もう諦めて ①
「お疲れ様です、神崎先生。いつも遅くまでよくやりますね」
武藤は、孔が忙しくしているのを察してか、静かに声をかけてきた。一方孔はと言えば、もちろん作っていた薬は授業に使うものでもない『商品』なので、それだけは見られまいと慌てて武藤の死角に道具を隠すようにした。
「あ、ああ、お疲れ様です、武藤先生。先生はもうお帰りですか?」
「いえ、まだまだ仕事は残っています。…でも、あまり仕事ばかりしてても窮屈で仕方無いでしょう?神崎先生がいつもこの時間は化学室にいると聞いていたので、なんとなく来てみたんです」
「そ、そうなんですね…すみません、薬臭いでしょう?」
「ですね。でも、なかなか嗅げない匂いですから」
武藤はふにゃっと笑って見せる。この笑顔を見た瞬間、凪とは違うタイプの好青年だ、と孔は感じた。どちらかといえば、やりやすそうな。
「いや、慣れていない人には毒でしょうから、換気しましょう」
「ああ、神崎先生、本当に紅茶にお詳しいんですね。凪から聞いていた通りだ」
急いで窓を開けようとしていると、武藤は何故だかそんな事を言い始めた。振り向くと、まじまじと楽しそうに孔のティーセットを観察していた。
「…凪はそんなに俺の事を話していたんですか?」
「ええ、結構色んな事を聞きました。本当に話しても良いのか、っていうところまで」
(あのやろ、次会ったら採血してドッペルでも作って殺してやろうか…)
孔の中に、数年ぶりに強い殺意が生まれた瞬間だった。
「でも、本当に凪は神崎先生のことをよく話していました。心配もしていたようだし」
「互いに互いを心配していた関係でしたから。あいつもあいつで、家でも外でも居場所は無かったものですから、高校卒業して大学のために地元を出る直前に俺の目の前で泣いたりしてたくらいですからね」
凪の話で釣りながら、そそくさと怪しまれないように道具や薬を片付けていく孔。しかし、ド天然の域が凪を超えているのか察しが良いのか、武藤はそれを見逃さなかった。
「いつも何の薬を作っているのですか?」
「え?い、いや、そんな御大層なものは作っていませんよ」
「へえ、前の化学の先生はもっと凄そうな物を作っていましたから、そういう人はみんな薬を作ったりしてるのかなって思ってしまいまして…」
「さあ、物好きなだけでしょう。俺はハエトリグサの養分になる薬を作ってただけですよ」
凪の友人とは言え、さすがに自分があの大沢とかいう化学者以上のことを成しているなんてことは口が裂けても言えない。何とか下手な嘘でも良いから、武藤の意識を逸らしたかった。
「それより休憩がてらにこっちに来たんでしょう。紅茶でもどうですか?」
「いえ、ありがたいんですがあんまり席を外していると怪しまれてしまうかもしれませんから、今日は遠慮します」
「そうですか」
ならとっとと帰れよ…!という気持ちを抑えながら、孔はただニコニコと笑顔を向ける。それに負けじと武藤もずっと笑顔のままだった。
「そういえば、長谷川とは仲がよろしいんですね」
「…?長谷川とは?」
「いつもここに来る女生徒ですよ。長谷川八千代。うちのクラスの生徒の……」
「ああ、あの生徒ですか。詳しい名前などは聞きそびれていたので、分かりませんでした」
長谷川八千代。あの有名な小説家の柳原なんとかという名前は、やはり本名ではなかった。生い立ちには似合うものの、見た目から見ると似つかわしくないその名前を、孔はゆっくりと飲み込んだ。




