれ以上追及しなかった。
でも、彼女の中で、ある感情が芽生え始めていた。
――この人のことを、もっと知りたい。
ただ強いからではない。
救ってくれたからでもない。
それ以上に、“どこかで出会ったことがある”ような、そんな奇妙な懐かしさ。
(まさか……でも、そんなこと……)
「リーネ」
「はい?」
「剣を振るのは、嫌いじゃない。でも――」
黎は静かに空を見上げた。
「誰かのために振ると、失うものが多すぎる」
「……そうですか」
リーネは俯いたが、すぐに顔を上げた。
「それでも、私は嬉しかったです。今日、あなたが一緒にいてくれて」
風が吹いた。
そしてその風の中で、黎はほんの少しだけ目を細めた。
――かつての仲間の一人。
いつも前線で傷ついた仲間に手を差し伸べていた、優しい癒し手。
リーネの表情が、その人にどこか似ていた。
(……まさかな)
黎は頭を振った。
もう過去は、過去だ。
それでも、心の奥底に沈んだ記憶が、静かに波紋を広げ始めていた。