アヌヤの本気
上げていた口角を下げて、目を眇めたアヌヤ。
そのアヌヤが初めて構えらしき構えを見せる。軽く肘を曲げて、拳を持ち上げる。
ボクシングのデトロイトスタイルに似た構え。
ネコ科の猛獣がその本性を剥き出しにした。
誰もがそう感じただろう。観客席が静まり返り、ブローニュが怖気ずいたのか、僅かに後ろに下がる。
「プッ」
アヌヤが口中の血を吐き出し、一気に前に出る。フェイントになる左の拳、その拳がスウェーバックしたブローニュの直前で止まり、右の拳が飛ぶ。
人体の発する音とは思えない音がスタジアムに鳴り響く。
アヌヤの拳を顔面で受けた状態、そのままの体勢でブローニュが後ろに傾いで、倒れる。
受け身も何もない。立ったまま意識を失い、そのまま倒れたのだ。
あまりのことに観客どころかアナウンサーのアラネまで言葉を失っている。
アヌヤがブローニュを跨いで立ち、顔を覗き込む。アヌヤが眉を顰め、ブローニュの頬を二度三度と軽く叩く。
「…うっ…」
ブローニュが覚醒する。
アヌヤの上体が起き上がり、ブローニュを見下ろす。
「立つんよ。」
アヌヤがブローニュから離れる。
「くっ」
ブローニュがゆっくりと立ち上がる。
アヌヤが堂々とした立ち姿で、ブローニュに‘おいで、おいで’と人差し指を曲げる。
ブローニュが二度三度と頭を振って、助走を付けてアヌヤに右正拳を打ち込む。
アヌヤはその正拳を避けようとしなかった。
激しい音を発してブローニュの正拳突きがアヌヤの顔面に突き刺さる。
アヌヤは倒れない。
ブローニュが拳を引く。
「今度はあたしの番なんよ。」
構えたブローニュにアヌヤの右拳が飛ぶ。
フォームもクソもない。自身の全身全霊を傾けた打撃だ。
聞くに堪えない破滅的な音と共にアヌヤの右拳がブローニュの顔面に突き刺さる。
今度はブローニュも倒れなかった。
体が揺れて、意識を失いかけていたが、それでも両足に力を込めて踏ん張った。
その姿を見てアヌヤが笑う。
「それでこそ父ちゃんの嫁さんなんよ。」
再び、アヌヤがブローニュに人差し指で来いと言う。
「プッ」
ブローニュが笑いながら、折れた前歯を噴き出す。
ブローニュがアヌヤの顔面に渾身の一撃を放つ。
アヌヤの顔面が後方に跳ね上がる。
それでも倒れない。
「チッ」
アヌヤが口中に指を入れ、折れた奥歯を摘まんで投げ捨てる。
アヌヤの一撃がブローニュの顔を貫く。
ブローニュの唇が切れて、残っていた前歯が折れる。
ブローニュの拳がアヌヤの顔面にめり込む。
アヌヤの前歯が折れる。
アヌヤの拳がブローニュの顔に撃ち込まれる。
ブローニュの拳がアヌヤの顔に撃ち込まれる。
アヌヤがブローニュを殴る。
ブローニュがアヌヤを殴る。
アヌヤが殴る。
ブローニュが殴る。
アヌヤ。
ブローニュ。
延々と繰り返される殴り合い。
アヌヤが殴り、そのまま、その場に立ち尽くして、ブローニュが殴って来るのを待つ。
ブローニュも殴ると、そのまま、そこに立って、アヌヤが殴って来るのを待つ。
二人が発する破滅的な音。
その音だけがスタジアムに鳴り響く。
呆然と立ち尽くす観客たち。
百万人を支配する、顔面を殴る音。
その音が鳴り響くたびに二人の顔が変形する。
変形するたびに血飛沫が飛ぶ。
血飛沫に歯が混じる。
何十発目になるかわからない一撃。
その一撃を喰らってブローニュが前のめりに倒れた。
そのブローニュの髪を引き掴んで、アヌヤが叫ぶ。
「立てっ!!立つんよっ!!そんなことで!父ちゃんの嫁さんが務まると思ってんかよっ!!」
引き上げられたブローニュの顔は無残としか言いようのない状態だった。
その顔が白目を剥いている。
アヌヤがブローニュの頬を叩く。
「…うっ…」
ブローニュが意識を取り戻し、アヌヤが離れる。
両者共に瞼が腫れあがり、血を大量に流している。その重々しい瞼の隙間から、ブローニュがアヌヤを認識し、塞がり掛けた目に気力が戻る。
人間の気力は無限ではない。肉体が限界を迎えれば、精神も限界を迎える。
獣人はマイクロマシン製造器官を身の内に宿しており、その治癒能力は常人の遥か高みにある。再生能力と言い換えてもいいほどの能力だ。特にアヌヤは、俺と霊子体が繋がっているため、常人と比べれば不死身と言ってもイイ程の能力だ。
そのアヌヤに対してブローニュは人間だ。しかしながら、トガナキノの精霊薬を常時服用しているため、獣人と同程度の治癒能力を有している。
問題は物質の保有量だ。
獣人の食事量は人間の三倍だ。それだけ、体の中に細胞を作り出す栄養素を保有していることになる。だから、常人と比べた時、不死身かと思える治癒能力を発揮するのだ。
ブローニュが立ち上がる。
アシストスーツのお蔭で、シッカリとした足取りだ。それでも。そう、それでもよろける。
ブローニュが小指から握り込み、拳をつくる。
構える。
傷だらけの唇を歪めてアヌヤが笑う。
ブローニュが走っている。傍目から見れば、千鳥足だが、明らかに走っている。
体重を乗せてアヌヤの顔面に拳を奔らせる。
音もなくブローニュの拳がアヌヤの顔面に当たる。
そのまま、その場に頽れる。
アヌヤの顔面に拳を押し付けたまま、ブローニュが膝から折れる。
静かなスタジアムにブローニュの倒れる音だけが響き渡る。
空気さえも固まったかのような静けさ。
その空気の中、アヌヤがブローニュの髪を掴み、ブローニュを引き上げる。
自分の顔の高さにまで引き上げ、空いた右拳を持ち上げる。
殴ろうとしている。
誰の目にも明らかだ。
マイクロマシンは重要器官から修復する。一撃で意識を刈り取らなければ、何度でも立ち上がる。
しかし、ブローニュの身体は限界だ。だから、殴られることもなく倒れた。アヌヤにはそのことがわかっている。わかっているのにも関わらず、殴ろうとしている。
嬲り殺しだ。
これから行われるのは殴り合いでも喧嘩でもない。
一方的な嬲り殺し。
「…やめろ…」
どこかから起こる囁くような叫び。
「…やめろっ」
さざ波のように広がる。
「やめろオオオオッ!」
「やめてあげてエエエエッ!!」
「やめろおおおおっ!!」
「やめてエエエエエっ!!」
囁きが怒号に変わり、絶叫となる。
俺は静かに見詰めていた。
静かに、大勢の国民に囲まれながら、俺は、一人静かにアヌヤを見詰めていた。
百万人を超えるスタジアムの観客に囲まれながら、俺は一人だった。
その俺の傍にアヌヤがいる。
大勢の国民の中、俺は孤独でありながら、アヌヤだけが傍に居た。
「やっかましいいいいいいいっ!!」
アヌヤの怒号。
一瞬で観客が静まり返る。
「これは!あたしがっ!ブローニュに与えた試練なんよっ!!テメエらが口出しする権利なんてっ!これっぽっちもねえんよっ!!」
アヌヤが腫れ上がった顔を振り上げ、観客に、全国民に牙を剥く。
「テメエらだっておんなじなんよっ!!」
アヌヤが殴ろうとしていた右拳を振り上げる。
「テメエらは打ちのめしたジェルメノム帝国の国民にっ!あたしがっ!!今っ!ブローニュにしてることと!おんなじことをしてるんよっ!!」
青い空の下、堂々と立つアヌヤ。なんら恥じることの無い、その立ち姿は太陽を背負っていた。
振り上げた右拳を横に振り払う。
「ヤート族は座るんよっ!!」
ザワリと動揺が観客席を奔る。
さざ波のように、徐々に、静かに、観客がまばらに座る。
「元奴隷っ!!座るんよォォっ!!」
まばらにだが、さっきよりも多くの観客が座る。
「獣人っ!!座るんよォォォっ!!」
まばらに少数の観客が座る。
「この国に来るまで喰えなった奴らっ!!座るんよォォォっ!!」
大多数の観客が座る。
「元悪党っ!!座るんよっ!!」
再び、少数の人間が座る。そして、ドルアジもここで座った。
「戦争ばっかしてたァァッ!元貴族に王族ううっ!!座るんよオオオオっ!!」
俺を残して、全員が座る。カルザンも座った。
百万人を超す観客たち。このスタジアムに立っているのは俺とアヌヤだけだ。
「テメエらああ!!この国に来るまでは!!どんな思いで生きてたんよっ!忘れたんかよっ!どんな暮らしだったんよっ!おんなじ思いを!それ以下の思いをジェルメノム帝国の国民に味わわせるんかよっ!」
絶叫と共に血飛沫が飛び、アヌヤが血に塗れた闘演台を睨み付ける。
「テメエらアアアアアアッ!!」
アヌヤが顔を振り上げ天に向かって吠える。
「父ちゃんを裏切るんじゃねぇよオオオオオオオオオオッ!!」
俺は、アヌヤの絶叫を追って空を仰いでいた。
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