サキュバス拾ったら懐かれた
「え……。どういうこと……?」
学校から帰宅した太一は、愕然となっていた。
自室の床に、知らない女の子が横たわっていたのである。
「あ、あの……?」
恐る恐る声をかける太一。その時、彼はとんでもないことに気付いてしまった。
少女の頭からは、ヤギに似た角が突き出ている。また、背中にはコウモリのような羽が生えていた。
どう見ても異形だ。しかし、太一の目を真っ先に奪ったのは彼女の体付きだった。
むっちりと実り、少女の頭よりも大きな胸。ほっそりとした腰と、桃のように丸い尻。
そんな豊かな肢体を覆っているのは、恐ろしく面積の少ない白ビキニだった。
太一はゴクリと生唾を飲み込む。同時に、温かいものが鼻から流れ出るのを感じた。
「……っ!」
慌てて少女から目をそらし、机に置いてあったティッシュを鼻に突っ込んだ。ベッドの上の布団を彼女の体にかけてやり、やっと肩の力を抜く。
(……で、この子誰?)
太一は鼻血で汚れたティッシュを取り替えながら、首を捻る。
家を出る時には閉めたはずの窓が開いていた。少女はここから入ったのだろうか。
(……ひょっとして泥棒?)
太一は警戒心を強くしたが、盗人ならこんなところで呑気に寝ているのはおかしい気もする。
大体、この格好は何なのだ。角に羽? マンガか何かのキャラクターのコスプレだろうか? それにあのマイクロビキニは……。
少女の見事なプロポーションを思い出し、太一は顔を赤くした。ティッシュをもう一度詰め直す。
ふと、少女が身じろぎした。
「う、うーん……?」
少女はゆっくりとした動作で起き上がった。太一と視線が絡む。
(可愛い……)
清楚系の美少女だ。奥二重の目と長い黒髪が奥ゆかしげな雰囲気である。でも、体付きや服装はちっとも慎ましやかじゃない。そのすさまじいギャップに、太一は頭がくらくらしてきた。
「このお布団は……あなたがかけてくれたのですか?」
可愛らしい声で少女が尋ねる。太一はおずおずと頷いた。
「き、君、誰?」
クラスメイトの女子とすらろくに話したことのなかった太一には、急に現われたこの美少女をどう扱っていいのかまったく分からなかった。泥棒かもしれないという疑惑は、すっぽりと頭から抜けてしまっている。
そんな太一に対して、少女は丁寧にお辞儀しながら自己紹介した。
「私はティアモ。サキュバスです」
(……サキュバス?)
予想外の単語が聞こえてきて、太一は呆けた。少女……ティアモは構わず話を進める。
「空を飛んでいたら、鳥とぶつかってしまって。地面に落ちそうになったんですけど、どうにかこの家のバルコニーに着地できたんです。ただ、事故に遭った時に頭を打ったようで、意識が朦朧としてきて……。それで、ちょっと中に入って休ませてもらおうかと……」
「待って、待って!」
太一はティアモの話を遮った。
「君、俺のことからかってる? サキュバスってあれだろ? 男の精気を吸うっていう淫魔! そんなの、現実にいるわけないだろう?」
「いますよ。私がそうです」
ティアモは平然と返し、太一の首に腕を回した。
「信じないのなら、証拠を見せてあげましょうか? 今からあなたの精気を吸い取ってあげますね……」
ティアモが太一の耳にふぅと息を吹きかける。太一は「わあっ!」と叫んで、急いで壁際まで遠ざかった。
「よ、よくない、こういうことは! そんなことしちゃダメだ!」
「まあ……」
ティアモは太一の取ったリアクションに、ひどく驚いていた。
「私の誘惑を拒絶する殿方なんて初めてです。あなたって、とっても紳士なんですね」
(違う! ただ意気地がないだけだ!)
太一はティアモから目をそらす。その反応もまた彼女には好ましく映ったらしく、ぽっと頬を染めた。
「素敵……。あなたみたいな男性とお知り合いになれるなんて、私は幸運ですね」
ティアモがすり寄ってくる。太一は軽い混乱状態に陥っていた。
(俺が美少女に懐かれた!? クラスで一番目立たなくて、スクールカースト最下位の俺が!?)
何が何だか分からない。どうしてこうなってしまったんだ。
「お名前は何とおっしゃるのですか?」
「た、太一……。山村、太一……」
「太一様ですね」
ティアモは艶っぽく笑う。太一はますます真っ赤になった。急いで布団を引っ張ってきて、あられもない格好のティアモをグルグル巻きにする。
「まあ、お優しい。私が風邪を引くかもしれないと心配してくださっているのですね」
ティアモは何やら勘違いをして喜んでいる。太一はティアモをベッドに座らせ、自分は床に腰を下ろした。
「で、ティアモさんはサキュバスなんだよな? つまり……その羽とかも本物ってこと?」
「ええ、そうですよ」
ティアモは太一に背中を向け、器用に布団の隙間から羽を出してみせた。
「触ってみます?」
女の子の体に触るなんて! と思ったけれど、場所が場所なだけにあまり抵抗感はない。
それでも、太一は恐る恐る手を伸ばす。
「……温かい」
この羽には血が通っているのだ。そうと分かり、太一は心底驚いた。コスプレなどではない。これは本物の羽だ。
「っていうことは……ティアモさんは人間じゃない? まさか、本当にサキュバスなのか?」
「その通りです」
ティアモは自分の正体を認めてもらい、安堵したように羽をピョコピョコ動かそうとした。
けれど、その途端に「痛い!」と悲鳴を上げる。
「ど、どうした!? 俺、何かしちゃった!?」
太一は慌てて羽から手を退けたが、ティアモは「違います……」と言いながら、体の向きを変えて太一と向き合った。ちょっと涙目になっている。
「羽が上手く動かなくて……。ケガをしたみたいです」
「ケガ? もしかして、さっき言ってた鳥とぶつかった事故のせい?」
「はい、多分」
ティアモは壁際の姿見に背中を映し、困り顔になる。
「どうしましょう……。これじゃあ飛べません。仲間たちのところにも帰れない……」
「それは……大変だな」
ティアモがあまりにも不安そうな顔をするものだから、太一は何とか慰めてやりたくなった。
「治るまで時間がかかりそうなのか?」
「いいえ。サキュバスは回復力が高いんです。この程度なら、二、三日もすれば完治するはずです。でもその間、どう過ごしましょう……」
(……二、三日か)
思ったより軽傷のようだ。不意に、太一の頭にある大胆な考えが浮かんでくる。けれど、こんなことを口に出すのはためらわれた。
(いや、でも、ティアモさんは困ってるみたいだし……)
どうしようかと思い悩む。そこに、ティアモが遠慮がちにこう申し出てきた。
「あの、太一様。もしよろしければ、私のケガが治るまで、しばらくお側に置いてくださいませんか?」
「え、別にいいけど」
ティアモをうちに泊めてあげる。
それは、奇しくも太一がひらめいたのと全く同じ考えだったのである。
あっさり賛同が得られて、ティアモは顔を輝かせた。
「ありがとうございます! 太一様は命の恩人です! あなたは本当にお優しい方ですね! もちろん、タダで居候させていただく気はございません! お側にいる間は、たっぷりとご奉仕させていただきます!」
そう言って、布団から這い出てきたティアモは太一をベッドに押し倒した。
「テ、ティアモさん!?」
「うふふ。精一杯お勤めさせていただきますね」
ティアモが太一の頬を人差し指ですぅっと撫でる。
その時、部屋のドアが乱暴に開いた。
「太一! さっきから何をドタドタやってるの!」
母だった。母は、息子がベッドの上で美少女とイチャついているのを発見し、口をあんぐり開ける。
「か、母さん! 違うんだ!」
太一は跳ね起きて事情を説明しようとしたけれど、それよりも早くティアモが行動を起こす。素早く母に近づき、その耳元で何やら囁いたのだ。
母はしばらくぼんやりとした顔になった。けれど急に我に返り、ティアモに向かって満面の笑みを向ける。
「まあまあ、ティアモちゃん! よく来てくれたわねえ! しばらくうちに泊まっていくんだって?」
「はい。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくね。太一と仲良くしてあげてください」
母は鼻歌を歌いながら退出していった。太一はポカンとする。
「魔法を使ったんです」
太一が困惑しているのに気付いて、ティアモが事情を説明してくれた。
「耳元で秘密の呪文を唱えると、相手の記憶をちょっとだけ操れるんです。さっきはお母様に魔法をかけて、私を昔から知っている親戚の女の子だと思い込ませました」
「そんなことができるんだ……」
さすがはサキュバス。神秘的な能力を持っているらしい。
実を言うと、両親をどう説得するかは太一が密かに思い悩んでいたことだった。だが、ティアモのこの力があれば、問題はすぐに解決するだろう。
「お母様公認の仲になりましたね」
ティアモは太一にぴったりとくっつく。なんて柔らかな体なんだろう。太一は鼻に新しいティッシュを詰めた。このままだと、その内に体中の血が出てしまい、カラカラに干からびてしまうかもしれない。
「あ、あのさ、ティアモさん……。服、変えない?」
短期間とはいえ家に置くと決めたのだから、このままではまずい。特に、こんなマイクロビキニ姿でそこいらを歩き回ってもらうわけにはいかなかった。
「母さんの服、取ってくるよ」
太一は急いで庭に出て、干してある洗濯物から適当な衣類を見繕ってくる。ティアモに渡してあげると、抵抗もせずに身につけ始めた。
「どうです? おかしくないですか?」
着替え終えたティアモが尋ねてくる。太一は「うーん……」と唸った。
(母さんのおばさんファッション、ティアモさんには全然似合わないな……)
女の子の服のことなんてまるで分からない太一だったが、ティアモにはもっと別の服を着せてあげるべきだというのは何となく理解できた。
母の服が若者向けではないというのもその理由の一つだが、胸の辺りは苦しそうだし、ウエストはブカブカすぎて手で押さえないとずり落ちてしまうのだ。
でも、太一の家は両親を含めた三人家族。ティアモと年の近い姉や妹などはいないので、女物の服を調達するなら母を頼るしかない。
だからその案がダメとなると、新しいものを手に入れるしかなかった。
「……買い物、行こうか」
「わあ! デートですね!」
ティアモは笑顔になり、太一の手を取る。
そんなつもりはなかった太一は狼狽えたが、ティアモが腕に絡みついてきて柔らかい胸をむぎゅむぎゅと押しつけてくるものだから、とてもではないけれど反論するどころではなかった。
「ほ、ほら! 行こう!」
太一は床に放り出していた学生カバンを引っつかみ、もう一度鼻にティッシュを詰めながら急いで部屋を出る。ティアモが「待ってください!」と後ろからついてきた。
太一がティアモを連れていったのは、近所にある大型ショッピングモールだった。目についた店に入る。
(って言っても俺、どんな服がいいとかよく分かんないんだよなあ)
ここは素直に店員さんに任せる方がいいかもしれない。そう思っていたけれど、ティアモはノリノリで着るものを選び始めた。
(サキュバスって言っても、その辺りはやっぱり女の子なんだな)
太一は微笑ましい気分になる。サキュバスといえば男に誘いをかけて破滅させてしまう魔性の生き物のようなイメージだったけれど、ティアモにも年相応に可愛らしい面はあるらしい。
などと油断していたが、やっぱりティアモは淫魔だったということを、太一はすぐに思い知らされることになる。
「太一様、これなんていかがでしょう?」
試着室から出てきたティアモが身につけていたのは、紐と見間違うくらい布地が少ない下着だったのだ。太一の鼻から血が流れ出る。
「あと、スケスケのものと、フリフリのものもありますよ。太一様はどちらがお好みですか?」
「ダメ、ダメ!」
太一はカバンを引っかき回し、ポケットティッシュを取り出した。
「下着は普通試着とかしないんだよ! す、すみません。ちゃんと買い取りますから……」
太一は近くにいた店員にペコペコと頭を下げる。
「ついでに、この子にまともな服を選んであげてください」
ティアモを店員に押しつけ、太一はティッシュを鼻に詰め込む。通りかかった中年女性が、「面白い彼女さんねえ」と笑っていた。
「彼女じゃないです……」
太一はオロオロしながら反論する。「太一様!」とティアモが呼ぶ声がした。
「店員さんは、これがオススメだそうです。でも、何だか変じゃありませんか? 布地が多すぎる気がします」
服を着替えたティアモがくるんと一回転する。彼女がまとっていたのは、花模様の白いワンピースとピンク色のカーディガンだった。
「全然変じゃないよ」
変どころか、すごくいい。清楚なティアモにぴったりの装いだった。何より、詰め襟なので胸元がしっかり隠れているのが素晴らしい。丈も膝くらいまであるので安心だ。
「すごく……可愛いと思う」
「本当ですか? 嬉しいです」
ティアモが太一に抱きついてきた。また胸を押し当ててくる。太一は鼻に新しいティッシュを入れながら、胸部を覆うプロテクターか何かも買った方がいいんじゃないかと真剣に考え始めた。
「わあ! 太一様、あれ見てください!」
向かいの店に、ティアモの視線が移る。
「たくさんロウソクが並べられていますよ。今夜はあれを使って太一様を悦ばせてあげますね」
ティアモがスキップで店から出て行く。太一が「お会計!」と叫んだのは言うまでもない。
*****
その後も二人は、ブラブラとショッピングモールを散策する。人間の常識に疎いティアモの言動に困惑させられることも多かったが、それは太一にとって思いもかけず愉快な時間となった。
「今日はありがとうございました」
家路につきながら、ティアモが顔を綻ばせる。
「精気を吸う目的以外で、殿方とこんなに長い時間を過ごすのは初めてです。太一様と一緒にいられて、とても幸せでした」
「……うん。俺も楽しかった」
太一としても、身内以外の女性と長時間一緒にいるのは初めての経験だった。
ティアモは時にぎょっとするような行動に出ることもあったけれど、先が読めないという意味では彼女ほど面白い人もいないだろう。
太一は、ティアモは次にどんなことを言い出すのだろうとワクワクしている自分がいることに気付かずにはいられなかった。
このサキュバスが隣にいる状況に、すっかり馴染んでしまっていたのだ。
「明日もずっと一緒にいましょうね、太一様」
ティアモが太一の手を握る。
体同士を密着させる過激なスキンシップを好むティアモにしては珍しく、控えめなアプローチ。
でも、太一にとってはこれくらいがちょうどよかった。
手を繋いだまま夕焼けに染まる道を歩いていく。太一は意識的に歩く速度を落とした。
もう少しだけ。もう少しだけでいいから、この穏やかな時間を満喫していたかったのだ。
****
「太一様、ひどいです」
翌日。学校へ行く準備をしていた太一は、潤んだ目のティアモに上目遣いで睨まれていた。
「昨日はずっと一緒にいてくれるとおっしゃっていたではありませんか。約束を破るのですか?」
「約束はしてないよ」
太一は学生カバンを肩に担ぐ。
「しょうがないだろ。学校サボるわけにはいかないんだから。今日は無理でも、明日は祝日だから一緒にいられるよ」
「私は今太一様と一緒にいたいんです! でも、太一様は私よりも学校の方が大事なのですね! 太一様のおバカさん! 大好き!」
悪口なのかノロケなのか分らない言葉を吐いて、ティアモはぷいとそっぽを向いてしまった。何とかなだめようとしても、まるで聞く耳を持たない。
その内に登校時間が迫ってきて、やむなく太一は家を出ることにした。
けれど、学校に着いても頭に浮かんでくるのは家に置いてきたサキュバスのことばかりだ。
(ティアモさん……今頃どうしてるかな……)
カバンの教科書を机の引き出しに詰め替えながら、ため息を吐く。
(今日は授業が終わったら、早く帰ろう。それでまた、買い物にでも連れて行ってやるか……)
そんなことを考えていると、チャイムが鳴り響く。ホームルームの時間だ。担任教師が教室に入ってくる。
「今日は転校生を紹介するぞ」
担任の言葉にクラスメイトがざわつく。太一も興味を引かれて姿勢を正した。
が、入室してきた生徒を見て呆然となってしまう。
「院間之ティアモです」
(ティ、ティアモさん!?)
太一と目が合うと、セーラー服姿のティアモはニコリと微笑んでみせる。周りにいた男子生徒が興奮状態になった。
「今、オレに笑いかけなかったか?」
「すげえ可愛いし、スタイルもいいじゃん!」
「これって脈ありじゃねえの?」
(いや、俺を見てたんだよ)
太一は心の中でそうツッコんだ。うぬぼれなどではなく、事実である。
「では、彼女の席は……」
担任が空いた机を指差そうとする。でも、その前にティアモが彼の耳に何かを囁いた。魔法だ、と太一はすぐに気付く。
「山村の隣だ」
やはりというべきか、ティアモは太一の隣に座りたかったらしい。隣席の生徒が「空いてるとこでいいじゃん」とブツブツ言いながらも、荷物を持って席を移動する。
そして、その後釜として勝ち誇ったような顔のティアモがやって来た。
「これでずっと一緒ですね、太一様」
ティアモが朗らかに言う。チャイムが鳴り、ホームルームは終了した。
「ねえ、ティアモちゃん。前はどんな学校にいたの?」
「その角と羽、変わったアクセサリーだね!」
「教科書とかまだ揃ってないだろ? オレの見せてあげよっか?」
休み時間になると、ティアモの席の周りにはあっという間に人だかりができていた。
(すごい人気だな……)
クラスの中心にいる人気者の生徒たちまでティアモに興味を示している様には、太一も素直に感心せざるを得ない。男女問わず、サキュバスの魅力に皆メロメロになっているようだ。
彼らの邪魔にならないように、太一はそそくさとその場を後にしようとした。
でも、そんな太一をティアモは目ざとく発見し、「太一様!」と声をかけてくる。
「またデートしましょう! 校内を案内してください!」
ティアモが太一の腕にぶら下がる。クラスメイトたちは、呆気にとられたような顔になった。
『こんなに可愛い子が地味な奴とデート!?』
『仲良く腕なんか組んじゃって!』
皆の心の声が聞こえてくるようだった。
ティアモはそんな反応には一切構わず、太一を連れてさっさと教室を出てしまう。
廊下で二人だけになると、太一は早速ティアモに詰め寄った。
「何でここにいるんだよ!?」
「だって、太一様のお側を離れたくなくて」
ティアモは悪びれもせずに太一に体をこすりつけてくる。
「魔法を使って転校生ということにすれば、太一様といられると思ったんです。学校の場所はお母様に聞きました。制服はロッカールームからお借りしたものです。学生さんは皆お揃いのお召し物を身につけないといけないのでしょう? 私、ちゃんと知っているんですから」
えっへん、とティアモは胸を張る。
「お家に一人は寂しいです。私、太一様と一緒じゃないと嫌なんです」
こんなにも自分を慕ってくれるティアモに、太一は心を動かさずにはいられない。
よく考えればこのことで何か迷惑を被ったわけでもないし、彼女のしたことを怒ったり咎めたりするのは道理に合わない気もしてきた。
「家に置いてったりしてごめんな」
太一はちょっとためらいながらも、ティアモの頭を撫でてあげる。
「勝手の分らない人間の世界に放り込まれたら、不安にもなるよな。分ってやれなくてごめん。……今度は約束する。今日は一緒にいよう」
「太一様!」
ティアモが太一に抱きついてきた。
「やっぱり大好きです、太一様! この溢れ出そうな気持ちを表すために、この場で太一様を気持ちよくさせてあげますね!」
ティアモが太一の制服を脱がしにかかる。
そんな二人に、近寄ってくる者たちがいた。
「おっ、見たことない子がいるじゃん」
「君、すごく可愛いねえ」
チャラチャラと制服を着崩した男子生徒だ。げっ、と太一は顔をしかめる。普段の彼の学生生活においては、まったく縁のない人種だったのだ。
男子生徒は、馴れ馴れしくティアモの肩を抱いた。太一はますます不快な気分になる。
「あの……?」
ティアモはきょとんとする。男子生徒はティアモを品定めするように、上から下まで眺めた。そして、制服の上からでも分かる豊かな体の線に、今にも舌なめずりをしそうな顔になる。
さすがの太一もこれ以上は見ていられなくなって、思い切って「おい!」と声を張り上げた。
「この子は俺の連れだ。だ、だから、ベタベタ触るんじゃない」
「は? 何、お前」
「こんなのが連れとか、この子がかわいそーじゃん」
男子生徒は小バカにしたような笑いを浮かべる。
「行こうぜ」
「オレたちと楽しいことしよう?」
「ですが、太一様が……」
「あんなの放っておけばいいじゃん」
強引に肩を引っ張られたティアモは、「きゃっ」と短い悲鳴を上げる。
太一は頭に血が上るのを感じた。
視界の端に、誰かが掃除用のロッカーに入れ忘れた箒が映る。それを手に、太一は男子生徒に躍りかかった。
「やめろ! ティアモさんを離せ!」
「痛っ! 何だよ、こいつ!」
「意味分んねえ!」
悪態をつきながら、男子生徒は走り去っていった。箒を投げ捨て、太一は肩で息をする。
「太一様!」
感激したような声で、ティアモが太一に飛びついてきた。
「私を助けてくださったのですね! なんて勇敢なのでしょう! さすがは私の太一様です!」
「いや、別に俺は勇敢なんかじゃ……」
ティアモが太一の頭を豊かな胸に抱いたので、それ以上は何も言えなくなってしまった。
「太一様は勇敢ですよ」
ティアモが太一の頭を撫でる。太一は顔中を包む柔らかな感触に翻弄されながら、ティアモの借り物の制服を鼻血で汚すまいと必死になっていた。
「勇気がなければ、あんなことはできなかったはずです。そうでしょう?」
ティアモがようやく解放してくれた。太一の顔を見たティアモは「あら、大変!」と言って、ハンカチで彼の鼻の周りを拭く。
甲斐甲斐しくお世話をされながら、太一は先ほどの出来事を考えていた。
(勇気がなければあんなことはできない、か)
ティアモの言うことももっともだ。それにしても、先ほどの負けん気は一体どこから出てきたのだろう。いつもの太一なら、不良に片足を突っ込んだ生徒にケンカを売ろうだなんて考えもしなかったはずだ。
「はい、綺麗になりましたよ」
ティアモがふんわりと笑う。その笑顔を見た太一は、ふいに気付く。自分の勇気の源は、この少女にあるのではないだろうか、と。
(俺はティアモさんをあの二人に連れて行かれたくなかった。だから根性を振り絞ってあいつらを追い払ったんだ)
そこまでして太一がティアモを手放したくなかった理由は一つしかない。太一はティアモを好きになってしまったのだ。
衝撃の事実に動揺する太一だったが、予鈴の音に我に返る。
「教室、戻ろうか」
「はい。どこまでもお供いたします、太一様」
人の気も知らないで、ティアモはのほほんと微笑んでいた。
****
その後の太一は、放課後になって帰宅しても、ずっと浮ついた気持ちのままだった。
原因はもちろん、自覚してしまったティアモへの特別な感情にある。
(参ったな……。サキュバスに恋なんて……)
今まで恋人なんていたことがない太一は、この恋心をすっかり持て余していた。何をどうすればいいのかさっぱり分からない。
そんな太一の様子の変化に、ティアモは敏感に気付く。
「太一様、何だか変ですよ」
自室でくつろいでいると、ティアモが太一の顔を覗き込んできた。
「そわそわして落ち着かないように見えます。何かあるのですか?」
(君を好きになっちゃったんだよ)
心の中で返し、太一は顔を赤くする。そして、「別に」とティアモに背を向けた。
(ティアモさんは俺を勇敢だって言ったし、俺も自分のことを頑張れば勇気を出せる奴なんだって思い始めてた。でも……それは間違ってたのかもな)
本当に勇ましい心の持ち主なら、ティアモへの恋心を抱いた瞬間に、堂々と「好きだ!」と言っていただろう。
でも、太一にはそんなことはできない。やっぱり自分は意気地なしなのだ、と悶々とした気分になる。
一方のティアモは、「そうです!」とポンと両手を打つ。
「気分が乗らない時は、お風呂でサッパリするに限ります! 私、お背中流しますね!」
ティアモは意気揚々と服を脱ぎ始める。太一は「そんなことしなくていいから!」と慌てた。
「俺、宿題しないといけないからさ。少し静かにしててくれないか?」
太一は逃げるように机に向かう。背中にティアモの構って欲しそうな視線が刺さったけれど、振り向く気にはなれなかった。
(……まあ、いいか。これは今すぐにどうこうしないといけない問題じゃないんだ。ゆっくり時間をかけて、慎重に事に当たろう)
太一はそんな風に考え、気持ちを落ち着かせた。
だが、翌日、事態は急展開を迎えることとなる。
****
朝起きると、自室にティアモの姿があった。
(まさか、寝込みを襲う気で……!?)
太一は身を硬くしたが、ティアモは彼が起きたことにすら気付いていない様子だ。
出会った時と同じビキニ姿で、窓枠に肘をつき、ぼんやりと外を見ている。
「ティアモさん……?」
どことなく漂う物憂げな雰囲気に、太一は次第に心配になってきてティアモに話しかけた。振り返ったティアモは、寂しそうな笑顔を見せる。
「今日はいいお天気ですね。絶好の……飛行日和です」
「飛行?」
「……朝起きたら、羽の痛みがすっかり引いていました」
ティアモが背中の羽を上下に動かす。太一はハッとなった。
(そうだった……。ティアモさんがここにいるのは、羽のケガが治るまでの間だった……)
そんな大事なことを今まですっかり忘れていた自分が恨めしくなる。どうしたらいいのかと途方に暮れるしかない。
「今までお世話になりました」
ティアモは深々と頭を下げた。
「太一様のことはこの先もずっと忘れません。私の大好きな方ですから」
「あ……う、うん……」
二人の視線が混じり合う。ティアモは太一に何か言って欲しそうな顔をしていた。
けれど、太一は声にならない声を出すことしかできない。ティアモは諦めたように背を向けた。
「では、失礼いたします。これからも、時々遊びに来ていいですか?」
「別に……いいけど……」
「ありがとうございます、太一様」
ティアモが羽を広げ、窓から外に飛び立つ。長い黒髪がふわりとたなびき、太一の頬をそよ風が撫でた。
遠ざかっていく愛しいサキュバス。小さくなる背中を見つめる太一の脳裏に、彼女と過ごした日々が蘇ってくる。
楽しくて、ドキドキして、甘い感情に彩られた時間。
太一は反射的に声を上げた。
「ティアモさん!」
けれど、すでに豆粒のような大きさになってしまっているティアモには、彼の声は届かない。太一は居ても立ってもいられなくなり、家の外に飛び出した。
「ティアモさん! ティアモさんっ……!」
靴も履かず、大声を上げながら住宅街を駆け抜ける。早朝だからか周囲には誰もおらず、そのために太一は自分の声が遠く遠く響いていくような錯覚を覚えた。
太一は脇目も振らず、空を飛ぶティアモだけを見つめている。すると、気のせいだろうか。小さくなっていくはずの彼女の姿が、段々と大きくなっているように見えた。
(……いや、気のせいじゃない!)
ティアモは実際にこちらに向かって飛んで来ていたのだ。目を丸くしながら、「太一様!」と叫んでいる。
「太一様! 外出する時は靴を履くんですよ! うっかりさんですね!」
太一の傍に降り立ったティアモは、困ったような顔をしている。太一は体を二つに折りながら、痛み始めてきた脇腹を押さえ、息を整えた。
「ティアモ……さん……。待って……」
「はい、待っていますよ」
ティアモは平然と返す。その泰然自若とした態度がおかしくて、太一は微笑まずにはいられない。
生真面目だけれど、どこかズレていて……。ティアモのそういうところに、太一はたまらなく惹かれてしまうのだ。
そして、今の太一なら、そんな自分の気持ちを素直に口にすることができた。
「好きだよ、ティアモさん」
太一はティアモの黒い瞳を真っ直ぐに見つめる。
「これからも時々遊びに来てくれるって言ってたけど、たまにじゃなくて、しょっちゅう来てくれたら俺は嬉しい。俺にも羽が生えてたら、こっちからティアモさんのいるところにも行けるんだけど……」
「太一様!」
気が付いた時には地面に押し倒され、ティアモに力の限り抱きしめられていた。
「本当ですね!? 本当に私を好きと言ってくださるのですね!?」
「うん、もちろん……」
「私も大好きです!」
ティアモは歓喜して、太一の唇に自分の口を押し当てた。
太一は頭が真っ白になる。
「ふふふ……。私たち、明日からもずっと一緒ですね」
「……そうだな」
太一は頬を伝う鼻血を拭いながら頷く。
どうやらこれからも、この自由奔放なサキュバスに振り回される日々は続きそうだ。
それは、太一が勇気を出してつかみ取った幸福な未来だった。