馬鹿と変態と喪失症 ①
「孔! 孔! 目を覚ませ!」
「!!」
誰かに呼ばれる声で目が覚めた。床に倒れていたはずが、いつもの慣れた布団で横になっていて、視界にはらしくない顔をした凪がいた。意識が鮮明になると、首に激痛が走るようになり、自分がしでかしたことを思い出す。
「……お前、どうしてここに──」
「どうしたも何も、仕事をしていたら、ここの神様が言うんだよ! 君が首を切ったって、わざわざ僕のところに来たんだ!」
「なんだってそんな御大層な存在が……」
「ここはうちの神域だろ?」
神主である凪は、天地問わず、神々の言葉を受け取ることができる。孔の自宅は凪が継いだ土地、そしてかつては何らかの神域として扱われていた場所なのだという。森に宿る神が何らかの形で孔の異変に気付いたのだろう。それからはあちらこちらに話が広がり、嫌でも凪の耳に入ってしまうようになってしまった。
「そんなことより、どうしたは君だろう? なんで、突然首なんか……」
「分からない。気づいたらこんなことに……っつ……」
横になっているのでよく分からないが、自分が切ったであろう箇所が抉るように痛む。休むことなく続き、じわりじわりと彼の首を貫いてしまいそうな勢いであった。
「とりあえず、話しているうちに問題ないのなら良かった」
「痛むけど、話すことに関係はなさそうだ」
「それで、どうしてこんなことをしたの? 分からないなんて言い訳、僕には通じないって分かってるよね」
「はー年上のお兄サマには敵わねーや」
凪は人に原因を追及するとき、はっきりとした答えを出さないと認めない。人の心を読む魔法でも使えるのか、「分からない」の答え一つでもそれが嘘か真か完璧に見分けることができる。本当に分からないのなら理解するし、とりあえず誤魔化すためにでたらめなことを言うと嘘だと見抜いて事実を話すまで粘る。彼とその子供が数時間粘りあっているのを何度か見たことがある孔はすぐさま降参した。
「なんつーか、その……今までにないくらい、自分の境遇が嫌になったっていうか、自暴自棄というか……」
「そんな、突然首かっ切るくらい嫌になることある? 僕ら術者の中で一番前向きだったのは紛れもない君じゃないか……」
「後ろ向きで前に進んでるだけだろ、お前と同じだ。俺だってあの魔女だ、死にたいと思う時くらいいくらでもある」
「僕にも話してくれないのか」
「……情けなくて話せやしない。話すくらいなら、いっそ、この世なんか今すぐ消してやる」
「そんなこと言うなよ……分かったから……」
凪にしてみれば、こんな孔は珍しいことこの上ない。
「この世なんか消してしまう」
やってみなければ分からないが、彼がやろうと思えば簡単にやってのけてしまえることは知っている。だから凪は問い詰めるのをやめた。「なぜこんなことをしたのか」という問いには答えてくれたから。
孔にそこまで言わせてしまうようなことがあったのだとしたら、恐ろしいことだ。今の孔の状態は、幼い凪そのものの姿だ。
教育熱心な母の厳しい言葉と自分に置かれた運命に挟まれていつも泣いていた日々。そんなとき、街で酷い暴力を受けていた孔を見つけ、ただの出来心で近づけば、気づくと親友になっていた。
一人ぼっちだった凪にとってそれだけでも救いだったのに、硬派凪に様々な言葉をかけて凪に自信を持たせてきたのだ。自分だってたくさん辛いことがあったはずなのに。
「これ以上は何も言わないけど……この水はどうしたの?」
凪が手にしたのは、丸みを帯びた香水瓶のようなガラスの容器。中には無色透明の水のようなものが入っている。
「とっても清らかな聖水」
「魔女って悪魔と同じで聖水もダメなんじゃないの? まさかとは思うけど、これ……」
「……なんだっていいだろ」
何も言いたくないと訴える代わりに、凪に背中を向ける。しかし、凪はそれを見過ごさない。
「つまり、後ろめたいことがあるんだね?」
と、孔の肩を容赦なく掴んだ。




