第五章 魔王は黒いネコ
翌日は石づくりの円環校舎を回った。北から東回りで南に向かう。ひとつの都市だけあってさまざまな人とすれちがう。商人。農夫。漁師。子ども。先生。貴族や軍人はいない。魔法つかいのかっこうをした子どもはいる。しかし大人の魔法つかいはいない。
魔法地区が右の窓に見える。最初は図書館と学生寮が見えていた。しかしすぐ森ばかりになった。
左の窓の外にたえず海が見える。南にさがるにつれて海は波が高くなった。春の陽気はうららかだ。海が荒れる要素はない。なのにどんどん海がうねる。
右の窓の森が切れた。魔法地区内に円形劇場が見える。石づくりの野外劇場だ。屋根はない。劇場の奥に森。背の高い木々がうっそうと繁る。そのせいで劇場の向こうは見えない。
次にあらわれたのは灯台だ。灯台も魔法地区に建っている。灯台のところまで来ると魔法地区の全貌が見わたせた。円環校舎の四割を南下したはずだ。
ひとつの窓の前でキャスが足をとめた。灯台がすぐ横に見える窓だ。キャスの目は南の海に向けられている。
「ミルトムント近海は魔の海と呼ばれています。くれぐれも海に近寄らないように。どんなにいい天気でもこの海は危険です。海水浴をするなら船が着いた砂浜でしてください。あそこはゆいいつ安全な海です。遠浅で貝もとれます。水着は服店で買えばよろしい。挑発的な水着は買わないように。学園指定の水着はおヘソが出ません。防具屋もありますがヨロイで海に入るのは危険です。甲冑水泳の教授に丸めこまれないように。いいですね」
生徒たちは全員北の窓から魔法地区を見たままだ。ニックも灯台のわきから魔法地区の中心をのぞく。湖が見える。湖のほとりに古城。古城の横には庭園。迷路状に刈りこまれた植えこみが見えた。迷路の中心にハート型の花壇がある。あれが迷路のゴールらしい。
古城のうしろが山。山の上からひとすじの滝が湖に水をそそいでいる。湖から真南に川が流れて来た。川は円環校舎の下を通って海へとくだるようだ。湖にはボートが浮いている。カップルが三組ボートの上でいちゃついていた。
円環校舎のここからだとボートの上がよく見える。本人たちはどこからも見られてないと信じているようだ。男の子と女の子の顔が重なった。見ている生徒たち全員が息を飲む。
やっとキャスが生徒たちの視線に気づいた。ふり返る。キャスのひたいに青すじが立った。
「まあ! なんてふしだらな! あなたたちはあんな行為をしてはいけませんよ! 断じてなりません! とうていゆるしません! あたしですら恋人がいないのに! なんてことでしょ!」
キャスは不美人ではない。だが硬すぎるようだ。オールドミスの女教師になるタイプだろう。
円環校舎をさらに南下すると川にさしかかった。湖を流れ出た川だ。円環校舎の南のはし。元は石造りの橋が川にかかっていたらしい。石橋の上に円環校舎を建てたようだ。校舎の下を川が流れて行く。ニックの靴底に川の流れがつたわる。魔法地区内に見える川は水量が多い。だが流れはゆるやかだ。魔法地区内の川に桟橋が見おろせた。古い木の桟橋だった。円環校舎が建てられる前は海からその桟橋に船をつけたのだろう。灯台もいにしえの遺物にちがいない。現在は桟橋も灯台も古びていてつかわれてないとわかる。
キャスが全員の目を真南に転じさせた。川が海に流れこむ地点で海の荒れは最高潮にたっしている。真南の海は怒濤の荒れ具合だ。近づけと命令されても近寄りたくない。どうしてこんないい天気にここまで荒れる?
「ひゃあ!」
オメガとケイトが窓から飛びのいた。建物の中は大丈夫。なのに海がおそろしいらしい。
ヨゼフが鼻で笑う。
「けっ。コンチクショウの臆病者」
ウィンダミアが腰の剣に手をかける。
「なにを!」
アリエスがウィンダミアの手を上から押さえた。
「やめなさいよウィンダミア」
女教師のキャスがヨゼフとウィンダミアを交互ににらむ。
ヨゼフとウィンダミアが同時にそっぽを向いた。
「フン!」
この海を見れば魔の海の名が納得できる。そんな荒れる海だ。ただオメガとケイトは特に臆病らしい。まだひざをガクガクとふるわせている。
南のはしから西回りに北へ向かう。
北に進むにつれて海の荒れがおさまって行く。魔法地区に目をやると高い木のならぶ森が湖をかくしはじめた。滝の落ちる山の側面は見える。鉱山跡らしく山にところどころ穴があけられていた。そのふもとが教会だ。教会の横には柵でかこわれた墓地が見える。石の墓がこけむしていた。五百年のあいだ誰も葬られていないのだからむりはない。
円環校舎の一周を終えると日暮れだった。キャスが解散を宣言する。
解散したあとニックたち七人で料理店に入った。
料理を注文したアリエスが口を切る。
「魔法地区の女子寮はガラガラでね。わたしとヒルダとケイトは個室なの。男子寮はどう?」
ウィンダミアが目を見ひらいた。うらやましい。そんな顔だ。
「いいなあそれ。おれなんかこいつらといっしょだぜ。せまいのなんの。ブレーデンはさ。ベッドに足がおさまらなくて床で寝てる。これから夏が来ると思うといやになるぜ。でもよ。なんで女子寮はガラガラなわけ? 女子がすくないってわけじゃねえだろ?」
「魔法地区の寮は学生が自主管理だからよ。風呂掃除やトイレ掃除もみんな生徒が交代でやるでしょ? 円環校舎の寮は料金が高いけど大人がベッドメイクまでしてくれるもの。ミルトムントに来る女の子はたいていお金持ちなの。風呂掃除なんかとんでもないって女の子が多いのよ」
「なるほど。金髪のヨゼフが寮にいないわけがわかったよ。快適さもカネしだいってか」
そのときなぜか六人がいっせいにニックを見た。ニックはうろたえる。
「な。なんだよ? どうしてみんなでぼくを見るわけ?」
ヒルダが口をひらく。
「お兄ちゃんお金持ち。あたしたち誰も心配してない。学費がありあまってるのはお兄ちゃんひとり。お金持ちもお兄ちゃんひとり」
「ぼくが一番の貧乏人だってことかい。そういやそうかも。そうだな。さっき学生課の貼り紙におもしろそうな仕事を見つけたんだ。飼い主の留守にネコをあずかる仕事だってさ。報酬は安いけどエサをやるだけでいいって書いてあった。寮長はペット可って言ってたろ。ウィンダミアたちがゆるしてくれるならその仕事を引き受けようと思うんだけど?」
ブレーデンが手をあげた。
「わしネコ好き。やるべきじゃニック」
オメガとウィンダミアもうなずく。
ヒルダが席をはなれた。ニックの手を取る。椅子から立たせた。
「どうしたんだいヒルダ?」
「あしたまで待て。その仕事はあしたまで残ってる」
ヒルダが店の外にニックを押す。ニックはヒルダの言葉の裏を考える。
「あしたまで待つ。するとその仕事はもうないかもしれない。そう言いたいのかい?」
ヒルダがうなずく。
「そんなの言ってない。お兄ちゃんは大きらい。食べすぎて幸せになれ」
「うーん。食べるものがなくなって飢え死にするなってことか? たしかにそいつはこまるよな」
アリエスも早く行けと目くばせをした。ニックは学生課へと走った。
「この仕事。ぼくにやらせてください」
息を切らしたニックは貼り紙を手にお姉さんにつめよる。学生課のお姉さんがノートを手に取った。
「ネコの世話係と。ああ。それはドールさんの依頼だわ。ドール・ドルイド。歴史資料整理課の助手よ。黒髪の若い男の人。三ヶ月の臨時雇いの助手ね。歴史資料整理課で聞けばわかるわ。交渉は本人とどうぞ」
ニックは歴史資料整理室でドールを見つけた。来るときの船で見かけた黒ネコを抱いた青年だった。やさしげな瞳をしている。気は弱そうだ。肩に黒ネコをのせていた。
「そうですか。ニック・ニーアブくんがあずかってくれると。私はしばらく出張でミルトムントをはなれるんです。できれば今夜からあずかってもらえるとありがたいのですが?」
「ええ。いいですよ」
ためすようにドール助手が黒ネコをニックの肩にのせる。黒ネコは一瞬だけ身を固めた。しかしすぐニックの肩の上で力をぬく。百年の友のように舌で毛づくろいをはじめた。
「ネコもきみを認めたようです。エサは雑貨店で売っているネコのエサでけっこうですから。では十日間おねがいします」
ドールが十日ぶんのエサ代をニックの手にのせた。
やったあ。ニックは胸の奥で喜びの声をあげた。生まれて初めておカネがかせげそうだ。
ネコを肩に部屋を出ようとしてニックはふと気づく。
「そういやこのネコ。名前はなんていうんです?」
たとえ十日でも名前がわからないとこまる。
ドールが顔をくもらせた。
「名前はわかりません。私もあずかっただけなのです。そのときが来れば解放してやるようにと。ですからニックくん。あなたのお好きな名前でお呼びください」
「そ。そうなんですか」
妙な話だとニックは思った。大事な人からあずかったネコなのだろうか? おカネをはらってまで世話をさせようとするからにはそうなのだろう。しかしそんな大事なネコの名前がわからない? それっておかしくないか?
ニックが考えこむとドールが問いかけて来た。
「ニックくんは新入生ですよね? 魔法学科ですか?」
「はい。そうです」
「ふむふむ。私も勉強をしましたよ。魔法学科で魔法の修業をつみましたねえ。けっこうつらい修業でした。いたずら好きな幼なじみふたりのあと始末よりは楽でしたけどね。魔法つかいとして卒業証書をもらったときは感激しましたよ」
「あれ? 魔法つかいにはなれないって?」
「はい。いまはそういうことになってます。けど卒業証書では魔法つかいと認定されるんですよ。つかえるかつかえないかは別にしてね。だから私は魔法つかいということになってます。では。はーっ! たあっ!」
ドールが両手を前に押し出した。
「なんですかいまの?」
「幸福になれる魔法をかけてみました。きみの行く末には多難な未来が見えます。困難な運命にまけず幸福になってください。きっと不思議な出会いがきみを待ってるはず。迷わず仲間を信じて進むこと。道はきっとひらけるでしょう。ではまた十日後に」
ニックの人生はすでに多難だ。母のメアリも祖父のムスタキも殺された。これ以上ひどい運命はこまる。しかし道がひらけるのはありがたい。ニックは気がかるくなった。ウィンダミアたちと出会えたのも大きい。もしヨゼフたちしかいなければと思うとへこんでしまう。
ニックは部屋を出た。ニックと入れかわりに学園長が歴史資料整理室に飛びこんだ。すぐに学園長の怒鳴り声がニックの耳をたたく。
「どういうつもりだねドールくん! また出張だなんて! これ以上戦災孤児をひろって来てもらっちゃこまる!」
ドールの声も聞こえる。
「戦争の歴史を書くには当事者から話を聞くのが一番。そう教授がおっしゃっておられますが?」
「十歳前後の子どもに戦争の全貌がわかるか! うちは慈善事業じゃないんだ! これ以上タダメシを食うガキどもを増やすな!」
ニックは戸に耳をつけた。気はとがめる。しかし気になった。サラサラと紙にペンを走らせる音が聞こえる。
「ふむふむ。学園長はもうけがへるから子どもたちをひろって来るなと命令した。戦災孤児をやしなう。その名目でアストラル王国の王さまから多額の寄付をもらっているくせにと」
「こらドール! 何を書いておる!」
「何って報告書です。この歴史資料整理課はアストラル王国の歴史編纂室と連携してます。ここの資料はアストラル王国にもおくられる。学園長がわれわれの活動を妨害したと一筆残しておくべきでしょう。アストラル王国から苦情が来たときのために。今度のリングラスト王国対ラテマグナ大公国の戦争の詳細が書き足りない。そんな苦情が来たときのために」
「うぬぬ!」
学園長のうなり声。つづいて戸に手をかける音が聞こえた。ニックはあわてて戸から顔をはなす。回れ右をした。戸に背中を向ける。
バン。戸がひらく。学園長が飛び出して来た。ニックのことなど目に入らない。頭から湯気を立ててドスドスと歩き去る。呪いの言葉をぼやきながら。
「ドールのやつめ! かならずクビにしてやる! クビにしてやるぞぉ!」
ニックは心配になって歴史資料整理室をのぞいた。ドール助手が肩をすくめるのが見えた。やれやれ。そんな顔だった。落胆した様子はない。声のかけようがなくニックはその場をはなれた。
ニックは次にネコのエサを買いに雑貨店に足をはこんだ。黒ネコはおとなしくニックの肩で寝そべっている。
ニックは棚からネコ用のエサを取った。店番のおじさんのところへはこぼうとする。
そのときネコが耳元で鳴いた。にゃーと。ところがニックには聞こえた。ネコがしゃべったように。こんなふうにだ。
「そのエサはまずい。食いたくないのう」と。
「えっ? このエサ。まずいの?」
ニックは耳の横にのるネコを見る。ネコがおどろいた目でニックを見返した。
「そなた。われの言葉がわかるのか?」
ニックも信じられない。しかしちゃんと聞こえる。ネコの声が。ニックはうなずいた。
「なぜかは知らないけどちゃんと聞こえる。きみ。名前は?」
「われか。名前はまだない。われは魔王じゃ」
「ま。魔王? 何それ?」
そのとき雑貨店のおじさんがニックとネコをにらんだ。ネコがニックをうながす。
「ここで立ち話はまずい。店を出るがよかろう。そなたの手のエサは買わんでよいぞ。われはそんなエサ食いとうない」
ニックは声をひそめる。
「じゃ何が食べたいわけ?」
「うまいものがよいのう」
「うまいものって?」
「肉じゃ。血のしたたるやつを所望する」
「肉はだめ。高くて買えない」
「そなたは貧乏人かえ。弱ったのう。ではそなたのメシでよい。とにかくまともなものをよこせ。われは魔王じゃぞ。ネコのエサなどこりごりじゃ」
ニックは取りあえず料理店にもどる。自称魔王の黒ネコを肩に。
ニックのたのんだ料理はすでにテーブルにはこばれていた。まだ冷めてない。自称魔王と交互に料理を食べる。六人の全員が自称魔王のネコを抱きたがった。自称魔王は全員の料理を味見する。しかしニックの見たところ女の子に抱かれるのがいやそうに見えた。
全員が食事を終えた。料理店を出たニックはネコに顔を向けた。
「きみって女の子はきらいなの?」
ネコが耳元でささやく。
「われはメスじゃ。かわゆい男の子がよいのう。女は好かん。そなたはなかなかよい。美形である。筋肉男はだめじゃ。男はやはり美少年よのう。しかしそなた不思議な男じゃな。ネコと話ができる人間などこの五百年会ったことがないぞ。どういう理由じゃ?」
「ぼくにわかるかい」
ホビットにもらった木彫りのアヒルがポケットに突っこんだままだ。ニックはそのせいだと気づかない。ネコも気づくわけがない。
「わからぬのか。まあよい。こうして誰かと話すのは五百年ぶりじゃ。われはこよい楽しいぞよ。今晩は寝かせてやらぬから覚悟するがよい」
「ええーっ。そんなのないよぉ」
ニックは寮にもどるといちおう寮長の許可をえた。ネコを部屋に入れてもいいかと。責任を取れるならいい。寮長がおおようにうなずいた。ざっくばらんな性格らしい。
ニックたち男四人が部屋に入る。さすがに円環校舎の二十キロ踏破は効いた。四人とも服のまま横になる。ゆいいつ疲れてない存在がいた。自称魔王の黒ネコだ。ニャーニャーとベッドのニックに話しかける。
ニックはうつらうつらしながら答えた。
「しばらく休ませてよ。風呂にはあとで入るからさ」
「われも風呂に入れるのじゃぞ」
ニックはおどろいた。ニックは首だけ起こす。
「えっ? きみってネコのくせに風呂に入るの? ネコって水がきらいじゃ?」
「われはネコではない。魔王じゃ。しかも女の子じゃぞ。風呂に入らずしてどうする? われはきれい好きじゃ」
「お。女の子がぼくといっしょに入るわけ? それってまずくない?」
「いまはネコじゃ。しかも生まれてから五百年はすぎておる。祖母と風呂に入るようなものじゃ。気にするでない」
ニックは黒ネコを見た。五百歳の老猫とは思えない。若々しい感じがする。
「いや。気にしそうなんだけど。自分で入ってくれない?」
「われの手では洗髪ができぬ。苦しゅうない。われの毛をあらう栄誉をそなたにあたえる」
「うーん。ま。いいか。あとで入れてやるよ。ところでさ。魔王ってネコの王のこと? 化けネコ?」
「バカ者! 魔王は魔王じゃ。われは世界一おそれられた魔物の王なるぞ。そなたは何も知らんようじゃな。よろしい。われが説明してしんぜよう。そもそも魔王になるにはふたとおりの道がある。修業で力を高めて一段ずつ階段をのぼる者。これは努力型じゃな。もうひとつは生まれつき魔力がでかい者。われはこっちじゃ。われは生まれたときすでに魔王じゃった。魔王になろうとしたわけではない。なりたかったわけでもない。有無を言わさず魔王じゃった。生まれた瞬間に誰も文句をつけえぬ魔王じゃったんじゃ」
「あのうネコさん。なんで魔王だってわかるのさ? 生まれてすぐでしょ?」
「ふふふ。あとで聞いた話じゃ。実のところはわれも知らん。われがあげた産声は森をひとつ吹き飛ばしたそうじゃ。われの両親や家族も消し飛んだらしい。われの産声で吹き飛んだ森跡はえぐれたまま水がたまった。そこは湖になったと聞いておる」
「ぷっ。うそばっか。一瞬信じたぞそれ」
「信じぬも信じるもそなたの勝手よ。そんなわけでわれは両親の顔も知らぬ。われが生まれた森の住民はわれの産声で灰になったそうじゃ。厄災をのがれたノームどもがわれをひろった。ノームは地下が住み家じゃからの。われが夜泣きをするたびにノームの家がこわれた。身体の弱いノームも死んだと聞いておる。厄介な赤子であったろうな」
寝ぼけつつニックはたずねる。
「ふうん。でもさ。ノームはどうしてそんな厄介な子を育てたの?」
「ひとつには母性本能じゃろう。赤子を見れば可愛いと思うように生き物はできておる。魔物とてそれはかわらぬ。もうひとつは力の強い者を味方にしておけば敵に襲われにくい。実際われはそのあと人間を殺すように教えられた。そなたたち人間は竜を見れば殺すじゃろう? われら魔物にとって人間こそ悪竜にほかならぬ。右も左もわからぬわれは人間が仲間を殺す悪者と教えられた。そしてそれはそのとおりじゃった。人間はわれら魔物を見ると問答無用で殺した。魔物にも心根の優しい者はおる。しかし人間はえらばずに殺した。われもまた人間をえらばす殺した。仲間を殺す悪者は全滅させねばならぬ。そう思いながらの。のちにわかったことじゃが五百年前に暴竜エグザクサーがあらわれたのじゃ。人間はどうしてもエグザクサーを退治できぬ。エグザクサー一匹で人間は全滅するかも知れん。すべては魔物のせい。魔物さえ全滅させればこの世界は平和になる。そう考えた人間どもは魔物全滅にのり出した。エグザクサーと関係のない魔物たちまで殺されつづけた。そこへわれの誕生じゃ。魔物の誰もがわれに人間を殺せと教えた。自衛のためにの。われが人間にもよき者がおるとわかったのはネコになってのちじゃ」
「あれ? それじゃネコになったのはいつ?」
「話せば長い。ノームに育てられたわれを利用しようと考えた魔物がおるんじゃ。鬼の一族のはね返り者でのう。ベリアという残忍な男じゃった。われがおらねば魔王と呼ばれておったろうな。われ以前の魔王はすこし力や魔力が強い魔物にすぎんかった。部下を百人もしたがえれば魔王と名のれたものよ。しかしわれとくらべれば田舎領主にすぎん。人間を全滅させるなど夢のまた夢じゃ。そもそも魔物は戦争をせん。戦争は人間のものじゃ。魔物同士の小競り合いはあっても戦争はない。魔物はおのおのが好き勝手に生きておる。あき性でもある。徹底して戦いを継続させはせん。人間を全滅させようと考えた魔物はベリアが史上初じゃろう。ベリアはわれの魔力に目をつけおった。われには力がありすぎた。この世界を滅しつくすほどの力。人間を全滅させるほど大きな力。われの力が弱ければベリアは人間を全滅させようとは考えなんだろうに。ベリアは魔族連合のナンバーツーを名のりおった」
「それでネコにされたわけ? きみの大きな力をおさえてベリアがナンバーワンになるために?」
「いいや。ちがう。ベリアとわれでは格がちがいすぎた。一度われの力を見た魔族はベリアをナンバーワンとは認めん。ベリアはわれを魔王軍の総大将にまつりあげおったのじゃ。われの破壊力があればこの世界から人間を一掃させられると。われはそれまで自衛のために近づく人間だけを殺しておった。ベリアのせいで魔族連合が結成された。人間の街にのりこんで人間を全滅させる戦いがはじまった。それが五百年前に起きた魔法大戦争じゃ。そなたも知っておろうの?」
ニックは眠りに落ちそうな目で思い起こす。
「大魔王ダークブレードと暴竜エグザクサーと人間が戦った戦争?」
「大魔王ダークブレードのう。センスのないネーミングじゃ。どこのどいつがつけたのやら。当時のわれは巨大なガイコツに死神の大鎌。そんな姿に化けとった。ダークブレードはその姿から来た名じゃろう。暗黒の刃と」
「あれれ? ネコじゃないの? なんでガイコツに化けたわけ? ガイコツが好き?」
「おろかもの。当時のわれは四歳の女の子じゃぞ? 魔王でございとやって信用する者がおるか。たわけ。そなたもこの黒ネコの姿では魔王だといまも信じておらぬではないか。魔王らしい姿に化けろ。そうベリアから変身の術を教えられたのじゃ。四歳のわれはあんがい可愛い人間型の魔族じゃった。あれから五百年。ネコから解放されたらどんなババアになっておるやら。われは鏡を見るのがこわいわい」
「四歳? あっ!」
ニックは思い出した。ホビットの長ボビーはこう言ってなかったか? 魔法大戦争の四年前に魔王が強烈な呪文をはなったと。森がひとつ跡形もなく消えた。地面には大きな穴がうがたれた。その穴に川が流れこんだのがバグ湖だと。
ネコがニックをうながす。
「何か気づいたようじゃなニック?」
「きみってアストラル王国生まれ? 産声でできた湖ってバグ湖?」
「たしかにわれはアストラル王国の出。湖の名前までは知らぬ。もの心ついたわれは人間を全滅させるため南下しておった。アストラル王国からワインランド王国を経てリングラスト王国へとな。当時はリングリン大陸と呼ばれておった。しかしニックよ。そなたは妙なことを知っておるのう。われが湖を作ったなどとは魔物しか知らぬはず。人間はどうして森が消えたかわからぬままじゃろうに」
「ホビットから聞いたんだ。アストラル王国に住むホビットから。ホビットたちはダークブレードをこわがってたよ」
「ほう。ホビットに会ったのか。いつじゃ?」
「ミルトムントに来る前」
「ふむ。ホビットたちにかわった点はなかったか? 初めて見た魔物という点をのぞいてじゃが」
「そういや。やたら眠いって言ってた。きのう起きたばかりなのに眠気がしょっちゅう襲って来るって。五百年間眠ってたって言ってたよ。道案内を買って出てくれたんだけどさ。途中で眠りこんで最後まで案内してもらえなかった」
「なるほどなるほど。すこしわかった。魔吸珠に限界が近いのじゃな」
「まきゅうしゅ? 何それ?」
「魔力を吸う珠じゃ。ますいだまとも呼ぶらしい。五百年前ここミルトムントは王国を名のっておった。人間どもの魔法の中心じゃ。知らぬ者はない強国じゃった。五百年前の世界に大陸は四つ。それぞれを王が支配しておった。ミルトムントは五つ目の王国として四大陸とタメを張っておった。幅が五キロしかない小さな島なのにじゃ。それがどうしてかわかるかニック?」
「ごめんなさい。わかりません先生」
「できの悪い生徒じゃのう。そんなことでは大魔法つかいになれんぞ。修業をつむがよい。三千年におよぶ長きミルトムント史でも傑出した三魔法つかいがあらわれたのが五百年前よ。ミルトムント島が魔法の聖地となったのは理由があるんじゃ。ミルトムントの土に紫色の粒が混じっておるのに気づいたか? ミルトムントの名の由来を知っておるかなニック?」
「紫の島?」
「さよう。砂浜にあったじゃろう? あの紫の石。あれは元は赤色の石じゃ。魔吸珠の元になる石。あの赤い石がミルトムントには多い。おっと。その前に魔力とは何かをまず説明せねばならぬの。大金持ちになった魔導師の逸話がよかろう。昔ある魔導師が発見をした。海の水には黄金が溶けておると。魔導師は海水をこす作業をはじめた。来る日も来る日も。しかし一向に黄金は採れぬ。不思議に思った魔導師は計算をやり直した。たしかに海水に黄金は溶けておった。だがいまのやり方では一万年かかっても小石ほどの金塊しか採れぬ。世界中の海水から黄金を分離すれば億万長者になれる。それは正しい。けど地道に分離しておれば百万年かかっても終わらぬ。魔導師はがっかりした。しかしすぐに魔導師は気づきおった。海水を蒸発させて塩を売るほうがもうかるのではと。黄金より塩のほうが簡単じゃと。魔導師は黄金をあきらめた。塩を売って大金持ちになった。そういう話じゃ」
「それってどういう意味? 何が言いたいのさ?」
「魔力の説明じゃ。人間とは不思議な生き物よの。魔力とは何か? その答えを見つけおったわ。ミルトムント三大魔法つかいのひとりドリード・ドーネンが発見をしたらしい。魔力とは海水に溶けた黄金のようなもの。この世界のありとあらゆるものが魔力を出しておる。大気には魔力が充満しておるのじゃ。われら魔物は大気中の魔力を吸って生きる。魔力をこし取る能力のすぐれた者を魔力が強いと呼ぶ。しかしわれらは魔力を濃縮させることはできぬ。海水から黄金を分離させることはできぬのと同じでの。含まれておるとわかっておってもその魔力を濃縮させて力を強めることはできぬのじゃ」
「ふうん。つまり生まれたときに吸収できる魔力量が一生つづくってわけ?」
「さよう。一方でミルトムントの赤い石は塩水がかかると魔力を吸いはじめる。魔力をいっぱいに吸った石は赤から紫に色をかえる。つまりミルトムントの大地は魔力を吸う。石の内部で飽和した魔力は周囲にしみ出す。しみ出した魔力は純度が高い。その結果ミルトムントはこの世界のどこよりも魔力が濃い島となった。修業不足の者でも魔法が簡単につかえたらしいのう。ドリードはミルトムントでなぜ魔法力があがるのかを研究した。そして赤い石の特性に気づいた。次に魔吸珠として精製に成功した。魔吸珠は赤い石にくらべ大量の魔力を短時間で吸う」
「はい? それが?」
「ニックよ。暴竜エグザクサーを知っておるか?」
「うわさだけはね。どんな竜だったかはさっぱり」
「暴竜エグザクサーは史上最悪の竜よ。エグザクサーは生まれてすぐ頭に傷をおったらしい。それで知性がゼロになったと聞く。通常の竜は頭がいい。人と話のできる竜もおる。しかしエグザクサーはちがう。本能のみじゃ。話し合いなど夢のまた夢。魔物であろうが人間であろうがむさぼり食う。しかもまずいことにエグザクサーは巨体じゃ。全長が一キロを越える。エグザクサーもわれと同じ。名前はそもそもない。例外という意味で呼ばれておったのがいつの間にかエグザクサーとなったのじゃ。われは気がついたとき魔王さまと呼ばれておった。親がわれにどんな名前をつけるつもりでおったのか。いまとなっては知るよしもない。エグザクサーはきっと親にすてられたのじゃろう。南のリングリン大陸を荒らしておった」
「エグザクサーと魔吸珠はどういう関係なのさ?」
「エグザクサーとわれにはもうひとつ共通点があるのじゃ。魔力の吸収力がけたはずれて大きい点よ。われは大魔王と呼ばれておった。しかし実は魔法をつかえん。当時は四歳じゃ。呪文なんぞとうていむり。読み書きすらできん」
「そんなあ。それでなんで魔法大戦争なんてことに?」
「産声がすでに破壊力を持っておった話はしたろう? われは吸収した大量の魔力を放出できた。それだけで絶大な破壊力を発揮したわけじゃ。魔法はそもそもすくない魔力を最大に生かす技術よ。小さな魔力を呪文で雷や炎にかえて破壊力にする。われほどの魔力があればその必要はない。ただ魔力をぶつけてやればよい。暴竜エグザクサーも魔法はつかえぬ。エグザクサーは頭が弱いからのう。エグザクサーは吸収した魔力をすべて体力にかえる体力バカじゃ。無限に近い魔力をひたすら体力にかえおる。人間はおろかわれの力もエグザクサーには効かんかった。さてここで問題じゃ。魔物に魔吸珠をぶつけるとどうなると思うニック?」
「魔吸珠は魔力を吸うんでしょ? 魔物は魔力をうばわれる?」
「そのとおりじゃ。なみの魔物であれば力が弱まる。力が弱まれば一般の軍人でもとどめが刺せる。黒髪のドリード・ドーネンは考えた。暴竜エグザクサーにもその手がつかえないかと。しかし暴竜エグザクサーほどの魔力を持つものには巨大な魔吸珠が必要となる。そんな巨大な珠をエグザクサーにぶつけることは不可能じゃ。エグザクサーは全長が一キロある。珠も最低一キロの直径が必要じゃろう。そこまで巨大な珠では移動させることすらむずかしい。エグザクサーがおるのは南のはしリングラスト王国じゃ。魔吸珠の材料はこのミルトムントにしかない。ではどうすればよいニックよ?」
「さあ?」
「ドリードとガレリアとソロンの三大魔法つかいはこう考えおった。巨大な珠は移動させられない。それならさらに巨大な魔吸珠を作ってはどうかと。ミルトムント全土に匹敵するとてつもなく大きな魔吸珠を」
「はい? でもそれ動かせないじゃない? どうやってエグザクサーにぶつけるつもり?」
「もはやぶつける必要はないんじゃ。魔吸珠は魔力を吸う珠よ。いわば海水中の黄金だけを吸いあげる珠。とてつもなく巨大な魔吸珠を作れば大気中の魔力をどんどん吸う。ドリードたちは一年がかりで巨大な魔吸珠を作りあげた。ミルトムントの地下に眠る魔吸珠はいまもこの世界の魔力を吸いつづけておる。したがっていま大気中の魔力の量はごくごくすくない。人間にたとえればわれは特異体質じゃ。生まれながらに大量の大気を吸って大量の魔力を取りこめる。魔力がうすくてもわれが生きるのに必要なだけは取りこめる。しかしなみの魔物はそうはいかぬ。世界中の魔力がうすまれば生きることすら困難となる。人間で言えば酸欠状態よの。人間とても魔法がつかえぬようになる。エグザクサーとて同じじゃ。大気中の魔力が吸えぬと魔力の補給ができん。全長一キロにおよぶ巨体のエグザクサーはとうぜん弱る。ソロンとドリードとガレリアで弱ったエグザクサーを封印した。そう聞いておる。ミルトムントの地下に眠る巨大魔吸珠のせいでこの世界から魔物が消えた。人間も魔法をつかえなくなった。五百年前の魔法大戦争の真相はそういうことらしい」
「なるほど。えーと。でもさ」
「なんじゃな?」
「きみがネコになったいきさつを聞いてないよ?」
「おお。そういやそうか。すまぬ。われがこの世界の北のはしアストラル王国に生まれた話はしたな? 魔族連合にまつりあげられたわれは南をめざしたと。人間どもを殲滅するために当時の四大陸を南下したわけじゃ」
「ちょっと待ってよ。ミルトムントは破壊しなかったの? アストラル王国から一番近い王国だったんでしょ? しかも魔法の中心地だよ? 最強の敵じゃない?」
「そのとおりじゃ。ミルトムントは当時知らぬ者はない強国よ。歴史を知っておる者から見ればたたかねばならぬ最大の敵じゃ。しかしのうニックよ。実体は小さな島じゃ。五キロあるけば横断できる。人間の数もすくない。そんな島を攻めてどうなる? われもベリアもその考えはこれっぽっちも浮かばんかった。ミルトムントをたたく? そんなもの笑い話よ。四大陸の人間どもを全滅させればこの世界は魔族のものとなる。魔族連合の幹部たち全員がそう思っておった。ミルトムントみたいな小さな島はあとで滅ぼせばよいとな」
「それでミルトムントは無傷?」
「さよう。けどその判断は大きなまちがいじゃった。のちにそう思い知らされることになる。じゃが当時のわれにわかろうはずはない。いまのわれでもむりじゃろうな。こんな小さな島じゃもの。われら魔族連合は南下をつづけた。人間の住む街という街を破壊してな。最終決戦はいまのリングラスト王国じゃった。人間。暴竜エグザクサー。われの魔族連合。当時はルガノ王国とラテマグナ大公国とリングラスト王国がひとつの大陸じゃった。人間はリングリン大陸と呼んでおった。われは暴竜エグザクサーとはじめて対面をした。身ぶるいが走ったのう。われ以外でわれと力くらべのできる魔物はエグザクサーだけじゃ。われは思わずおたけびをあげた。そのおたけびで十キロ四方が灰になった。町が五つ消し飛んだ。大陸に溝ができてふたつになった。しかし当の暴竜は傷ひとつない。ケロっとしとった。われが本気になれば周囲の百キロ四方が吹き飛ぶであろう。そこまでして暴竜が無傷では笑い話にもなるまい。それでわれは肉弾戦に切りかえた。そんなわけでわれはまだ本気を出したことはない。この世界がつぶれてわれひとりが生き残ってもしかたないであろう? われと暴竜のみが残るともっと悲しい」
「たしかに」
「われのおたけびでできた深いみぞに海水が流れこみ大陸はふたつになった。あとは激戦じゃった。右も左もわからぬ乱戦よ。それぞれの戦場で何が起きたかわれにはわからん。人間。暴竜。われ。それぞれが一歩も引きはせなんだ。決着は容易につかんかった。そんな中でふと暴竜が海をわたりはじめた。ミルトムントに向けての」
「逃げたの?」
「いいや。暴竜が一番元気じゃった。あやつはバカよ。魔法もつかわぬ。体力勝負はあやつが最も有利じゃ。あやつは逃げるという言葉を持たぬ。けどわれはあやつの行動を読みちがえた。ニックの指摘どおりあやつが逃げたと思ったんじゃ。あやつにとどめを刺すならいまじゃと。あやつの行動の意味が飲みこめたのはずっとあとじゃ。ネコになって二百年ほどたってからじゃな。暴竜エグザクサーは気づいたんじゃ。何者かが世界中の魔力を吸いはじめたと。何度も言うがあやつはバカじゃ。そのぶん本能が鋭敏なんじゃろう。われら魔族の誰ひとりとして気づかぬ危険を察知しおった。それでミルトムントに向かったのじゃ。このミルトムントの地下に眠る魔吸珠を破壊するためにの。われはいまも後悔をする。もしあのときわれがそれを知っておったらと。まっ先にこのミルトムントを攻めたものをと。まさかこんな小さな島がわれらの戦争を決着させるとは誰も思わぬ。人間どもも知らんかった。ミルトムントの三大魔法つかいがそんな計画を進めておるとはな。われがネコに変身したのはそのときじゃ」
なぜか黒ネコがうっとりと天井を見あげた。
「ネコに変身した? ネコにされたんじゃないの? 自分でネコになったわけ?」
「はずかしい話じゃがわれはみずからネコになった。暴竜を追うわれにかわゆい男の子が立ちはだかりおった。十五歳くらいに見えたのう。いまのニックと同じくらいじゃ。ほうきにのっておったな。まっすぐな銀髪の男の子じゃった。涼しげな瞳がいまもたまらぬ。ニックもかわゆい。しかしわれはあれほどの美少年に会ったことはない。本当にきれいな男の子であった。いま思えばあれがわれの初恋かもしれぬ」
「四歳で初恋? 早すぎないそれって?」
「いま思えばじゃ。当時は胸がきゅんとうずいたにすぎぬ。そなたの初恋はいつじゃ? われのだけ聞くとずるいぞ。とっとと答えい」
「えっ? そう来るわけ? えーとね。五歳のときに遊んでもらった三つ年上のお姉さんかな? 世話好きでお節介やき。おしゃまな女の子だったよ。どこかの国のお姫さまみたいな服を着てたっけ。けどぜんぜんかざらない子でさ。ふたりで花壇を駆けまわったな。ままごと遊びもしたよ。将来お嫁さんにもらってね。なんて約束もさせられた。花壇にチューリップが咲いてたからもうすぐちょうど十年になる」
「五歳? われのことは言えぬではないか。おろか者め。それでその子とはどうなったのじゃ?」
「どうなったも何も。そのとき一回あそんだだけなんだ。名前も聞かなかった。いまは十八歳になってるはずだよ。どこでどうしてるだろうなあ」
「なんじゃ。それだけかい。われの初恋のほうが劇的ではないか。ああ。いま思い出しても胸が高鳴る。そなたに似ておるが百倍は可愛かったぞ。長いまつげがとてもかれんでの。何よりわれとなぐり合って生きておったわ。われとなぐり合って生き残ったのはふたりだけ。いや。一匹とひとりと言い直すべきか。暴竜エグザクサーをひとりと人間は数えぬじゃろう。しばらく海上でその男の子となぐり合いをした。じゃが決着がつかぬ。男の子がとつぜんニコっと笑いおった。男の子が叫ぶ。この不気味なガイコツのお化けめ。お前は可愛いネコには化けられまい。おれはどんなものにだって化けられるぞと。男の子は優美なオスネコに変身しおった。われとても変身はできる。ゆいいつおぼえた魔法じゃ」
「それでネコになったわけ?」
「そう。当時のわれは四歳じゃ。まんまと引っかかった。ネコになった瞬間を黒髪のドリードと赤毛のガレリアに封印された。以来五百年この姿じゃ」
ニックは笑いをこらえた。くだらないオチ。大戦争のオチがそれかい。
「そんな簡単なことで戦争が終結したの?」
「そんな簡単とはよく言う。力押しでは勝敗が決さなかったじゃろう。まあ策略に引っかからなくともわれらはまけておったはずじゃ」
「どうして?」
「魔吸珠じゃ。魔吸珠がこの世界の魔力を吸いつくしおった。暴竜エグザクサーもミルトムントの手前で魔力がつきた。そこを封印されて暴竜は海に沈んだ。暴竜の沈んだ海は魔の海と化した」
「あれ? 魔吸珠が魔力を吸いつくしたんでしょ? どうして封印できたの? 魔力がなければ魔法はつかえないんじゃないの?」
「おろか者め。ソロンとドリードとガレリアが魔吸珠を作ったのじゃ。自分たち用に魔力をためた魔吸珠を持っておるに決まっておろう。魔吸珠からは魔力がにじみ出るのじゃ」
「なるほど。自分たちは魔法をつかえるってわけか」
「そのとおりじゃ。われがネコに封印されたあと世界中の魔力が消滅した。魔物の姿は消えて人間も魔法をつかえぬようになった。平和がおとずれて人間は復興につとめた。しかし五十年もたたぬ間に今度は人間同士の戦争が起こった。また国土は荒れてまた復興。そんなことをここ五百年くり返しておる。われはよく考える。われら魔族連合が人間を全滅させておっても同じことじゃったろうかと。魔族同士が戦争をくり返していつまでたっても平和は来ぬのじゃろうかと。人間さえいなくなれば平和が来る。魔族はそう思うておった。人間は人間で思うておった。魔物さえいなくなれば平和が来ると。そんな単純には行かぬものらしいのう」
「ふうん。けど魔吸珠ってさ。吸う魔力に限界はないの? 飽和するって言ってなかった?」
「ドリードとガレリアとソロンは吸いこんだ魔力を転送する魔法を開発したそうじゃ。いまミルトムントの地下にある巨大魔吸珠は吸いこんだ魔力を太陽に転送しておると聞く。太陽の中で魔力を燃やしておるとよ。じゃから魔力が飽和してあふれることはない。魔吸珠はたったいまも魔力を吸いつづけておる。ただ五百年は長すぎたのではないかのう。そろそろ魔吸珠の限界が近づいておるのではないか? われも力がありあまる感じをこのごろおぼえるぞ? ホビットが目ざめたのじゃろう? 魔吸珠がこわれれば暴竜エグザクサーも目ざめるのではないかのう」
「暴竜エグザクサーって退治されたわけじゃないの?」
「われは知らぬ。われのほうが先にネコになったからのう。しかし封印されて眠っておるだけではないかな? 魔の海が荒れる。地震が頻発する。それはエグザクサーが寝返りを打っておるせいではないか? エグザクサーはこのミルトムントの南の海に沈んだはずじゃ」
「エグザクサーが復活するとどうなるわけ?」
「人間はことごとくエグザクサーのエサにされるであろう。街という街は破壊される。そう思うが?」
「とめる方法はないの?」
「いまのわれでもエグザクサーに勝てるとは思わぬ。人間が魔法を忘れて五百年になる。人間にエグザクサーが殺せるとは信じられぬな。魔吸珠をふたたび作ってこの世界の魔力をへらせばエグザクサーはまた眠るじゃろう。しかし魔吸珠の作り方がわからぬのではないか? その上ただ作るだけではいかん。吸った魔力を遠くに転送させる魔法も必要じゃ。エグザクサーがよみがえればこまった事態になると思うのう」
「こまったというか最悪の事態じゃない?」
「そう思うならまじめに勉強をするがよい。このミルトムントのどこかに三大魔法つかいが書き残しておるかもしれん。魔吸珠の作り方と魔力の転送方法を」
ニックは思いあたった。
「七つの魔法陣!」
「究極の大魔法か。すこしちがうような気もするがそれかもしれんな。探してみるのも一興じゃ。せいぜいがんばるがよい」
「がんばるがよいって。力を貸してくれないの?」
「どうして魔王のわれが人間に力を貸さねばならぬ? 封印をといてくれるのか?」
「いや。それは」
ホビットのボビーはダークブレードを最悪の魔物だと言っていた。そんな化け物の封印をとけば何が起きるやら。
そのときウィンダミアが声をかけて来た。ニックは魔王と話をしているつもりだ。しかしウィンダミアにとってはネコがニャーニャーと鳴いているだけ。
「おーいニック。そのネコうるさいぞ。だまらせろ」
ニックはネコに声をひそめた。
「だってさ。そろそろ寝てくれない魔王さま?」
「よかろう」
ウィンダミアがまた疑問をひとつ。
「ところでニック。どうしていちいちネコに話しかけるんだ? そういう趣味があるのか? まさかネコ語がわかるなんて言い出すんじゃないだろうな?」
ニックは言いわけを考えた。
「えーと。飼い主からそうしろって言われたからね。話しかけてやるときげんがよくなるんだってさ。仕事の一部なんだ」
「なるほど。まあ早く寝ろよ。ネコと遊んでないでな」
「はーい」
ニックはオメガとブレーデンを見た。オメガたちはうるさく思わなかったのだろうかと。オメガとブレーデンはすでに夢の中にいた。ふたりとも帰寮したときの姿だ。オメガなど革帽子とメガネ着用で眠っている。
ウィンダミアもそれに気づいた。ウィンダミアがオメガに寄る。
「しょうがねえやつだな」
ウィンダミアが先にオメガの革帽子をはずした。別名役立たずのカブトを。つづいて黒ぶちメガネに手をかける。
「えっ? なんだこりゃ? おいニック来てくれ」
ウィンダミアがニックを手まねく。ニックはオメガのベッドに行く。
「どうしたんだいウィンダミア?」
「メガネが取れねえ。このメガネ。顔からはずれねえぞ」
「そんなバカな」
ニックはオメガのメガネに指をかけた。引く。けどはずれない。どうしてもメガネが顔から取れない。ひもでくくられているわけでもない。なのに取れない。
ニックはウィンダミアと顔を見合わせた。
「どうなってるの? この黒ぶちメガネ?」
ウィンダミアがクルッとオメガから顔をそむける。
「わからないものにはさわるな。それがわが家の家訓だ。オメガのメガネは見なかったことにしよう」
ウィンダミアがオメガの頭に役立たずのカブトをもどした。元どおりに。次にブレーデンに顔を向ける。ブレーデンは床でいびきをかいていた。
ウィンダミアがブレーデンに毛布をかける。自分がこの部屋で一番の年上だと自覚しているらしい。お兄さんが面倒を見てやるぜ。そんな手つきだ。ブレーデンは巨体で毛布が一枚ではたりない。足が出る。ウィンダミアがもう一枚毛布を手にした。
「こいつは足輪をはめっぱなしだ」
ウィンダミアがブレーデンの足輪に手をかける。
「わーおっ! なんだこりゃ!」
ウィンダミアがおどろいた顔をニックに向けた。ニックは今度は予想がついた。
「ブレーデンの足輪がはずれない。そう言いたいんだろウィンダミア?」
「そ。そうだ。なんでわかるニック? 読心術か?」
「いや。心あたりがあっただけさ。ケイトの仮面もはずれない。そう言ってたろ。オメガのメガネもはずれない。ならブレーデンの足輪だって。ちがうかい?」
「そ。そういやそうかも。じゃこれも見なかったことに」
ウィンダミアが未練げにブレーデンの足先までを毛布でおおう。ニックは自身の右手首を見た。ここにもはずれない道具がひとつ。はずれない道具が四になった。どういうことだろう?
ニックは知らない。あとふたつアリエスとヒルダにもついていることに。はずれない道具が合計六あることに。身からはなれない道具を持たないのはウィンダミアだけ。そしてウィンダミアは指輪をつけている。自称笑いの指輪を。
ウィンダミアがタオルを持った。部屋の出口に向かう。
「おどろいたら目がさえちまった。おれ風呂に行くわ。お先に」
ニックは風呂のしたくをしながらネコに本日最後の質問をしてみる。
「話はかわるけどさクロ。ネコって人間語がわかるの? ぼくらのしゃべってる内容はすべて理解できてるみたいだけど?」
「クロ? それはわれのことか? まんまな名前じゃのう。もうすこしましな呼び名はないのか? 人間とは本当にセンスに欠ける生き物よの。ふむ。人間語がわかるかとな。おろか者め。われは生粋のネコではない。魔王じゃ。人間の言葉くらいわかる。このネコの声帯では人語が話せぬだけじゃ」
「そ。そうなんだ。ごめん」
「まあよい。われは今夜ひさびさに満足な食事をした。しばらくあの調子でたのむぞニック。できれば肉がよい。オス鹿の精気あふれる生肉を腹いっぱい食いたいのう」
「むり言わないでよぉ。ミルトムントに鹿はいないんだ」
「われの生まれたアストラル王国は鹿料理が名物じゃった。そのうちアストラル王国に狩りに行かぬか? われが本場の鹿料理をごちそうするぞ」
アストラル王国か。バグ湖のほとりで殺された祖父のムスタキはどうなっただろう? 葬る人もなくくちはてているだろうか。いまなら葬りに行けるかもしれない。そう考えてニックは気づいた。もっと仕事をしなければ船賃もないと。もうしばらくムスタキにはがまんをしてもらおう。