導入
その日は、小雨が降っていた暗鬱な日であった。初夏には似つかわしくないネズミ色の曇天からの小雨は、アスファルトにしとしとと降り、その地面を濡らしていた。時折、わずかながらの微風が傘を持たない僕の頬をいくらか緩ませ、湿った土の香りを鼻孔に届けた。
ふと、視線を転じると新緑の木々の葉らが雨滴を弾いていた。だが、僕の心情は頭上の空模様とはうって変わって対照的であった。
日直として放課後に学校での雑事を行っていたため、必然的に帰りが遅くなった5月の某日。常人にとっては不幸というべき事象かもしれないが、少なくとも僕にとっては全く不幸ではなく、いくらかの幸運も含んでいた。なぜなら……委員長、好意を寄せている委員長と放課後に話すことができたのだから。たとえその会話の内容が些細な挨拶だけだったとしても、僕は彼女と教室で二人きりの状況を共有できた事実だけで今日1日が素晴らしい1日だったと思うことができた気がした。
そんな享楽にふける僕をよそに雨足は強まり、いよいよその存在をはっきりと知覚せざるを得なくなった。傘を持たない僕の衣服に雨粒は吸い付き、体温をじわじわと奪う。意識的に足を早めた僕には、徐々に勢いを増す雨は全てを飲み込もうとする悪のようなものの象徴に見えた。
程なくして家に辿り着いた僕は、夕食の用意をしている献身的な、そしてどこか抜けている母を尻目に二階に確固として確立されている自部屋へと駆け込んだ。なんて事はない、ベッドと本棚と机があるだけの簡素な部屋である。僕は取り敢えず、その辺に投げ捨てられているハンドタオルでしっとりと滑らかなつやを出している髪を雑に拭いた。そして、何とはなしに机に目を移すとあり得ない現象が僕の眼前に存在していた。その机はカタカタと引き出し部分が何らかの存在を指示しているように振動していた。
「何だこれ……」
僕は一瞬、机に伸ばしかけた手を硬直させた。テレビでしか見たことのなかった理屈では説明できないような怪奇現象。まさにこれこそがそうなのではと直観的に僕は悟った。未だ振動は続いていて、鳴りやむ様子を微塵も感じさせない。僕は、この現象に対する処置を決めかねた。誰かに助けを呼ぶか、はたまた生物的な本能に背いて引き出しを開けるか。その時、一筋の稲妻が僕に決断を促すかのように虚空に耳がつんざくような音がこだました。僕が選んだのは、後者であった。
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