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子曰く  作者: 神秋路
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春麗か ⑤

「ほんとごめん!」


 波美は、顔の目の前で手をぴったりと合わせてしきりに謝罪した。その横では、魔女が『嫁に騙されていることに一切気づかなかった親友』と『ほんの冗談の仕返しで遊んでたつもりだったのに、旦那が本気で受け止めてしまって収拾がつかなくなったその妻』という構図がツボにはまって文字通り腹を抱えて笑い続けている。散々謝罪された凪はもう正気に戻っており、波美に下げた頭を上げるように諭した。


「もういいから、気にしないで。僕なら大丈夫だから」

「でも、相当びっくりさせちゃったでしょう?」

「うん、それはびっくりした。でも、別に怒る事じゃないんだから謝らなくても良いんだよ」


 聞くと、いびられる想像をしたあたりから全て演技だと彼女は言う。初めから罠に嵌められていたのか、とも思ったが、これだけ自然に相手を騙せるのだからすごいと感心してしまう。


「どちらかと言うと波美はいびらせない子だもんね」

「もちろん。凪と初めて会った時から、凪のためあらなんだってする、凪と幸せになれるならなんだって乗り越えるって決めてるんだから」


 波美は、彼女らしく胸を張った。


「あはは、それは嬉しいな」


 彼女にそれを言ったことは無かったが、波美のストーカー行為や自分に対する溺愛っぷりが気持ち悪くないかと聞かれたことがあった。そのような問いには必ず「何となく」で済ませるのだが、はっきり言えば凪自信は波美のこのような行為は全て嬉しくてたまらないのである。


 子供の時からの母親の厳しい教育、近所のクラスメイトからのいじめ、その他のクラスメイトからの腫れ物に触れるような扱い…ある程度の年齢になるまでまともな扱いを受けたことが無かった凪は、波美に付きまとわれていると気づいた時、「気持ちが悪い」という感情より「自分は興味を持ってもらえている」というある種の高揚感のようなものを感じた。男女というものもまともに分かっていなかった彼は、波美がいなければ今でも独り身だっただろう。

 その時彼は初めて恋をして、初めて独りでは無くなった。そう自覚したとき、自分の中のどこか足りなかったところが埋まったような気がして、少々窮屈だった。けれど、不快では無かった。

 そうして彼は、彼の中で大切にしたいものが増えていった。自分の身でさえどうなっても良いと思っていたが、今では大切なものの中の一つである。


「はあ…いい天気だなあ」

「何をいまさらしみじみ言ってるのよ。もう夕方前よ」

「そっか、じゃあ日向と出雲を起こした方が良いよね」


 彼らが動き出したその時、


「あ!道心さーん!」


 という、命の声が聞こえてきた。声のする方は孔と同じ母家からである。


「ああ、命ちゃんは起きたのかな」

「道心さん!もう帰っちゃったのかと思った」

「いや、これからちょっと久しぶりに運動しようと思ったんだけど、宮司さんがやめろって言うから…」

「本当にやめて。何か壊れでもしたらどうするんだ」

「…というわけで、夫婦水入らずのところだから俺はもう帰ろうとしてたところだったんだ」

「何が夫婦水入らず、よ、呆れた」


 脇から悪態を吐かれても、孔はどこ吹く風だ。


「私ももう帰ろうと思っていたの。うっかり眠ってしまったし、道心さんがいるなら、もう少し魔法の勉強してても大丈夫かも」

「ああ、それはダメ。休むならちゃんと休まないと体に良くないから。家まで送るよ」

「分かった。ありがとう、道心さん」

「というわけだから、あとはお前ら二人で楽しんでくれ、それじゃ」


 孔は、そう言うや否やさっさと命を連れて石段を下りて行った。ほんの一瞬のような短い間での出来事で、残された二人は、自分たちがいる社務所前だけ時間が止まったような感覚に襲われた。


「…どうしん?」


 しばらくして、波美はやっとその一言だけを口にした。


「ああ、孔がよく使う偽名だよ。知らなかったっけ?」

「聞いたこと無いかも。何でどうしんなんて珍しい響きの名前を使うのよ?目立つじゃない」

「どうしんは、道の心で道心。フルネームで菅道心なんだけど、この字面に心当たりないかな」

「…あ」

「通り名が『天神』になったからって、誰かが付けてくれた名前なんだって。あいつにとっては、この名前は別人になるためが目的で使うんじゃなくて、その名付け親を忘れないために使ってるんじゃないかな」

「ふうん…あいつって、よく色んなものに執着するわよね」

「うーん…言い方は悪いけど、確かにそうかもね。…さて、もうちょっとお仕事頑張るかあ」


 凪たちは、終業時間までの残り時間の長さにうんざりしながら社務所の中へ戻っていく。それからはちらほらと参拝者が見えたが、やはりいつもと比べると数は少ないように思われた。


「執着かあ…だから孔は『天才』なんて言われるんだろうなあ」


 慌てるように石段を下りていく真っ白な白衣が目に浮かぶ。いつからその姿が当たり前になったのか覚えてはいないが、一番彼らしい姿だろう。


 既に日は傾き、冷たい風からは心地よさが失われてただ『寒い』とだけ感じさせる。開け放していた窓を閉め、少しの間だけ暖房を付けることにした。


 それにしても、今日は一日中頭の中がふわふわしていたようにも思える。



春の開花までもうすぐだ。

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