第39話 死は或いは鴻毛より軽し
もし、今の自分を捨てて望んだ自分になれるとしても、それは、今の自分を殺す、という事にならないだろうか。
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九州地方の奥、周囲を山に囲まれたその街は、かつては炭鉱の町として大きな賑わいを見せていた。現代では当時ほどの活気は無いが、それでも一度出来上がった街の構造というのは、長い時をかけても本質的には失われないようだ。ここで言う構造と言うのは物理的なものではない。この街の中でだけ我が物顔で蔓延る、常識、人間関係、空気感・・・。この街で生きていくには、それから抜け出すことはできない。
もちろん俺もその一人だ。この町の外には違った世界が広がっているということを理屈の上では知っているが、心の底では全く実感できていない。この町から離れて生きていくことはできないのだ。
俺の家はこの街の中で必死にその地位を保ってきた。地位と言っても大したものではないが、重要なのは弱者側にならないと言う事だ。一度でも下に見られたらどんなひどい扱いを受けるか分からない。そういう空気感のあるこの街では大切な事でもあった。家族の男の多くは土建屋、それでなくとも商工会や農協など、この街で立派とされる職場に就職する事を望まれている。中途半端な進路では途端に軽くみられる。一家の三男である俺も例外ではなく、色々と高望みをされた結果、この街の地方銀行の行員として就職した。だがそれで安泰と言うわけではない。最終的には、どんな職業についても、その後の立ち回り次第では地獄が待っているのだ。
「お前さぁ、何度言ったら分かるワケ?やる気ないって言うならいいけどさぁ!」
「自分の頭で考えてないから、こんな適当な仕事してるんだろ!?」
「お前は中学の時からどうしようもなかったもんなぁ!」
「周りのみんながどんだけ迷惑してるのか分かってんのか!?」
「お前が喋るだけで皆をイライラさせるんだよなぁ。悪いと思わないわけ!?」
また今日もこれだ。少なくとも1日に1回はこのように、上司に詰られる。頭の中はぐちゃぐちゃに混乱し、心臓は張りつめて息も苦しくなる。手のひらはべったりと汗に濡れ、しかし同時に寒気を感じる。毎日毎日同じだ。帰宅して、一人の時に考えると、上司の言う事はおかしいのではないか、自分は悪くないのではないか、と思うが、次の日いざまた怒られると、途端に頭が働かなくなり、やはり自分が悪いのでは、自分が間違っているのでは、としか思えなくなる。上司と言っても歳は近く、この狭い街では中学も高校も同じ。昔から高圧的な男だったが、今でも昔のことまで持ち出して俺の不出来さを強調してくる。そして彼の言う通り、俺の事を無能だと思っているのは他の同僚たちも同じだった。普段の言葉の端々からでもそれが分かる。なぜ自分は他の同僚のように上手くできないのか、自分はそんなに劣っているのか。そんな事をいつも思う。自分のそのような状況は、家族にも伝わっており、そうなると家族は俺の事を冷たい目で見る。虐められるような奴が家族だと、自分たちまで下に見られるじゃないか、何とかしろ、と。
「あーあ、お前も悪いと思ってんなら、早く死んで生まれ変わってみれば?最近流行ってる噂みたいにさぁ」
それは、普段ならごくごくシンプルな罵倒の言葉であっただろう。だが最近は少し違う。別の意味が含まれていた。彼の言う通り、この街で最近流行っている噂があるのだ。
自殺すれば理想の自分になって甦ることができる。
何とも馬鹿馬鹿しくて、悪趣味な噂だろうか。
だがこの町では、実際に人が変わったようにいい奴になったのを見た、という噂話が増えている。そんな噂が流れればどうなるか。俺のような虐めに会っている人間はこう言われるのだ。「無能なお前も、死ねば有能になって蘇られるんじゃないか」と。つまり無能な自分は死んでしまえ、と言われるのだ。
あまりにもひどい話だった。こんな事が許されるとはとても思えない。だが、毎日このような酷い虐めを受ければ思考力も低下する。本当に甦ることが出来るなら、一度死んで有能に生まれ変わった方がいいのではないか。そう思ってしまう事も何度もあった。
「もういいよ、俺は忙しんだからさっさと仕事に戻れ!」
上司は一通り怒鳴って気が済んだのか、俺を開放してくれた。俺は周りの嘲笑を含んだ視線を受けながら自席に戻る。と、上司が別の同僚を呼びつけた。
(彼か・・・)
俺は自分の事は棚に上げて、同情的な視線を投げかけた。予想通り、彼は先ほどまでの俺と同じように、上司に激しい叱責を受けていた。
この職場で、俺と同じように虐めの対象になっている人間がもう一人いる。それが彼だ。客観的に見て彼が仕事ができないとはとても思えないが、それでも彼はずっと虐められている。彼の存在は、俺にとっては親近感というか、自分一人ではないのだという励みになっていると思う。だがそう思う度に、虐められている人を見て安心するなんて自分は何て酷い人間なのだろうかと自己嫌悪に陥る。
それに、虐めを傍観するだけでも虐めだという話もある。だとすると彼が虐められるのを見ているだけの俺も彼を虐めていることになるのだろうか。でもそれなら、彼も俺が虐められているのを見ているだけだし・・・。そんな事を考えているとどんどん気分が落ち込んでくる。だから俺は、それ以上何も考えず、ただ目の前の仕事をこなしていくことにした。
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そんなある日、信じられない事が起きた。
虐められていたはずの「彼」が、変わっていたのだ。
俺が会社に来た時には既に彼は何人もの同僚と楽しそうに世間話をしていた。その日の彼の仕事は実につつがなく、順調に、誰かに怒られるどころか、誰もが彼と楽しそうに仕事をしていた。
何が変わったのだろう。見た目はいつもの彼の通りだ。心なしか顔の血色が悪く白く見えるが、それくらいだ。だがその立ち振る舞いが違うのか、普段の暗い様子は全くない。
だが俺は信じられなかった。彼を「彼」として受け入れている周囲の人間がだ。確かに今日の彼は今までと違うかもしれない。会話も楽しく、仕事も頼れるかもしれない。でもそれは、今日の彼は彼じゃないという事ではないか。見た目が同じでも別の人間じゃないか。どうしてそのまま受け入れられるんだ。
そしてもう一つ、別の暗い感情が芽生えてくる。今まで俺や彼が虐められるのは、俺たちが悪いんじゃない、虐めなんてする周りが悪いんだと信じたかった。だが、彼が変わったことでこうも周りの態度が違っているのを見ると、どうしても考えてしまう。俺がもっと態度や仕事ぶりが違ったら、俺も虐められないのだろうか。虐められるのは、俺に原因があるのだろうか・・・と。
そんな事を考えながら様子を見ていた俺に、上司が近寄ってきて肩を叩き、こう囁く。
「今日のアイツ凄いな。もしかして本当に自殺して甦ったのかな?まさかなぁ?」
上司自身も半信半疑という感じだが、それでも、こう続ける。
「やっぱりお前も自殺してきた方が、みんな喜ぶんじゃないか?お前のためにも、さ」
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数日経った頃、この町はすっかり変わってしまった。「彼」だけではなく他にも実例が現れたと、まことしやかに噂が広がっていた。そうするとどうなるか。いよいよ俺の死を望む者は多くなった。上司のように直接的に言う者もいるし、他の同僚のように陰で面白おかしく揶揄する者も多い。家族ですらそうだ。噂が広がるにつれて表向きこちらを気遣っているような態度を示してくるようになったが、その言葉の端々からこう言っているのが分かる。「お前も今のままだと辛いだろう、あの噂を試してみたらどうだ。お前が有能になれば、家族も皆幸せになれるんだ」と―――。
彼らは俺自身の事を欠片も気にかけてはいない、俺という人間が消えて、その場所に全く別の彼らにとって「有能な」人間が置き換えられればそれでいいと思っているのだ。自身のあまりの存在の軽さに眩暈がしてくる。
そして、そんな風に思われている人がこの街では自分以外にも何人もいる。それもこんな街では嫌でも耳に入って来る。今となってはこの街は、多くの人が誰かの死を望み、そしてそれが前向きで良い事のように語られている。信じられない醜悪さだった。
だが、俺はそれに怒りを覚えることも、このおかしな街から逃げ出そうと思う事も、何もできないほどに疲れ果てていた。今までつらつらと並びたてたことは全て頭で考えたことだ。心はもうどうしようもなくある誘惑に向かって突き進んでいた。俺が出来ないのが悪いんだ、俺がみんなに迷惑をかけているんだ。俺が生まれ変われば、みんなが幸せになる・・・。
頭では間違っていると思っていても、心と体はとある場所に向かっていた。街の外れ、山奥の廃病院。生まれ変わりの噂では、この場所を使うのが良いという話もあった。管理も施錠もされていないその廃病院は容易に屋上まで登ることができた。
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前後の事はあまり覚えていない。俺は全身の痛みが夢なのか現実なのかも分からない、曖昧な意識のままで地面に倒れていた。仰向けになった体を動かすことはできない。山の木々の間から月が見えているが、その視界もだんだんとぼやけてくる。その視界の中に、不意に人影が現れた。月の明かりに照らされたのは、銀髪の美しい少女。彼女が俺に厳しい表情で声をかけてきたのは分かったが、俺の意識はそこで途切れた。
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そして次に目覚めた時、俺、安東丈治は、アピリスという名の少女によって、命を助けられたことを知った。その代償としてゾンビとなって。




