馬鹿と変態と喪失症 ②
「あだだだだだだ!!! 馬鹿馬鹿馬鹿!!」
「誰が?」
「あああ、ごめんなさいごめんなさい!! 分かった、分かったから!!!」
「さすが、「天神様」は物分かりが早くて助かるよ」
「いってえ……どの口が言ってんだよ……」
「それで、このとっても清らかな聖水とやらは、何かな? 何をしたの?」
今度は本人の目の前で容器を揺らして見せる。凪の言う通り、後ろめたいことがあるから触れられたくなくてわざわざ後ろを向いたのに。嫌がらせを受けた孔は、もう逃げられないと観念して重い口を開いた。
「……これに浸して首切った」
「この馬鹿!!」
答えを聞いた瞬間、彼の残りの生涯の分なのではと思われるほどの凪の怒声が耳元で響いた。いつもは大人しくて物腰の柔らかい彼が、娘や息子がいくらいたずらをしても一切出すことのない声だ。
「なっ……んだよ」
「確かに僕は、君に良い意味で「呪いを振りまいている」と言った。言ったけど、自分に呪いをかける馬鹿がどこにいるんだ!」
「その気だったんだから当然だろ! その方が死ねるんだ、それは実験済みだったんだ!」
「……前に試していたの?」
「もちろん。昔のことだけどな! これ以上ないってくらいに痛かったし、一滴垂らしただけなのにそこからどんどん爛れていったんだ! 何も考えないでやってしまったものだから、どうしたらいいのか分からなくて後処理も大変だった。今回は、ちゃんとできると思ったんだけどな……」
「そんなに……」
寂しそうにつぶやく孔を見て、凪は少し胸が痛くなった。あれだけ近くにいたのに、彼が命を絶とうとしていたことに気づかなかったのだ。
「どうかしてたからさ。今はお前のせいで死ぬ気も失せた」
「それは良かった。君に死なれてしまったら、僕は本当に自分の内側に閉じこもってしまう所だった。前みたいに」
「そうやって脅すからお前は質が悪い」
「ところで、この聖水の出所はどこなの? 幾ら魔法薬のためとはいえ、魔女がわざわざ求めるとは思わないけど」
「知りたいか?」
「教会の聖職者と知り合いとか?」
「お前の嫁だ!!」
今度は孔の怒声で凪が驚く。お構いなしに次々とまくし立てた。
「いつだったかお前の嫁が突然訪ねて来て、わざわざ置いていったんだ! いらねえってさんざ言ったはずなのに、気づいたら机の上にあるんだよ! お前の監督不行き届きだ、ちゃんと躾けとけ!!」
「躾って、ペットじゃあるまいし……波美がそんなことを?」
「おうおう、間違いなくあの女だったね! あいつもいち術者なんだから、俺が聖水ダメだって分かってるよな?」
「もちろん。だけど、きっと君のことをからかいたいだけだし、多めに見──」
「これで俺が死ねるんだから大目に見れるわけねーーーーーーだろ!!」
「……厳重に注意しておきます」
まさか犯人は自分の妻だったとは微塵も思わなかった凪は、頭が痛くなったのに耐えながら肩をすくめた。しかし彼は、彼の生い立ちのせいで家族を厳しく責めることはできない。それが彼の良いところでもあり、弱点でもある。
お互い冷静になった後、ふと孔はあれだけ出血しておいてなぜ今元気にしているのか不思議に思った。いくら凪でも、孔が作っておいた薬を自力で判断して使用するなんてことはできない。
「神様が手伝ってくれたんだ」
彼はそれだけ答えた。
治癒の魔法が使えない孔は、自身の治癒力も人並み程度しかない。そこで、凪の仕える神が「あるもの」を少しだけ貸し、治癒力を挙げさせてくれたのだという。
おかげで少し時間が経った今では傷も深くなく、強い痛みがあるだけで済んでいる。とはいえ、激しい運動をしたり、無理に魔法を使えば傷が開いたり、完全に治る前に神力が解けたりしてしまう、と凪は言伝を預かっていた。




