第一章 ニックは刺客に襲われる
頭の上から四本の剣がふりおろされた。十五歳の少年ニック・ニーアブは身をかわす。
黒装束の男たち四人が次から次へ斬りかかって来る。黒い覆面に顔もおおわれた一団だ。剣をふる男たちの目だけが見えた。全員で十人いた。
「恨みはありませぬ! しかしそのお命もらい受ける! ラテマグナ大公国の御曹司さま!」
ニックはよける。ひたすらよけた。
場所は山国アストラル王国。バグ湖のほとりの小さな小屋。星の降る春の夜。静かな森に剣撃の音のみが響きわたる。
祖父のムスタキが板壁を蹴りやぶった。小屋の入口には黒装束の男たちがいる。入口からは逃げられない。ムスタキが壁にできた穴からニックを押し出した。
外へ出たニックにムスタキもつづこうとする。そこへうしろから男たちが斬りつけた。
「うぐっ!」
ムスタキの全身にけいれんが走った。血しぶきが春風に舞う。
ニックが背後をふり返る。壁の穴からムスタキが手をのばした。行け。そんなふうにムスタキがてのひらで合図を送る。
「おじいちゃん!」
「行け。行くんじゃニック。お前だけでも逃げろ。とまるんじゃない。生きろ。生きぬくんじゃ」
ムスタキが背後の男たちにふり向いた。両手を広げる。広げた両手で壁の穴をふさぐ。ムスタキが男たちの外に出る邪魔をはじめた。すぐに男たちの剣がムスタキの全身を貫く。ムスタキがふたたびニックに顔をふり向けた。
「行け。行くがよいニック。わしはもう助からん」
ムスタキが最後の力をふりしぼった。外に出ようとした男の足首をつかむ。男がムスタキの手首を切り落とした。ズザッ。そんな音を立ててムスタキの手首が腕をはなれる。小屋の中の男たちがムスタキの心臓を刃で貫く。ムスタキの動きがとまった。男たちがムスタキの遺体を飛び越えはじめる。
ニックは迷った。ムスタキを助けにもどろうかと。しかし男たちが駆けて来る。血の海に沈むムスタキはピクリとも動かない。ニックは涙を手でぬぐう。ムスタキから顔をそむけた。走り出す。
逃げ切る勝算などない。すぐに追いつかれるはずだ。ムスタキのようにめった斬りにされるだろう。首は切り落とされてラテマグナ大公国に持ち帰られる。それでも逃げないわけにはいかない。
逃げてかくれよう。殺すのも殺されるのも怖い。ニックは十五歳の少年だ。ついこのあいだまでラテマグナ大公国の王宮でふわふわと夢のように暮らしていた。祖父のムスタキが目の前で殺された。しかし剣を手にする気にはなれない。斬られるのはもっといやだ。
ニックが身につけている物は服と腕輪だ。腕輪は粗末な木製だった。その腕輪を右手にはめているだけ。
森の中の木々をぬってニックは逃げる。森の中では長剣は邪魔にしかならない。大人の大きな身体も不利だ。
森をぬけた。崖っぷちに出た。岩場だった。目の下は急降下で落ちこんでいた。崖底に森が見えた。ニックはためらわず崖を降りはじめた。両手を岩にかけた。崖下へと向かう。
崖を降りるには両手をつかう。黒装束の男たちも剣はふるえまい。上から岩を落とされれば逃げ場はない。しかし大きな岩が手近にない。ニックは安心して手と足を動かした。
だが男たちはつなを垂らした。つなをつたい降下をかけて来る。片手には剣だ。
ニックの首にひと太刀が来た。ニックは死を覚悟した。首と胴がはなれるときが来たと。
「うぐっ!」
痛みが首をしびれさせる。ジンジンした。
うわあ。やられた。ニックはそう思った。
しかし。かたく閉じたまぶたをあけてみる。おかしい。よく考えれば。よくよく考えれば。首と胴がはなれて考えられるものか?
ニックは首をかしげてみた。まだ首は胴の上につながっている気がする。たしかに首を切断されたのに? 首に痛みはある。しかし血は出ていない。たたかれた痛みだ。切られた痛みじゃない。どういうことだろう?
疑問は黒装束の男も同じらしい。覆面の下の目が見ひらいている。信じられないと。
たしかに斬った。まだ成長しきっていない子どもの細首だ。簡単に落ちるはず。そんな目がニックの首すじを見ている。
ニックは気を取り直した。また降りはじめる。
男も気を取り直した。ふたたび斬りつける。今度は肩から背中をばっさり。
「うわっ!」
ニックはまた悲鳴をあげた。とても痛い。ビシバシたたかれた痛みに全身が硬直をする。しかしやはり血は流れていないようだ。どういうことかはわからない。さっきまで男たちの剣はすばらしい切れ味を見せていた。祖父ムスタキの手首は一閃で切断された。森の中で男たちは剣をふらなかった。刃がこぼれたはずはない。
黒装束の男はむきになったようだ。渾身の力で剣をにぎりしめた。今度こそそっ首をたたき落としてくれる。そんな気迫で剣をふりかぶった。
うわあ。本当にもうだめだ。ニックは目を閉じた。
その瞬間。大地がゆれた。地震だ。
ニックはしがみつけずに崖を転げ落ちる。剣をふりあげた男の左手がつなをはなれた。男が落下をする。先頭の男につづく男たちも崖下へと落ちはじめた。
しばらくののちニックは森の木の枝で気がついた。地震はもうやんでいる。ニックは思い出した。崖からゴロゴロと転げ落ちたんだっけと。落下して木の枝に引っかかったらしい。
ニックは首を回した。斬られた首と肩を点検してみる。しびれる痛みはもうない。やはり切れてはいない。血も出てない。崖から落ちた。そのせいか全身がピリピリと痛む。だがどこにも致命傷がない。骨が折れている様子もない。崖は高かった。あそこから落ちて無事にすむとは思えない。どういうことだろう?
けどいまは考えているときではない。逃げるのが先だ。
ニックは木からおりた。森にふみこむ。目ざすミルトムント島は東だ。黒服たちはまず王宮で母を殺した。逃亡生活をささえてくれた祖父も殺された。荷物もおカネもない。いまは逃げる以外にできることはない。泣きながらニックは歩く。
森の中でふと頭上に妙な気配を感じた。何かが頭の上に浮いている。そんな気がした。鳥が飛んでいるのではない。風船が浮いている感じだ。ニックは頭上を見た。
アヒルが飛んでいる。木彫りのアヒルが。羽ばたきもせず。
あわわ。声にならない驚きが口からもれた。生きているアヒルでも飛ばない。まして木彫りのアヒルが飛ぶなんて。
足元から声が聞こえた。
「旅の人。そなたを見こんでおたのみもうす。わが娘を助けてくだされ」
ニックは足元に顔を向けた。小さなおじさんが草の影から出て来た。二頭身だ。おじさん顔なのに頭部は人間の赤ん坊と同じ大きさだった。胴体は顔とほぼ同じ長さ。手も足もみじかい。ひたいに妙な模様のターバンを巻いている。見たことのない生き物だ。こいつはいったい何だろう?
おじさんがニックのズボンのすそを引く。
「黒髪の少年よ。とにかく早く来てくだされ。さっきの地震でわが娘が岩の下敷きになったんじゃ。助けられるのはそなたしかおらん」
「ぼ。ぼくはそんなの」
してるひまはないんだ。ニックが口に出す前におじさんがズボンのすそを引きずる。
あんがい力が強い。ニックはおじさんに引かれた。
ひときわ高いケヤキの木の横に岩山があった。おじさんが岩山のふもとを指さす。不自然に大きな岩がひとつ岩山に刺さっている。
「ここですじゃ。わしらの洞窟をあの岩が押しつぶしおった。あの巨大な岩をどけてくだされ。あの大岩をどけられるのはそなたしかおらん」
巨大な岩は十メートルを越えている。重さははかり知れない。大人の男でも数十人がかりでないとむりだ。ニックはまだ十五歳。身体は小さいほうだ。腕力もさほどない。
「むりだよぉ。あんなでかい岩。ぼくによけられるはずがない」
おじさんが口をとがらせた。
「そんなことはない! そなたの右手の腕輪は力の腕輪じゃ。腕輪をはめておらん左のこぶしを天にかざせば岩を持ちあげられるはず。わしらの守護神イピタスさまのアヒルがそなたを示したのじゃ。そなたにならできる。うんにゃ。そなたにしかできん」
「うそ? ぼくにそんな力があるわけないって」
「そなたの力ではない。その腕輪の力じゃ。ええい! とやかく言うとらんでやってみんかい! わしの娘の命がかかっとるんじゃ! 左手をあげるんじゃぞ!」
ニックはおじさんにかかとを蹴られた。それは人にものをたのむ態度じゃないぞオッサン。
口をとがらせながらニックは腕輪のない左手を天にかざす。次に岩に手をかけた。ふんばる。
えい!
岩が持ちあがった。重い。けど母のメアリより軽い。
ふん!
岩を横にほうり投げる。ズズーン。すごい地響きが来た。母の一万倍は重かったらしい。
洞窟の入口はすっかりつぶれている。ニックとおじさんでほりはじめた。しばらくほると土がうごめいた。小さな手が見える。慎重にほった。やはり二頭身の女の子が姿をあらわした。
女の子がのびをした。かぶさった土が柔らかだったためかケガはないようだ。
「ふう。もうだめかと思ったわ。あなたが助けてくれたのね。ありがとう人間さん」
「は。はあ」
ニックはおじぎをする女の子を見つめた。人間ではない生き物らしい。ニックは昔話として聞かされている。五百年前この世界には魔物がいたと。この女の子もおじさんもそれではないか? 五百年前に突然いなくなった伝説の生き物では?
そのとき唐突にニックの全身が重くなった。ニックはひざをつく。ぐったりと地面にのびた。全身に力が入らない。どういうことだろう?
女の子がニックを抱き起こしてくれた。
「大丈夫ですか? 人間さん?」
ニックはよろけながら立った。ここに来て逃亡の疲れが出たのだろうか? 張りつめていた緊張の糸が切れた? さっきは殺されかけたし。
「なんとか大丈夫」
ニックは岩山に気配を感じた。目を向ける。すると土でふさがっていた岩山がもぞもぞと土を吐きはじめた。洞窟の形に土が押し出される。土の中から小さな二頭身たちが続々と出て来た。男。女。年寄り。子ども。全員でニックを取りかこむ。口々にニックに礼をのべた。ニックは頭をかく。悪い気はしない。まるでヒーローだ。
最初に会ったおじさんがニックを洞窟の奥に押した。
「さあさあ。入ってくだされ。精一杯のもてなしとお礼をせねば」
「でもぼく。逃げてる途中」
おじさんが首をかしげた。
「はて? 何から逃げるのじゃ? 力の腕輪があれば人間界に敵はないはず。さては暴竜エグザクサーか? それとも魔王ダークブレードか? やつらなら力の腕輪といえど無力じゃろう」
「あのうおじさん。暴竜エグザクサーも魔王ダークブレードも五百年前の話なんだけど。ぼくが追われてるのは人間なんだ」
「ほよ? 人間とな。では借金取りじゃな。そうかそうか。借金取りなら力の腕輪で追いはらうわけにはいかん。しかしわしらの洞窟なら大丈夫じゃ。わしらのゆるしなく人間は入り来めん。安心するがよい。そなたがどこに逃げるのか知らん。じゃが明日わしが誰にもつかまらん道を教えてやる。今夜はわしらの歓待を受けてくれ。恩を受けて何もせんでは始祖イピタスさまに顔向けができん」
ニックはおじさんに洞窟の中に押しこまれた。有無を言わさずだ。ニックはまだすこし足がふらつく。
食べ物。飲み物。花。楽器。さまざまな品が目の前にならべられた。すぐに宴会がはじまった。二頭身たちが踊る。けどすこし妙だ。とつぜん男も女もピタッと動きをとめる。寝息をかきはじめる。しばらくするとまた動き出す。踊る。眠る。踊る。眠る。それのくり返し。そういう生き物なのだろうか?
ニックはとなりにすわるおじさんに顔を向けた。
「あのうおじさん」
おじさんがムッとした。
「おじさんではない。わしはホビットの長ボビー・ホビルトンじゃ。ボビーと呼んでくれ。で。何かな?」
「ぼくはニック・ニーアブ。どうしてボビーたちは寝たり起きたりするわけ?」
ボビーが首をひねった。
「ふむ。よくわからん。とつぜん眠くなるのじゃ。そもそもわしらは五百年間眠っておったらしい。つい先ほど起きたばかりなのじゃ。外に大きなケヤキの木があったろう? あの木が最後に見たときより五百年分の成長をしとった。起きて外に出たわしは驚いたものじゃ。のうニックよ。いったいこの世界はどうなったのじゃ? 暴竜エグザクサーと魔王ダークブレードはどうなった? わしらが眠る前にエグザクサーとダークブレードと人間がみつどもえで戦争をしておったはずじゃが?」
ニックは記憶を整理してみる。言いつたえは聞いている。五百年前の魔法大戦争はおとぎ話としてだ。だが詳細はわからない。本当にあった戦争だと思ってもみなかった。たったいままではだ。二頭身の生き物が存在する以上その伝説も真実なのだろう。
「ぼくが聞いてるのはこうです。五百年前に魔法大戦争は終わった。暴竜も魔王も魔物もみんな消えた。ミルトムント島の三大魔法つかいがこの世界を平和にした。そのとき何が起きたのかは知りません。けど五百年前に魔法つかいもこの世界からいなくなった。不思議な生き物もドラゴンもいっせいにです」
ボビーが眉を寄せた。
「不思議な生き物とはわしらのことじゃな。ふうむ。どういうことかはわからんがミルトムントの三大魔法つかいが何かをしおったらしいのう。銀髪のソロン・ソロモン。赤毛のガレリア・ガレリー。黒髪のドリード・ドーネン。わしは三大魔法つかいのうち修業中のソロン・ソロモンには会うたことがある。銀髪の直毛をしたかわゆい男の子じゃったぞ。美少年と言うべきか。ニックよ。そなたもなかなか可愛いがソロンにはおよばん。長いまつげが涼しげでのう。一族の女はみんなクラっと来た。ソロンさまソロンさまと口々につぶやいておったわ。おまけに強い。山をもくだくこぶしを持っておった。わしはそれがどんな魔法かとたずねた。するとソロンは腕輪の力じゃと教えてくれた。ま新しいカシの木の腕輪じゃった。カシの木の精霊と契約を交わしたそうな」
ボビーがニックの右手に目を走らせた。ニックも自身の手首の腕輪を見る。つかいこまれた粗末な木の腕輪にしか見えない。
「この腕輪がそう?」
「はいな。そなたの右腕をかざるそのみすぼらしい木の腕輪。それがそのときソロンの腕にあった腕輪じゃよ。人間には見えぬがカシの木の精霊の紋章がきざまれておる。あのま新しい腕輪がここまですすけるとはのう。本当に五百年がすぎたわけじゃな」
「ところでさ。どうして腕輪のついてない手を天にかざすわけ? ふつう腕輪のついた手をかざすんじゃないの?」
「そなたの場合は腕輪じゃからそんなことを思う。魔法の力をこめるのは腕輪だけではない。武器の場合もある。武器で対戦中に魔法をつかおうと武器を天にかざせばどうなる? そのすきをつかれて刺し殺される。それで古来からあいている手で天の力をつかむのじゃ。契約者の利き手にもよるが左手が多いのう。天の左手と呼ばれておる」
「ふうん。そうなんだ」
そのとき洞窟がゆれた。ボビーが洞窟の天井を見あげる。今度は落石はないようだ。
「おやまた地震か。五百年前はこんなに地震が多くなかったもんじゃが。のうニックよ。そなたは見たところ何の荷物も持っておらん。カネもないのではないか? 借金取りに追われとるんじゃろ? その腕輪は売れば大金が手に入るはずじゃが?」
ニックは右手をふる。
「けどこれ取れないんです。いったんつけると取れなくなりました」
「おやまあ。呪いかな? わしらは五百年の眠りについとった。いまも眠くなったり目がさめたりじゃ。魔力を持つすべての事物に呪いがかかったのかもしれぬな。ミルトムントの三大魔法つかいが新しい呪いを開発したのではないかのう? 五百年前の大戦争を終結するためにな。でもなきゃあの暴竜や魔王を人間が倒せたとは思えん。わしは会ったことはないが女魔法つかいのガレリア・ガレリーは魅了術の達人と聞く。赤毛の巻き毛を指でひねるとどんな男でも鼻の下がのびるそうじゃ。三魔法つかいの最後の男ドリード・ドーネンは幻影術と催眠魔術の達人じゃとさ。顔のない男と呼ばれておった。ドリードは智恵のメガネと呼ばれる魔具を作ったそうな。見たところは変哲のない黒ぶちのメガネじゃ。しかしかけるととんでもなく頭がよくなるらしい。ドリードとガレリアとソロンで新たな呪いを作ったのじゃろう」
ニックは湧きあがる好奇心をおぼえた。五百年前を知る生き物と対面しているわけだ。おとぎ話の真相を聞く絶好の機会にちがいない。
「あのうボビー。あなたは会ったことがあるんですか? 暴竜エグザクサーや魔王ダークブレードに?」
ボビーが身をふるわせた。踊っているホビットたちも全員がブルル。
「わしは暴竜には会ったことがない。見てもおらん。暴竜はこの世界の南を荒らしておったからな。ここは北の果てアストラル王国じゃ。しかし魔王ダークブレードなら知っておるぞ。あれほど凶悪な魔族はおらん。ニックよ。この洞窟の西にバグ湖という湖がある。知っておるかな?」
「はい。さっきまでそのほとりにいました」
「なるほど。では話が早い。あの大きな湖は魔王ダークブレードがたわむれに森を破壊した跡じゃ。魔法大戦争の四年前に魔王が強烈な呪文をはなった。森がひとつ跡形もなく消えた。地面には大きな穴がうがたれた。その穴に川が流れこんだのがバグ湖じゃ。元はバグの森と呼ばれておった」
「うそ? バグ湖ってとんでもなく大きな湖ですよ? そんな大穴をあけるなんて」
「本当じゃよ。わしらの親戚もそのとき犠牲になった。ダークブレードほどひどい魔王はおらん。血も涙もない。人間であろうと魔族とあろうと殺しおる。ダークブレードにとって退屈しのぎにすぎんのじゃろう。笑いながら殺しおった。わしらホビットは人殺しはせん。魔物同士の殺し合いにも手を貸さん。じゃからあんなやからと同じ魔族あつかいをされては迷惑じゃ。話に聞く暴竜エグザクサーもひどいが魔王ダークブレードは最悪じゃよ。暗黒の刃とは親もよくつけたものじゃ。しかしあれから五百年か。暴竜も魔王も人間にはかなわんかったということかのう。ま。ニックよ。おおいに飲んで食ってくれ。カネをやれるといいんじゃがわしらは人間のカネを持たん」
そのときボビーの娘がボビーのそでを引いた。木彫りのアヒルをボビーの手にのせる。
「お父さま。おカネの代わりにこれでは?」
「ふむ。いいかもしれん。ニックよ。たわいないおもちゃじゃがこのアヒルをもらってくれんか? わしらが始祖イピタスさまの加護がついておる。売ればいくらかになるはずじゃ」
イピタスの名を口にしたとたんアヒルが空に浮いた。
ニックはいいなと思った。ほしい。けど大切そうだ。そんなものをもらってもいいのか?
「大切なものじゃないんですか?」
「大切と言えば大切じゃ。しかし娘の命の恩人にわたすのにこれほどふさわしいものもない。ちと長くなるがイピタスさまの話を聞くかの? イピタスさまはケヤキの木の精霊じゃった。なかなかおもしろい話じゃぞ」
ニックはボビーの顔を見た。話したくて話したくてたまらない。そんな顔をしている。聞いてやるべきだろう。
「ええ。ぜひ」
「そうかそうか。そなたは善人じゃのう。いまから千年前の話じゃ。千年前この世界には大陸が四つあった。右が欠けた三日月形に北から四つじゃ。アストラル大陸。ワインランド大陸。ローズキエ大陸。リングリン大陸。ここは北のはしアストラル大陸じゃ。アストラルの東の海にミルトムント島が浮かぶ」
ボビーがそこで酒をゴクリとひとくち飲んだ。
「アストラル大陸のアストラル王国は古い国でのう。山国なせいで鉄や銀がとれる。二千年の昔から武器や防具を他の三大陸に輸出しておった。特に南端のリングリン大陸は砂漠と草原ばかりで鉄は採れん。アストラルの武器は高値で取引されておった。千年前アストラル王国の王さまがおふれを出した。この世界一の武器と防具を決める競技会をひらくとな。一位になった職人には国王ご用たしのお墨つきがあたえられる。強度。切れ味。耐久性。動きやすさ。それらをかねそなえた世界一の武器と防具を作れと」
ボビーが指で娘に合図した。娘が壺を持って来た。
「当時若い職人にレピタスという男がおった。レピタスは若いが当代随一の名工との呼び声が高かった。一匹のネコと暮らす気むずかしい独身男じゃったがのう。レピタスはその競技会で一位になりたいとねがった。世間はレピタスを世界一の名工とよんだ。しかしレピタス本人は確証がほしい。王さまから認められたかったんじゃ。ただ自分のみの力ではいちまつの不安がある。そこで」
ボビーが話を切った。ボビーが飲み物の壺をニックにさし出す。ニックはコップを受けた。ボビーが飲み物をそそぐ。リンゴジュースみたいな味だった。ボビーが話を再開した。
「そこでじゃ。レピタスは精霊を呼び出した。苦労の末にケヤキの木の精霊をな。その精霊がイピタスさまじゃ。いたずら好きな美少女であったと聞いておる」
「レピタスが呼び出したのがイピタス。よく似た名前ですね」
「いや。もともと精霊の多くは名前を持たん。イピタスさまにも名前はなかったろう。レピタスが名のったのでいたずら心を起こされたんじゃろうさ。きっとレピタスの一字をかえてイピタスと名のったのじゃ。よく似た名前になったのはそのせいじゃろう。よしんば名前があったとしても人間に本名を名のる魔物はおらんでの」
「なるほど。で。それからどうなったんです?」
「呼び出された精霊はいくつかねがいをかなえるのが常じゃ。イピタスさまは三つのねがいをかなえてやろうと提案した。どんなねがいでもかなえてやると。ところがレピタスは五つにしてくれとだだをこねた。イピタスさまは笑っておうじたと聞いておる」
ボビーがとつぜん眠りについた。ニックは待つ。しばらくしてボビーが起きた。つづきを話す。話が佳境に入る。するとまたボビーが寝る。そんなことをくり返した。
ニックはボビーが寝ているあいだにボビーの話を整理した。職人レピタスは精霊イピタスに武器防具作りを手伝ってほしいとねがったそうだ。
ネコを抱きあげたイピタスが答えた。
「魔法ってのはね。深刻なものにはかけないほうがいいの。くだらないどうでもいいものにかけるものよ。世界一の剣を作るために魔法を利用するなんてやめなさい」
職人のレピタスは納得できない。自分の腕と精霊の力が合わされば伝説の武器防具ができるはずだ。かならず世界一の称号を手にしてやると。
「いやだ。おれは世界一の剣や防具を作りたい。世間の評判じゃなく本物の世界一になりたいんだ。そのために力を貸してくれ。たのむイピタス」
イピタスが笑った。ネコの頭をなでながら。
「しかたのない子ねえ。じゃ力を貸したげる。何を作るの?」
待ってましたとレピタスは手を打った。
「第一のねがいは世界にたったひとつしかない名剣だ。この世のあらゆるものに効果をおよぼす魔法の剣を打ちたい」
イピタスがネコののどをなでる。ネコがのどをゴロゴロと鳴らした。
「ふむふむ。世界にたったひとつの名剣ね。了承したわ」
「第二のねがいはコテだ。どんな攻撃にもびくともしない最上のコテ。第三のねがいは胸あて。第四はカブトだ。精霊のまもりを持つ四つの武器防具を作りあげたい。それができたらおれは世界一の名工の名にはじない実績をえるだろう」
「わかったわ。ところで五番目のねがいは?」
「いまは思いつかない。あとでもいいか」
「いいわよ」
そんな次第でふたりは武器と防具作りをはじめた。レピタスの飼いネコはふたりをじっと見つめるだけだ。ひと月かかって四つの武器防具がそろった。精霊イピタスの加護と職人レピタスの技がつまった魔具だった。イピタスとレピタスの名前と紋章入りの。
レピタスはまず剣を手に取った。どんなものでも切れる剣だ。そう思って鉄のかたまりにふりおろした。レピタスは驚いた。切れる? それどころかあたらない。ためしにテーブルにふりおろした。やはりあたらない。剣がテーブルをよけた。空ぶりをする。スカッと。何を斬ってもだめ。とにかくあたらない。空ぶりばかり。
レピタスはイピタスに向き直った。目がいかりに燃えている。
「イピタス! なんだこの剣は!」
イピタスが冷たい笑みを浮かべた。
「斬らずの剣。世界にたったひとつしかない名剣よ。この世のあらゆるものに効果をおよぼす魔法の剣。例外はないの。あなたはそう望んだわ。あなたは言わなかった。どんなものでも切れる剣を作れとは。その剣はこの世のあらゆるものが切れない剣よ」
レピタスは口を引きむすんだ。たしかにそんなことを口走った。しかし剣だぞ。何も切れない名剣があるか。腹わたが煮えくり返る。こんな剣では世界一になれない。お笑い選手権じゃないんだ。
次にレピタスは苦い思いでコテを手の甲につけた。ナイフを腕にあてる。そっと引く。腕が切れた。血が流れる。かげんしてよかったと思いながらイピタスをにらむ。
「なんだこのコテは! 切れて血が出てるじゃないか! 約束がちがう!」
「そうかしら。コテを切ってごらんなさい」
レピタスはコテにナイフをあてた。傷ひとつつかない。どんなに力を入れても切れなかった。
イピタスがにっこりと笑う。笑顔が可愛い美少女だ。すっかりなついたネコがのどを鳴らしてイピタスの胸に飛びつく。
「どんな攻撃にもびくともしない最上のコテよ。あなたは人間を守れとは言わなかった。そのコテは守らずのコテ。どんな攻撃にもびくともしない。けど何も守れない」
「ああそうかい。そいつはよかったね」
次にレピタスは胸あてをつけた。今度はナイフでためすのはやめた。きっと防具としてつかえないに決まっている。
「この胸あてはどんな魔法がかかってるんだいイピタス?」
「動かずの胸あて。その名のとおり動かない胸あてよ」
「はい? 動かない胸あて? どういう作用があるんだ?」
「動かないの。ただ動かない」
「攻撃相手をとめるとか?」
「ううん。ちがう。動かないだけ。相手がとまるんでも自分がとまるんでもない。剣やこぶしがとまるわけでもない。ただ動かない」
レピタスにはわからない。
「なんなんだそれは?」
「だから動かない。ただそれだけ」
レピタスは会話を打ち切った。カブトをかぶる。カブトとは言うが革製の頭巾にしか見えない。魔法で頭を守ってくれるわけだ。軽くていいだろう。作っているあいだはそう思った。しかしこうなるとただの薄い革帽子では?
「このカブトの名はイピタス?」
イピタスが手についたネコの毛をふっと息で飛ばした。
「役立たずのカブト」
レピタスはプッチンとキレた。イピタスの可愛い顔がにくらしい。
「なんなんだよそれ! おれをバカにしてるのか! おれをからかって楽しいのかよ! 苦労してお前を呼び出したのに! 三ヶ月もかけてやっと成功したのに! 全財産を出してそなえ物を買ったのに!」
涙があふれてとまらない。いまから剣を作り直す時間はない。競技会は三日後だ。世界一の名工の名前がほしかった。しかし三日後にはこう呼ばれるだろう。競技会に出す剣すら打てなかった無能職人と。
イピタスがレピタスの頭に手をのばす。ネコをなでるようにレピタスをなでた。イピタスが口調をかえた。はるか年下の子どもをあやす口調に。
「泣くなレピタス。役立たずのカブトはわたしの自信作だ」
「どういう自信作だよ? 何の役に立つんだよ? 役立たずなんだろ?」
「そう。役に立たない」
「まんまじゃないかぁ! どう役に立たないんだ? せめてそれを説明しろ!」
「どうもこうもない。役に立たないだけ。とにかく役に立たない」
レピタスは笑いはじめた。自暴自棄だった。
「ははは。すばらしい。おれのひと月の苦労が何も切れない剣と役立たずの防具が三つか。なんのために苦労して精霊のお前を呼び出したんだ? カネもつきた。手に残ったのは笑いを取るための四つの道具か。お前まさか悪魔じゃないだろうな?」
「ふふふ。レピタスよ。お前は誰のために名声がほしい? わたしのためにか? そうじゃないだろ。お前自身のために名声がほしいはずだ。なのにわたしの魔力をこめた剣や防具で名声を手に入れるのかい? それでお前の名はあがるのかな? 何でもまっ二つに切る剣を作るのは簡単さ。でもそれはお前の手がらかい? お前はそんなくだらない剣を打つ世界一の名工になりたいのかな? 魔法の剣はわたしの名前だけを有名にするはずだ。最初に言ったろ? 深刻なものに魔法はつかわないほうがいいと。お前が自身の名声をほしいなら魔法にたよるな。くだらない三流職人にしかなれないぞ」
レピタスはさとった。がっくりと肩を落とす。
「たしかにそのとおりだ。魔法で世界一になったとて名工の名は手に入らない。おれがまちがってたよイピタス」
イピタスがレピタスの肩をたたく。ポンポンと。
「まあ気を落とすなレピタス。お前はいい仕事をした。この四つはどれも世界一の名に恥じない名品だ。ふさわしい者がつかえば絶大な威力を発揮するだろう」
「切れない剣が?」
「そう。切れない剣がだ。どんな道具にだってつかい道はある。人を殺すだけが剣じゃない」
「じゃほかの三つも?」
「とうぜんだ。わたしの魔力がこもった世界にたったひとつしかない道具だぞ。役立たずのカブトが最もすぐれた防具になるはずだ。つかい道をまちがえなければな。ところでレピタス。最後にひとつねがいが残ってる。そのねがいはどうする? もう放棄するかい?」
レピタスは考えた。どんなねがいがいいだろう? ふとイピタスを見た。いたずら好きな美少女がネコを抱いて可愛く笑っている。レピタスはひらめいた。
「第五のねがいはきみだ。イピタスきみがほしい。きみと結婚したい」
イピタスがあっさりと首を横にふる。
「そのねがいは却下だ。聞きとどけられない」
「そ。そんな。どんなねがいだってかなえてくれるって言ったじゃないか」
「そう。それはそのとおり。でもさっきも言ったけど魔法は重要なことにつかうものじゃない。もっとつまらないねがいにつかいな。黄金の斧がほしいとかね。そもそも魔法でわたしを手に入れてどうするのさ? あやつり人形な妻がほしいのかい?」
「な。なるほど。すまない。おれがまちがってた。魔法ってそういうものか」
イピタスが笑った。ネコものどを鳴らす。イピタスがまた口調をかえた。ウインクをひとつ。可愛いだけの美少女の顔にもどす。
「わかればいいの。けどいまのがプロポーズなら返事はイエスでいいわよ。精霊が結婚するなんて聞いたことがないわ。しかしできないでもないと思う。恋も自分の力で手に入れるべきよ。第五のねがいは保留にしとくわね」
ふたりは教会で結婚式をあげた。四つの魔具は知り合いの道具屋にすて値で引き取らせた。レピタスはさとった。魔法で手に入れたものはつまらない。世界一の名声より大切なものを手に入れたと。旅立つ前にイピタスは三つの魔具に新たな魔法をかけた。危険だから呪文をとなえないと作動しないようにだ。斬らずの剣。守らずのコテ。動かずの胸あて。その三つは呪文によって発動するようにかえた。役立たずのカブトだけは危険ではないので呪文はなしだ。
ふたりは道具屋からえたわずかなカネを手に旅立った。飼いネコ一匹だけをつれて。
ふたりと一匹は二度と人間の町に帰ることはなかった。
ボビーが目をさました。口をひらく。
「さて。ここからが本題じゃ。人間界に残された四つの魔具が問題じゃった。ニック。そなたがその道具屋ならどうする? 世界中にあるありとあらゆる物を切れん剣。何ひとつ守れんコテ。何ものをも動かさん胸あて。とどめが何の役にも立たないカブトじゃ。いくら世界一の名工と精霊イピタスさまの合作とはいえそんなものが売れるか?」
「売れないと思うなぼく」
「じゃろう? ではここで質問じゃ。売れない物を売る最上の方法は何か?」
「売れない物を売る最上の方法? そんなぁ。売れない物を売るんでしょ? ただで誰かにあげる?」
「それは売るとは言わぬ。逆じゃよ。途方もない高値をつけるんじゃ。道具屋は一週間なやんだ。売れない品をどうやって売るかと。なやみになやみつづけた。あげく疲れ切った。仕方がなく風呂につかった。そのときひらめいたのじゃ。バカ高い値で売ってはどうかと。道具屋はひとつの魔具につき百キロ四方の肥沃な領土が手に入る値をつけた。金持ちという人種は高けりゃ高いほどほしいとねがう生き物じゃ。世界一の名工と精霊の魔具の評判は世界中を駆けめぐった。高値が高値を呼んだ。魔具はついに四つとも売れた。伝説の四大魔具が伝説になったのはそのときじゃろう。真に伝説を作ったのはその道具屋じゃとわしは思うぞ。たしかに名工と精霊の合作は伝説の魔具じゃろう。しかし役に立たんものばかりじゃ。ふつうにつかったのではすぐにゴミあつかいされたはず。道具屋の機転で四つの役立たず魔道具は伝説の魔具としていまなお人の口にのぼる。売れば一生あそんで暮らせるほどの値がつく」
「そんな役に立たない物をほしがる人がいるんですか?」
「おる。すくなくとも五百年前にはおった。それにのうニックよ。役には立たんが何の役に立たんかわからんだけじゃ。斬らずの剣は呪文をとなえないときニンジンさえ切れん。じゃがなぐることはできる。しかし呪文をとなえると何物にもあたらなくなるのじゃ。この世のありとあらゆるものを剣がよけてしまう。切るどころの話じゃないんじゃよ。明らかに精霊の護力がやどっておる。呪文をとなえた斬らずの剣は刃先にさわることすらできん。そんな不思議な道具ならいくらはらってもほしいと思う者はおるじゃろう?」
「じゃその剣。いまはどこにあるんです?」
「五百年前は四大国が所持しておると噂に聞いた。どこの王家に何があるかまでは知らん。ただ四大魔具にはイピタスさまの紋章が浮き出ておる。ひと目でわかるはずじゃ。イピタスさまの紋章はユリの花に見える。四輪のユリが四方に花をひらかせておるようにの。ニックよ。そなたが手に入れてみてはどうじゃ? きっと役に立つぞ。ひとつ売るだけで借金などすぐに返せる」
ニックは顔をしかめた。借金取りに追われてるんじゃないんだと。しかし訂正すると話がおおごとになる。知らん顔をすることに決めた。
「なるほど。でもだめだよきっと」
「なぜかの?」
「だって王家の持つ宝物でしょ? 四つも集められるはずないじゃない。ひとつ買うおカネだってないよぼく」
「おおっ。た。たしかに。これはわしの不徳じゃった。ソロンの腕輪を持つ勇者が貧乏人だとは考えもせんかったわい。こりゃすまんかったのう。じゃがそのソロンの腕輪をつかえばどんな厳重な警備の建物からでも盗み出せるはず」
ニックはボビーをにらんだ。
「泥棒をしてまで手に入れる価値のある道具なの? それ?」
「ううう。痛いところを突きおるな。わしらの知っとる五百年のあいだ何につかうのか誰も見いだせん道具じゃ。ソロンの腕輪を持つ者なら有意義につかえるかと思うたのじゃが」
「このソロンの腕輪ってのも伝説の魔具なわけ?」
「そうじゃと思うのう。ソロンその人が生きた伝説じゃった。ただその腕輪はあまたあるいにしえの伝説より新しい。五百年前の魔法大戦争の直前に作られたもの」
「五百年が新しいの?」
「わしらにとっては昨日じゃ。しかしそなたの話では五百年前の魔法大戦争後に魔法はすべて姿を消したんじゃろ? それなら以来魔法をこめた道具は生まれておらぬはず。たぶんそのソロンの腕輪が最後に作られた魔具のひとつじゃろう。五百年前じゃが最新の魔具ということになる。ソロンは栄光にきらめくミルトムント史で最高峰に立った男じゃ。偉大なる三大魔法つかいの筆頭よ。そのソロン・ソロモンが身にまとった腕輪。それがそなたの手首をかざる腕輪の正体じゃよ」
「ふうん。この腕輪がねえ。ところで斬らずの剣を作動させる呪文って?」
「イピタスレピタスの愛よ永遠に。ほれ。そなたもとなえるがよい」
ボビーが宙に浮くアヒルを指さす。
ニックはためらう。
「いや。それ。ちょっとはずかしい呪文なんだけど」
「それならイピタスレピタスだけでよい。ふたりの名前が魔法を発動させる。このアヒルが第五のねがいじゃ。イピタスさまとレピタスは新婚旅行後ここに居をかまえた。すぐに最初の子が生まれた。そのとき子どものおもちゃに魔法をとレピタスがねがった。レピタスが彫ってイピタスさまが魔法をかけた。子どもをあきさせない魔法をな。このアヒルはイピタスさまの名を口にすると浮く。イピタスレピタスではなくイピタスさまだけじゃ。父親のレピタスがその意味に気づいたのはすこしのちのことじゃ。気づいたレピタスはおこったそうな」
「どうして? なんでレピタスはおこったわけ?」
「自分たちの子どもが最初に発した言葉がイピタスだったからじゃ。アヒルで遊ぶその子はしばらくイピタスとしか口にせんかった。母親の名前しかのう。もしアヒルを飛ばす呪文がレピタスであればどうなっておった?」
「レピタスと口にした?」
「さよう。父親の名を先に口にしたじゃろう。その子が父レピタスの名をおぼえたのはアヒルにあきたころだったそうじゃ。イピタスさまのいたずら好きは母になってもかわらんかった。そう言いつたえられておる。このアヒルはイピタスさまの名において命令すると指定した場所に飛んで行く。先ほどそなたを見つけたときは勝手に飛び出しおったぞ。イピタスさまの加護じゃろうのう」
「ふうん。ところでイピタスとレピタスはその後どうなったんです?」
「精霊は長生きじゃがレピタスは人間じゃ。イピタスさまと結婚したせいで寿命はのびた。しかしレピタスは百五十歳で死んだ。イピタスさまはその後もしばらく生きておった。じゃが夫のおらん世界は味気なかったんじゃろう。死ぬことにしたと言い残して木になった。外にある大ケヤキがイピタスさまじゃ。それから八百年はすぎておる。わしらはイピタスさまに守られてここにおる。気が向けばまた精霊の姿でひょっこりあらわれるやもしれん」
「いたずら好きな美少女ねえ。会ってみたいかも。あ。そうだ。ネコはどうしたんです?」
「ネコはまっ先に死んだそうじゃ。最初に生まれた子が大人になる前にの。以来ネコは飼わんかったと聞いておる。みじかい命は悲しいのでのう」
「なるほど」
ニックはがっかりした。てっきり化けネコになって大騒動を引き起こしたと想像したからだ。
「イピタスさまとレピタスの子孫がわしらホビットじゃ。精霊と人間の混血じゃな。そのせいかわしらの魔力は弱い。植物をふつうより大きく成長させる力しかない。そなたの役に立つ力ではないがたのみがあるなら聞いてやるぞ」
「たのみってんじゃないけどさ。イピタスの伝説の魔具が四つあるんでしょ? 作った本人ふたりがボビーのご先祖さまじゃない? その伝説の魔具のつかい道を教えてもらってないの?」
ボビーがこまった顔をした。
「残念ながらイピタスさまは笑うだけじゃったそうな。そもそもがいたずら好きなお方じゃ。誰が訊いてもその問いには答えなかったと聞いておる。それにその伝説の魔具はひとつとしてわしらの手元にない。見た者もおらん。つかい道を知ってもつかえん。話のタネになっておるだけじゃ。そなたが手に入れていろいろとためしてみてはどうかのう?」
「斬らずの剣? 守らずのコテ? 動かずの胸あて? 役立たずのカブト? どれもためす価値がなさそうなんだけど」
「かもしれん。相手がいたずら者ではのう。ま。そろそろ寝ようかい。あしたはそなたを案内してやろうぞ。ところでどこに行くつもりじゃ?」
「ミルトムント島」
「なるほど。魔法つかいになるんじゃな。そうかそうか。そなたはいい魔法つかいになりそうじゃ。せいぜい修業をつむがよい。大魔法つかいソロンの腕輪を持っとるんじゃ。そなたも大魔法つかいになれるかものう」
ニックは胸でつぶやいた。魔法がこの世界から消えて五百年になるんだけどねと。
翌日だ。ニックはボビーの案内でミルトムントを目ざした。しかし洞窟をはなれるにつれボビーの眠りが頻繁になった。大ケヤキから遠ざかるせいらしい。峠の途中でついに起きなくなった。
ニックはボビーをかついで引き返す。ボビーの目のさめる地点まで。
目ざめたボビーが頭をかいた。
「すまんニック。ここから東に山をふたつ越えれば港町のシバじゃ。シバからミルトムント島に船が出とるはず。気をつけて行かれよ。もっとも。力の腕輪をつかえば人間界では無敵じゃろう。山賊など指先でちょちょいじゃ。カネをかせぐのもその腕輪の力を利用すればよい。巨大な城壁も一日で作れようぞ」
「わかった。やってみるよ」
「わしらの力がほしければアヒルを飛ばすがよい。イピタスさまの名において命じればアヒルはわしらのところに飛んで来る。では名ごりおしいがさらばじゃ」
「うん。さようなら」
ニックはふり返りふり返り山道をのぼる。たったひと晩だけど心強かった。母も祖父も亡くした穴がすこし埋まった気がする。ミルトムント島まではひとり旅だ。しかし腕に味方がひとつついた。母からはめられたときは呪いの腕輪だと思った。いまではたのもしい仲間だ。このあとの人生はずっとひとり。いまからくじけていては生きて行けない。
ニックはほほに流れる涙をぬぐった。峠を目ざす。
一方ボビーは洞窟への道を眠りつつ歩く。数度目ざめて思い出した。
「おっと。しまった。あの木彫りのアヒルは持ってるだけでネコと話せるんじゃった。わしらの洞窟にネコはおらんからすっかり忘れとった。ま。いいじゃろ。ニックとはいつかまた会えるかもしれん。そのときに教えてやればよかろうて」