小説家のお言葉 ⑤
教員生活二日目。彼は人に物を教えるのはこれが初めてではなかったため、授業も上手くこなす事ができた。問題生徒が出てしまったとしても、担任に報告すればいいだけなので、さほど苦労することもなかった。年下の学生に興味が湧かないので、気にならなかったというのもあった。当然、担任するクラスも無いのだから、授業が無い時間や昼休みなどは化学室で静かに過ごせばよい。自分がこの仕事から抜け出すまでそんなに時間を要するわけでもないし、人間関係を作ったところで意味なんて無い。
……のに、関わろうとするしつこい者が出てしまう。
「…またお前か。昨日は悪かったな。未だに納得できてないけど」
「いや、わたしも悪かったね。少し感情的になりすぎていたよ。先生がわたしのことを全て知っているわけでも無いのにね。感情に任せてそれをぶつけたところで、相手が何をできるというわけでも無い。勉強になったよ、これから書く小説に役立ちそうだ」
「待て待て待て、勝手に役に立てるな」
「でも先生として生徒が成長するのは嬉しい事だろう?」
「言わなかったか?俺はお前らみたいなお子様には興味が無いんだよ」
「という割には随分親しげなようだねえ」
「大人だからなあ、大人は嫌いな奴に対してもきちんと愛想よくできるんだよ」
「へえ、わたしもあと二年待てば立派な大人なのか。これは興味深い事を聞いたね」
「お前なあ……」
彼女はいつも、二歳だけとはいえ年上の孔の一歩先を歩き、その世界を見ていた。巫女の血によるものなのか、小説家としての才能によるものなのか、それとも彼女自身の特性なのかは誰にも分からない。しかし、これまでの人生でいつも人の上を歩いて生きた孔にとってはそれは初めての事であったので、なんともやりづらさを感じていた。
「…先生」
「何だよ」
「……聞いても良いかな」
「何なんだよもったいぶって。お前らしくも無い」
「先生はどうして『薬』を選んだの。魔法は、他の術とは比べ物にならないくらい可能性が広がっているというのに。どうして自分の力の幅を狭めようとするような物を選んだの?」
少しの間、沈黙が流れた。孔は、少しずつ言葉を選びながら答えた。
「可能性が広がるから」
ただ、それだけ。
「薬は、そんなに凄い物なのかい?」
「薬品という物自体はそんなに御大層なもんじゃないよ。けどな、薬品は別のものと掛け合わせる事で全く違う物にもなれる。合わせようによっては一瞬で人を殺す事だって出来るし、人を助ける事だって出来る。色んな表情を持っていて、色んな人格を見せてくる。それを人間の力だけで全て表そうなんておこがましい事だと思うけどな」
「つまり、何を言いたいの?」
「分からない?俺はそんな薬品に惚れたの。ただそれだけ。他の理由なんて無い」
「…はあ」
「だって面白いだろ?俺の力ででしか見せてくれない姿もあるんだ。努力次第では、もっと凄いものだって見せてくれる。俺にしか見せない姿の山が俺の前に広がってんだ。何なら、俺の魔法の視野も広がるし、目的も増えることになる。俺みたいな現代薬学を使った魔女なんていないから、俺だけの知識と言っても過言じゃないんだ。…そんなの、愛おしいとさえ感じるだろ?」
「先生、ここまで来たら気持ち悪いよ。マッドサイエンティストってやつかな?」
「そんなのもう聞き飽きた。今となっては誉め言葉だよ。…ところで、どうしてそんな事を?」
彼女は少し考えた。
「…何となく。術者の先輩には色々聞いておいた方が役に立つだろう」
「どうだか。俺はそんなもの無くとも生きて来たけどな」
「時代は変わるということだよ」
二人しかいない化学室に、真っ赤な夕日が差し込む。窓際に座って薬品を弄っていた孔にだけはその光が当たった。入り口側に立っていたためにその光を一切浴びていない女生徒の目には、夕日に反射して輝く孔の瞳がまるで宝石のように映った。どのような宝石に例えればよいのか分からない色をしている。しかし、彼女はある台詞を思い出した。
「……それは緑色の目をした怪物…人の心をなぶり物にして餌食にする…」
「あ?誰が何だって?」
「何でも無いよ。以前読んだ本にあった一文だよ」
「それじゃあ今日はもう遅いから私は帰ることにするよ」と、女生徒は鞄を持ち直して帰って行った。
「そうだ、先生」
「なんだ?」
「もしかしたら、もうすぐ武藤先生が来るかもしれないね。なんだか、神崎先生に用事があるような事を言っていたからね」
なんて、一言を残して。
武藤というのは社会科担当の教師で、校内の状況を凪に話した張本人でもある。つまり、凪の大学時代の友人とは、この人の事である。この学校に来てから、ほんの数回しか話していないのであまり関係は少ない相手ではあったが、向こうから用事があると来てくれるとは思ってもみなかった。
そして彼女が言い残した通り、すぐに武藤はやって来た。




