88.ギュスターブ帝国の思惑
「……という訳なんです、ヴェル様」
私が教会のマリーさんやレブラント王国のパンチョス侯爵から聞いた話。神聖ギュスターブ帝国のルーベンス侵攻。私の問いにヴェルギリウス様が静かに頷く。しかしそれに対しての返答は無い。
「あの、ヴェル様? 聞いていますか? ヴェル様は私に何もするなと仰いましたが、戦争になれば私の部隊も動かなくてはなりません。そうなる前に打てる手は打っておきたいのですが」
ここはいつも通りの研究所所長室、ではない。王宮にある魔法大隊本部、その大隊長室に私は隊長であるヴェルギリウス様を訪ねていた。私が動くとなれば研究所の所長としてではなく、魔法大隊の小隊長としてだと思ったからだ。
「聞いている。だが先にも言ったが其方が動く事は無い。それはこの状況に於いても変わらぬ」
やがてヴェルギリウス様は私に向けてその重い口を開いた。だがそれはやはり私が想定していた解答で。
「ですが既に研究所にも教会の信徒から研究を止めるようにとの嘆願書が寄せられています。これらが帝国からの要請ではなく、王国の国民から発せられたメッセージであるという事が事態を深刻にしています」
そう、これまで私の耳の届いていなかっただけで、教会の教えを信じるルーベンス王国の国民からも医療行為に対する拒否反応は表れ始めていた。ラプラスさんがその情報を伏せていたのだ。
といってもラプラスさんにしてもヴェル様の指示だろうから私が責める訳にはいかないのだが。
「この国にもボグナーツ教会の信徒は多い。其方の言う通り、国民の意見が割れているという事が問題を深刻化しているという事は私も理解している。だが幸いにしてそれら信徒が暴徒化する恐れは無いというのが王国の判断だ。それは私も正しいと思う。今のところ、だがな」
確かに強硬策に出てくる程の熱心な信徒はこの王国には少ないだろう。中には居るかも知れないが、それはあくまで個人で、それが組織化する恐れは今のところ無いというのは私も同意見だ。それは一つにはボグナーツ正教会本部との物理的距離が関係している。その距離はそのまま精神的距離に繋がる。
しかしそこに教会からの直接工作が加われば事態がどう動くかは予想が出来ない。私はその事を懸念していた。
「王国側でも其方の知る事情は把握している。そしてそれに対する対策も始まっている。其方の心配する事では無い。其方も存じているとは思うが、研究所に対してその研究を疑問視する声以上に、研究成果に対する称賛の声は大きい。医療によってその生命を救われた者達は大勢いるのだ。このまま研究を続けてくれればよい」
それはヴェルギリウス様の言う通りだった。だからここで研究自体を止めてしまう訳にはいかない。その為にも何か対策を取らなければという話なのだが。
「ですがヴェル様、相手も、ギュスターブ帝国もここまであからさまな動きを見せているという事は、この件に関して退く気は無いのでしょう。既に武力行使に出ようとしています。このままでは戦争になります」
これを止める手立ては今のところ無い。幸いにして陸上からの侵攻はレブラント王国が間に存在する以上不可能だが、海からの危険は目前に迫っている。相手の戦力、その魔法兵器がどれ程のものか定かではないが、その対策も取らねばならない筈だ。
「うむ、それについてはこちらから先手を打つ事は無い。魔法船団の襲来に備えて海岸沿いの街では専守防衛に努めるというのが軍部の方針、これは決定事項だ」
まあ、こちらから手を出す事も無いだろう。大義名分も立たない。しかしそうすると戦争になるのは避けられないのではないか。ヴェルギリウス様の態度がどうも煮え切らない。
「魔法船団の詳細については軍部で把握しておられますか? それがどの程度の脅威と為り得るのか」
結局のところ帝国の武力という意味では、その一点に尽きる。
「鉄鋼船であるが故に外部からの攻撃に強い。また魔法による砲撃は広範囲に及び魔法障壁が効かないという事がわかっている。だが……」
それだけだ、とヴェル様。なるほどそれは何もわかっていない、という事に等しい。
「私が調査しましょうか?」
魔法障壁が効かないというのが気になる。魔法の仕組みがわかればその辺りの事もわかると思ったのだが。
「必要無い。何度も言うがこの件で其方の出番は無い」
ヴェルギリウス様の意思は固い。
「わかりました」
私は席を立つ。その声が苛立っているのが自分でもわかる。だって本当はわかっていない、納得していないのだ。だけど…… 仕方無い。
ここでこれ以上言葉を重ねても前には進まない。きっとまだ何か足りないものがあるのだ。私の知らない事情が。
「アインスター! いや、いい。これまで通り研究を続けるように」
席を立った私の背中にヴェルギリウス様の言葉が突き刺さる。その言葉に私は振り向かなかった。そしてそのまま部屋を出ていったのだった。
「アインちゃん! どうしたんだい、浮かない顔をして」
大隊長室を出た私にそう言って声を掛けたのは、今日も笑顔眩しいギルベルト団長だった。
「こんにちは、ギルベルト様。私、そんな顔をしていましたか?」
私の挨拶に、ああ、と団長。どうやら私と入れ違いにヴェルギリウス様を訪ねるところらしい。私は事のあらましを団長に話す。ギルベルト団長なら事情もよく知っていると思ったのだ。
「ふぅん、それでアインちゃんもヴェルギリウスのところにやってきたのか。まあ奴の言い分も尤もだけど」
そう言って団長は溜息を一つ吐いた。
「アインちゃん、君の言いたい事もわかる。でもあまりヴェルギリウスの奴を責めないでやって欲しい。言い方は悪いが、この件では俺も奴に賛成だ。今回の事では君がその中心にいる、だから余計に奴も慎重なのさ」
「私が中心? 医療の事でしょうか。確かにそれは私の研究です。だからこそ私が何とかしたいのですが」
しかし私の言葉に団長は首を振り。
「その事もそうだが…… あれ? もしかしてアインちゃんはヴェルギリウスから聞いていないのかい? それは失敗したかな、でも俺はアインちゃんには伝えた方が良いと言ったんだが」
どういう事だろう。やっぱり何か私の知らない事情があるのか。
「教えて下さい、ギルベルト様! それはどういう事なのですか? 私にも正確な情報が必要だと思うのです!」
そう、情報。抜けているピース、それをこの人は知っている! そんな私の剣幕に圧されてか、もごもごと口籠っていたギルベルト団長はやがて決心したように語り始めた。
「実は、神聖ギュスターブ帝国は教皇パロデアウスの名においてアインちゃん、君の身柄を要求している。その要求が呑めない場合は王国に向けて攻撃を開始する、と」
勿論、王国側はそのような要求を呑む筈がない、とギルベルト団長は付け加えた。
「だからアインちゃんは今、派手に動かない方がいいのさ。標的にされる恐れがあるからね」
なるほど、そういう訳だったのか。これで繋がった。どうりでヴェルギリウス様の歯切れも悪かった筈だ。私が動く事で問題が大きくなる、か。
そしてヴェル様がその事を私に話さなかった理由も良く解る。きっとギルベルト団長にはその事は解らない。
――――科学者ではないから。
「ありがとうございます、ギルベルト様。これですっきりしました。ヴェルギリウス様もやはりお考えがあっての事だったのですね」
当分の間、大人しくしています。私がそう言うと、団長は朗らかな笑顔で頷き、ヴェルギリウス様の待つ大隊長室へと消えていった。
私はこの日、嘘をついた。
次回は12月20日17:00更新です。